21.繋ぎ止める
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目を開けると川岸に立っていた。辺りはぼんやりと霞がかかり、空気は薄く澄んでいる。自分以外に人の姿は無い。川の流れは穏やかだったが、川幅はとても広く向こう岸には彼岸花の群生が見られた。川の水は透明で小石や砂利以外には何も見えない。美しい風景だったが、どこか恐ろしい冷酷さも感じられた。
恐らく……来てはいけない場所なのだ。
赤い彼岸花の咲く川岸に行けば二度と戻れない。この川は此岸と彼岸を分ける三途の川なのだろう。ともすると、自分の肉体は生死をさまよっている最中なのだろうか。それとも、既に死んでしまった後なのだろうか。
ぱしゃんと、足が一歩前に勝手に出ていた。くるぶしまでの浅い川に足が一歩踏み出ては、また一歩また一歩と川の中へと進んでいる。ぱしゃんぱしゃんと川面と砂利を踏み締め、足袋は濡れた。どうやら自分の意思とは関係なく、体は向こう岸へと渡ろうとしているようだった。
待て、行くんじゃない。そっちではない。止まれ──
帰れるならば帰りたい。残して来た隊士やその後の現場の状況が気がかりだった。上弦とやり合っている最中から後の記憶が曖昧で、鬼を取り逃がした記憶はある。まだやるべきことが残っているだろう。
心の中で強く思っても、足は止まることなく引き寄せられるように一歩前へと進んでゆく。一歩進むごとに少しずつ川が深くなってゆく。とうとう膝下まで川につかってしまった。足はなおも川中に向かい、自分の意思とは関係なく歩を進めている。
体がもう朽ちてしまったのかもしれない。心臓は止まってしまったのか。戻るべき肉体がもうこの世に無いのかもしれない……
そう思うと、途端に川は深くなり膝まで水に浸かった。流れは絶えず穏やかで心地良く、冷たさは感じていない。
このまま運命に従うしかないのかそう思われた時、
「杏寿郎」
頭上からふいに声が降って来た。
見上げると、いつの間にか朱色の橋が川に掛かり、欄干に手を添えこちらを見下ろしてる母が立っていた。
「母上……」
懐かしさと愛おしさが胸をつく前に、母は口を開いた。
「杏寿郎、貴方がなぜここにいるのですか?」
にこりともしない、面のような凛とした顔で真っ直ぐと見下ろしていた。あの時の記憶と何ら変わらない美しい母の姿。
「貴方がなぜここにいるのですか?」
再び、抑揚のない声で言った。じっと橋の上からこちらを見下ろしている。
「……恐らく任務で命を落としたのだと思います。俺はまだ死にたくありません。勝手に足が動くのです」
母はほんの少し眉をひそめ、訝しい顔付きになった。
「向こうに渡ると二度と戻れなくなりますよ。流されても同じことです」
足はなおも川を渡ろうと一歩一歩と進んでいる。川は穏やかな流れであったが、体に重くまとわりつき、力を入れていないとすぐに流されてしまいそうだった。
「この場所は天寿を全うした者が来るところですよ。ですが……舟も橋も無い。様子がおかしいですね。杏寿郎、貴方はここにいて良いのですか?」
「良くはありません。やるべきことがまだ残っています」
母は顎に手を添えて何かを考えているようだった。それでも足は前へと進んでいる。
「……杏寿郎、自分の中で既に諦めているのではないですか。もうここまでだと。やり切ったと」
いや、まさかそんな……それはない。それでも足は前へと進んでゆく。もう戻れないのかもしれないと、心の奥深くではほんの小さくわずかにでも思っているのかもしれない。いや、まさか。自分で自分を諦めることが、こんなにも容易いことなのかと唖然とする。しかし、それでもなお向こう岸へ進もうとする体が、母の言うことを証明しているようでもある。恐ろしかった。
「血が滲むような努力をして柱になったのでしょう。父上のように立派な炎柱となり、活躍するのではなかったのですか?」
とうとう川の水は腰の辺りまできた。母は着物の裾を整えながら膝を折ってしゃがんだ。
「まだやるべきことがたくさん残っているでしょう。妻を…… 葉子さんを泣かすことは私が許しませんよ。帰りなさい」
片方の手で欄干につかまり体を支え、空いている方の手を差し出してきた。
「つかまりなさい。ここに来るには早過ぎます」
白くしなやかな手が伸びてきた。
ふいに、幼い頃の記憶がよみがえる。
母はいつもそうだった。厳しいことを言うも、俺が挫けそうになった時、最後には必ず助けてくれた。
母の手をつかもうと手を伸ばした。
足はなおも川中に進み、川の水は胸の辺りまできている。
差し出された白い手をつかむと、冷たくて生者の質感では無かった。それが酷く悲しく、やはり確かに母は死んだのだ、死者なのだと再び認識をする。母の手の温もりがないことに戸惑っていると、強い力で手を握り返された。
母はいつもそうだった。まめだらけで木刀の柄が握れなくなった時も、強く手を握りしめ励ましてくれた。父のように上手く呼吸が扱えない時もきつく抱き締め──
「杏寿郎なら大丈夫ですよ。ゆっくり、落ち着きなさい。私はいつも見守っていますからね」
母に言われると、そうか自分はまだまだやれるのだと体の中から力が湧いた。
そうだ、俺はこんなところでは死ねない。やるべきことがまだあるのだ。そう思うと、手はさらに強く握られ今までに感じたことのない大きな力でぐいと引き上げられた。
「……本当に大きくなりましたね」
顔をあげると微笑んでいる母の顔が一瞬だけ見えて景色はぐるりと反転し、陽が差し込む部屋の中にいた。