6.煩悶の夜
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程なくして、昔からの馴染みだという医者の男が槇寿郎と共にやって来た。
分厚い眼鏡を掛けた老人で「夜分に失礼しますよ」と少し曲がった背中をさすりながら布団に横たわる杏寿郎の側に座った。白い髪の毛をざんばらに逆立て、見るからに怪しい風貌であった。医者は枕元の行灯をもっと手近に引いて手元を明るくする。掛けられている布団をそっと剥がして、血の滲む脇腹を分厚い眼鏡を上げ下げしながら見た。
「あんらー辛そうだね。脂汗かいてるよ。せっかく上手に包帯巻いてくれてるけども。外しますよ」
手際良く手にしたはさみで葉子の巻いた包帯をちょきちょきと切っていく。赤く染まった布は乾いた血と反応をし、皮膚にくっついている。医者は枕元に置かれた桶の水に指をちゃぽんと浸し、こびりついた布をべりべりと剥がした。
「あーこれね。縫った傷が開いてるね。なぁんで動いちゃったかなー」
それから首に掛けていた聴診器を杏寿郎の胸に当て、きつく閉じている目を開き、口元に耳を近付けた。
側にいる槇寿郎も葉子も沈黙を守り、医者の一連の所作を見守る。
「傷から悪い菌が入って悪さしてるね。熱で意識障害起こしてるね。今日、熱が下がらなかったらちょっとまずいかもわからないね」
あっけらかんと恐ろしい事を言う医者に、思わず葉子は「えっ」と声が出そうになった。
「脇腹の傷は縫っとくけど、次にまた開いたら
難しいかもわからないね」
"まずい、難しい"。医者の口からは聞きたくのない単語が並ぶ。胸がきゅうと鷲掴みにされたような心地の悪さを感じた。肝が冷やりとする。
葉子は苦しそうにしている杏寿郎の顔を見た。なぜこんな状態で帰って来たのか。
医者は自身で持って来た革の鞄を開くと、糸と針を皺のあるか細い手でひょいと持った。
「ちゃちゃっと終わらせようかね。みんな眠いもんねぇ」
・・・
杏寿郎の傷の縫合が終わり、医者は手拭いで手についた汚れを拭っていた。
見掛けによらず、縫合の際の手つきは滑らかで手際が良かった。腕が良いらしい。藪医者では無さそうで、葉子はその点ではほっとしていた。
「……じゃあ、私は帰りますよ」
「ありがとうございました」
ふと、医者は眼鏡を上げて神妙な顔をしている葉子を目を細めて見た。その後、人差し指を立てて杏寿郎と葉子を交互に指差し、槇寿郎に目配せをした。槇寿郎は無反応だった。
「杏坊っちゃんのお嫁さん? あ、そう。これはこれは」
そう言って、医者は葉子の手を両手で握りふりふりと上下に振って握手をした。
「ふむふむ。医者ってのはね、いつも最悪の事を言っとくのよ。そうしとくと身構えるでしょう。いろいろと。そんなわけで、そんな悲しい顔してないで、どしっと構えてなさいな。あのぉ何だっけ。鬼、鬼狩り隊だっけ?」
「鬼殺隊です」
やれやれと言った様子で槇寿郎がぽつりと医者の問いに答えた。
「ああ、それそれ。鬼狩り隊でやってく以上、こんな事態は避けて通れないからね。目が覚めた時にそんな顔してたら杏坊っちゃんも驚いちゃうよ。槇さんも現役の時はそれはそれはいつも酷い怪我だったからね。この人が死んでないんだから、まぁそういうことだろうよ。丈夫に出来た体だよ」
医者は横にいる槇寿郎をぺちぺちと叩きながらつらつらと言った。槇寿郎は憮然としながら腕を組み無言でいる。
「ほいじゃ、私は行きますよ。お嫁さんしっかりね。後はお天道様のみぞ知るだよ」
洋服の内ポケットからもみくちゃに折り畳まれた帽子を被り、医者は少し曲がった腰をさすりながら廊下へと出た。
「俺は先生を送って来る。杏寿郎を頼んだ」
二人が廊下を静かに歩く音がして、その足音もやがて聞こえなくなった。
からからと玄関の引戸が開けられ、そして閉められて夜の静寂が戻る。
葉子は杏寿郎の額に乗る手拭いを取り、枕元にある桶の水に浸した。熱を吸収してぬるくなっていた手拭いは再び冷たさを取り戻す。ぎゅっと手拭いを絞り、杏寿郎の額に乗せる。眉間の皺はほんの少し和らいだ気がした。
どうして帰って来たのだろう。こんな体をおしてまで……藤の家である程度療養が終わってから帰宅した方が良かったのに。そうは思っても、葉子は分かっていた。
包帯の巻かれた痛々しい手を握った。握り返す事のない指は熱を持っていた。
「……花見に間に合うように帰って来てくれたのですよね」
杏寿郎の強い想いが今は辛い。どうか無理はしないで欲しい。
葉子は祈るようにして、ほんの少しばかり握った手に力を入れた。