14.ある日の午後・前
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医者を玄関まで送り、真っ直ぐではない背中が家の通りを曲がり見えなくなるまで二人は老人の背中を見送った。家に戻ろうかと玄関に手を掛けたところで杏寿郎が言った。
「葉子、昼を食べに外に出ないか」
願ってもない申し出だった。
「早くて今夜。それか明日には俺は任務に出るだろう。葉子とながい間一緒にいられる時間も今日で終わりだろうからな」
「そうですね……すぐに支度をします」
杏寿郎の言葉にちくりと胸に棘が刺さったかのようだったが、気にしないふりをして葉子は急いで寝室へと戻った。
姿見で着物の襟や帯を整える。そして槇寿郎が置いてくれている亡き義母である瑠火の鏡台の前に座り、簡単に髪を結い直した。せっかくだからと引き出しから紅を出し、自分の唇にひいた。華やかな赤色が顔色を明るく見せ、心を浮き立たせた。近所に食事をしに行くだけなのに、こんなにもそわそわとしている自分が何だかおかしかった。
居間に行くと杏寿郎は槇寿郎と一緒にいた。槇寿郎は新聞を広げ、書かれた文字を追っていた。
「……では、葉子と出掛けて来ます」
「俺のことは気にせんで良い。勝手にやってる。午後から出掛けるかもしれん。夕飯も適当に済ます。二人でゆっくりしてくると良い」
「ありがとうございます。行って参ります」
槇寿郎に軽く会釈をし、杏寿郎と玄関に向かった。二人で出掛けるのはいつぶりだろうか。明日か、もしかすると今夜からか……任務に出てしまえば何日も会えないのは当たり前で、杏寿郎と離れるのは寂しい。そんな葉子の気持ちを知ってか知らずかこうして食事に誘ってくれた。寂しいと思う反面、とても嬉しくて葉子は気持ちがそわそわと忙しなかった。
「葉子」
先に草履を履いた杏寿郎が続いて草履を履こうとしている葉子に手を差し出し、履きやすいようにと体をそっと支えた。
「紅をさしたのだな。とても似合っている」
真っ直ぐと葉子を見つめるその顔がとても穏やかに情熱的で、葉子は思わず頬を赤らめた。この時間がいつまでも続けば良いのに……そう思わずにはいられなかった。
「さあ行こう。何か食べたいものはあるか?」
「杏寿郎さんと一緒に行くところなら何でも良いです」
「嬉しいことを言ってくれるな! しかし、それが一番困る返事かもしれないな! よし、じゃあ俺の食べたい物にしよう」
「はい」
葉子は玄関の外に出るとばさと日傘をさした。
夏の日差しは照りつけるように暑く、しかし風は徐々に秋めいている気がした。傘の影が葉子をすっぽりと包み、その隣には杏寿郎の影が伸びている。
「俺が持とう」
杏寿郎は葉子の差している日傘を持つとぐいと側に寄った。顔を見上げればにっこりと微笑む優しい瞳と目が合った。
「さぁ、行こう」
・・・
杏寿郎に連れられ、二人は町中の通りを歩いていた。その間も他愛のない会話をし、二人で笑い、時折り立ち止まり、空や野に咲く草花を眺めたり、通り過ぎる店を少しのぞいてみたり、すれ違う人を振り返ったり。
葉子も町中を過ぎた辺りからどこに向かっているのかわからなくなった。町を過ぎて川沿いを歩いている。
「杏寿郎さん、どこに向かってますか?」
「もうすぐだ。涼しい場所が良いだろうと思ってな。葉子を抱えて走ればすぐに着くが、どうする?」
「目立つのは恥ずかしいです……」
「わかった」
家を出てからすぐに同じ質問をされてはいたが、葉子は断っていた。町中を杏寿郎に抱えられて走るのは目立ち、今後買い物に行く時に支障が出る……ような気がする。
横にいる杏寿郎を見上げれば真っ直ぐと前を向き、実に涼しげであった。行く場所は最初から決めてあったのだろう。その足取りは軽く、決して急ぐわけでもなく葉子の歩く速さに合わせている。葉子はそんな夫の気遣いに心の中でひっそりと感謝をした。
右手にある川を手漕ぎ舟が進み、川面はきらきらと輝いている。時折り、近所の子供らが川辺で遊ぶ明るい声が聞こえている。千寿郎よりもずっと年下の子らであった。
そんなのどかな光景を見ていると、ふいに杏寿郎の歩が止まった。
「着いたな。ここで昼を食べよう」
家の門よりもひと回り小さな、こじんまりとした家屋であった。屋号らしきものは見当たらないが、手入れの行き届いた生垣の新緑が美しく玄関には紺地の暖簾が掛けられている。
杏寿郎は日傘を閉じると、先に門を潜り玄関の引戸を開けて声を掛けた。
「こんにちは! 今日はやっていますか!」
とびきり大きな声が家の中に通り、しばらくして「はーい、どうぞ」と、奥の方から声が聞こえた。
「営業中とのことだ。入ろう」
杏寿郎が暖簾をあげ、葉子を先へ入るようにと促す。店の者らしき人からは「営業中」とはひと言も声が掛けられていないが、杏寿郎はこの店のことは前から知っているのだろうか。暖簾の奥の玄関も、本当に普通の家屋のようで、中に入るのがためらわれた。玄関にはいくつかの草履が置かれており、奥からは人の話し声も聞こる。
そうこうしているうちに杏寿郎は引戸を閉め、葉子よりも先へ家の中へと上がった。葉子も草履を揃えて後ろに続く。
奥からとたとたと、割烹着を着た婦人がやってきて二人の姿を見るや
「あら、煉獄さんのところの。いらっしゃいませ」
「女将、二階は空いていますか?」
「今、片付けますから。どうぞどうぞ上がって下さいまし」
忙しなく二階への階段を行く女将の後ろを二人はゆっくりと後からついて行った。