短編
私は、街の中にあるカフェにいた。氷も溶けてぬるくなったアイスコーヒーを横目に、頬杖をついたまま顔を外に向ける。窓には次々と小さな水滴が当たっている。道行く人は皆一様に傘を差していた。
あぁ、そうだ。あの日も、こんな雨だった。
灰色の空が、しとしとと静かな涙を流す中、私は立ち尽くしていた。彼を乗せた荷馬車は、とっくに見えなくなっていた。この村を出ていく彼の見送りは、私だけだった。
ずっと都会に憧れていた、彼。この村をもっとよくできると画期的な発案をしていた、彼。だが、閉鎖的なこの村は、変化を嫌った。そして、変化を求める彼を、疎むようになった。
だからだろう。彼は、この村を出ていくことを決意した。彼の親族は、何も言わなかった。彼を友と呼んでいた人は、彼から距離を置いていた。だから、彼を引き留められるとすれば、私だけだった。
だけど、私には止められなかった。足枷にはなりたくなかった。離れるのは辛い、その言葉を飲みこんでしまった。私がうじうじしている間にこの日を迎え、彼は村を出て行った。もう、二度と戻らない、と宣言して。
彼を見送った後、ぽつんと一人、取り残された私。雨に包まれたまま、動けずにいた。
とうとう、彼は行ってしまった。ずっと、ずっと、一緒にいたのに。今更彼に手を伸ばしても、もう何も掴めない。どうして私を置いていく決断をしたの。呪祖のような小言が心を蝕む。
だが、心の奥底では分かっているのだ。彼をこの地に押し込めてはおけないと。一緒にいたいのならば、私も出ればよかったのだと。追いかけたい。だけど、できない。私には、彼のように外に出る勇気はなかった。羨望の眼差しを陰らせながら、この地で足踏みするしかなかった。
日が沈む時間が迫り、どんどん暗くなっていく中、やはり私は、動けなかった。
あの時、身動きのとれなかった私は、結局一人、都会に出ている。
なんてことはない。あの村は、地上げ屋に目をつけられて、消滅した。巡り巡って、今やダムの底である。
宣言どおり、彼が村に戻ることはなかった。ただの一度も。それどころか、手紙一つ寄越さなかった。友にも、親族にも、……私にも。結局私は、その程度の存在だったということだ。
では、何故、私は今、彼のことを思い出していたか。雨が降っているからか?いやいや。雨の度に彼を思い出すなんてこと、していない。
実は、今の今まで、彼と相対していた。アイスコーヒーは、その名残である。
街でばったり、彼と再会した。成長して、身体は大きくなっていたが、しかし、一目で彼と分かった。私に気付いた彼も、すぐに私と分かったようだ。一瞬目を見開いたが、すぐ、なんともくたびれた笑みを浮かべ、私の方に歩み寄ってきた。そして、少し話さないかと提案したのだ。積もる話がある。聞きたいことも山ほどある。だから、誘われるがままに、カフェに入った。
カフェに入って落ち着くと、彼の長い話が始まった。村を出てから街にたどり着くまでどうだったとか。街に着いてから住まいや仕事を探すのに苦労したとか。今の仕事がどうとか。自分はもっと上を目指せる、こんなところで終わる人間じゃない、とか。とか。とか。
彼はこんな人だっただろうか。そんなことを思いながら、耳を傾ける。私が口を挟む隙は、微塵もなかった。
一通り話して、彼は満足したのか。そろそろ行く、お前も元気でな、なんて残して、彼は颯爽と去っていった。
そして、今に至る。延々と彼の与太話を聞かされて、正直参っていた。
彼が村のことを聞くことはなかった。私のことを聞くこともなかった。一貫して、自分のことばかり。彼は、気にならなかったのだろうか。村を出てから、一度たりとも。
私は、気になっていた。村を出てから、彼はどうしているのだろうか、と。元気にしているだろうか、と。今日、その答えが得られて、私は満足している。………疲労の方が強いことは、否定しない。
彼と話す前、ワクワクしていた。違う道を選んだとはいえ、同郷。情報交換をしつつ、昔を懐かしむことができるだろうと。だが、蓋を開けてみればどうだ。彼にとって、村は――私は、捨て去ったものだった。なんだかやるせない。
だが、ようやく、私も彼のことを吹っ切れた気がする。多分この先、彼はどうしているだろうと考えることはないだろう。思い出すことも減るだろう。人間関係なんて、そんなものだ。むしろ、ずっと気にしていた私が、重いと言われてしまうのかもしれない。
机の上には、ぬるくなったアイスコーヒー。彼が飲んでいた分は、とっくに片付けられていた。少し迷って、私はコップを手に取った。残りのアイスコーヒーを流し込む。立ち上がって席を一瞥。そして、席に背を向けた。振り返ることなく、カフェを後にする。
カフェを出ると、雨は小雨になっていた。サーと、霧のような雨。多少濡れるだろうが、びしょ濡れにはならない程度。傘を持っていたが、差さずに歩き出した。不快感はない。むしろ、気持ちいい。霧のヴェールを潜り抜けて、私は、私の道を進んだ。
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