原作編
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暗く湿り、淀んだ空気がまとわりつく。
周囲の怒声、罵声を意に介さず、それを穿つ様に高いヒールの音を響かせる。
伸ばした手に、命を失くした乾いた感触が伝わる。
ほとんど空洞のような落ち窪んだ眼窩を覗きこむ。
目が合った。
四つの目がこちらを見返す。
そこに触らないように頬を撫でる。瑞々しく柔らかい子どもの肌。
撫でられて、くすぐったそうにぎゅっと四つ目をつむる。
広がるのは子どもと、自身の血。
満身創痍。どちらとも、もう助からないことが分かる。
辺りには常人にさえ分かる程に呪いが染み付いていた。
ここはもう駄目だろう。禁域にするか、あるいはーー無かったことにするか。
横たわる子どもに目を戻す。その頬をいつかのようにそっと撫でた。
巡る。廻る。
赤子がこちらを見上げている。四つ目に四つ腕の異形の赤子。
抱き上げた赤子はいっそ恐ろしい程に柔らかく、温かかった。顔を近づけると、赤子特有の乳の匂いがした。
四本の腕でしっかりしがみつく幼子。見上げてきた目は赤子のものと同じ色。子どもらしく丸みのある頬を両手で挟んで撫でてやると、もっと撫でろというように頬を手に押し付けてきた。
子どもは随分大きくなった。男の子の成長期はまだ先のはずだが、どんどん背が伸びている。この子は手足が大きいから、かなり背が高くなるだろう。
子どもの成長を思いながら、今はまだ彼女から見下ろせる頭を撫でた。
彼をもう子どもとは呼べなくなった。昔は彼女が膝に乗せて抱き抱えていたのに、今ではすっかり逆になっている。
無事に大きくなってくれた。喜ばしいことだが、少しだけ寂しい。
頭に手を伸ばすと、抵抗せずわずかに頭を傾けてくれる。ああ、そこは変わらないと笑みがこぼれた。
「夢月」
どこかから、何かが砕ける音がした。
それは、彼女という存在が、崩れ壊れていく音。
そうか、これは、走馬灯か
「夢月、」
あの子が呼んでいる。
名を呼ばれ、緩慢に目を開ける。その動作すらひどく力が要った。
夢月を見る彼の四つ目に、抱えられている彼女の姿が写っている。分かる範囲だけでも、顔の半分と喉を潰されどこもかしこもぼろぼろ。片足の感覚もない。きっと自分で思うより遥かに無残な有り様だろう。
辺りは静かだった。
降り積もった雪に何もかもが吸い込まれていくような静寂。そこに命の気配はなく、この場で生きているのは彼と彼女の二人だけなのだろう。
――それも、もうすぐ一人になる。
ああ、いつかと逆になるな。
笑いそうになる。笑ったと思ったのに、残り半分の表情はもう動かなかった。
「何を、笑っている」
「……、」
「いや、いい。後で聞く」
夢月を抱き抱えた方とは反対の腕がかざされ、宿儺が反転術式を使おうとしていると分かった。
術師の中でも使い手の稀な、治癒の術式。
宿儺はそれを自身のみならず、他者の損なわれた肉体をも再生させることが出来た。
一定の範囲を越えればそれも出来なくなるが……夢月の命はまだここにある。
充分治せると踏んだのだろう。
「……なぜ、」
ーー反転術式が通らない。
それどころか、夢月の体は傷口からゆるやかに結晶化し、そこから砕けて消えていっていた。
彼女は今、死ぬのではなく――魂ごと、滅びかけている。
「骸ひとつ遺さず逝く気か」
宿儺が夢月をいっとう強く引き寄せる。
徐々に視界が霞む。そのせいで、どんな表情をしているか分からなかった。
手にも力が入らない。それでも、朧気な輪郭に手を伸ばして、探し当てた目元をそっと指で拭う。
そこは濡れているということはなかったが。
目元に触れていた手を頭までまわしてそっと引き寄せる。
宿儺は抗わない。すんなり肩口におさまった可愛い養い子の頭をゆっくりと撫でた。
喉が潰され、もはやそれを治す力もない夢月には、彼の名前を呼んでやることすらできない。
けれど喉が潰れたことはせめてもの幸いかもしれない。きっと今は、何を言っても呪いになってしまっただろうから。
――可愛い私の坊や。どうか幸せで
死にゆく者の言葉の強さは嫌というほど知っていた。それは遺された者を生涯に渡って縛るということも。
それでも、こうして抱きしめるくらいは、許されるだろうか。
「……俺が、」
何も感じさせない声。
「そんなお綺麗な終わり方を、許すと思うのか」
肩口から顔をあげ、四つ目がこちらを見る。
鼻先を擦り合わせるようにして目を覗きこまれる。視界も霞んで徐々に失われていく中で、その色が強烈に焼き付けられる。
「許さん」
獣の唸りだ。
「お前は永劫俺のものだ。魂が朽ちようが何だろうが、逃がさんぞ」
蠢き、揺らめく眼が一度離れたかと思うと、左手薬指に痛みが走る。
まさしく千切らんばかりに、指の根本に宿儺が噛みつく。まだ結晶化していない、生身の傷口から流し込まれるのは、宿儺の呪力だ。
――きっとこれは、彼女にとって最も忌まわしい呪いになる
どうしようもない。もはや彼女に抗う力は残っていない。
呪いが朽ちかけた魂を縛っていくのを感じながら
――そうして、彼女は滅んだ。
巡る。廻る。
ああ、それは昔々の話。