24.呼んでいる
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部屋は行灯の明かりで仄暗く冷えていた。
この家には誰もいなくなったのかと思えるくらいに静かで、このまま葉子が風呂より戻らなかったら本当に自分は1人なのではないかと不安にさせる程、静寂に包まれていた。
「お風呂ありがとうございました」
障子が開けられ、風呂上がりの葉子が手ぬぐいで髪を拭きながら部屋に入って来た。廊下の冷たい空気も一気に葉子と共に入って来る。
「お布団もありがとうございます」
「いや、俺がひいたのではない」
「そうだったのですか……」
婚礼は今夜、葉子と結ばれることによって完結する。それは大事な儀式の1つなのだ。
それを知っている者によって布団は敷かれ、そして祭壇にあった短刀が部屋の日輪刀の下に大事そうに置かれている。葉子の母親だろうか。葉子も"この件"は知っているのだろうか。
……この短刀か。今後、絶対に無くしてはならない刀というのは。
ふと葉子を見れば、葉子も短刀を見つめていた。
心臓の鼓動がとくとくと大きくなっている。今夜は葉子と初めて宿に泊まった時とは違う。もう2人を阻むものは何もない。
ふと葉子はおもむろに布団に座した。
「杏寿郎さん、お腹空いていませんか?大丈夫ですか?式の時に全然食べていなかったから気になって……」
「俺か?大丈夫だ!あの後にこっそり食べているからな!それよりも葉子の方こそ全く箸が進んでいなかったが」
「私は胸がいっぱいで食欲が無かったので。着物も苦しかったですし……」
そこで杏寿郎は思い出していた。今夜のことに気をとられ大事なことを伝えるのを忘れていたことに。
「そうだ。あの時はあまりのことに言葉が出なかったが、葉子はとても綺麗だった。天女かと思った程だ」
「……ありがとうございます」
嬉しそうにして、しかしはにかんで下を向いた葉子はやはり可愛らしかった。黒引き振袖の姿も美しかったが、いつものこうして日常の姿の葉子の方が自分は好きかもしれない。
あまりに美しいものは気が引けて手が触れられないから……
「杏寿郎さんも黒の袴がとっても素敵でしたよ」
葉子は気を使ってそんなことを言ってくれたのだろう。間違いなく花嫁の葉子の方が輝くばかりに美しかった。あの場にいた全員がそう思ったに違いないし、千寿郎は照れて葉子に一切話し掛けていなかった。
「葉子のあの時の輝きには劣るがな。でもありがとう!」
こうして式を終えてほっとする時間が幸せだ。温かい。いつまでもこんな時間が過ごせたら良いと思う。
「あ、そう言えば行列でこの家に向かって来る時に、甘露寺さん達がいましたよ」
「そうか!わざわざ祝いに来てくれたのか。今度会ったら礼を言わねば」
「甘露寺さんと、山下さん。あとは音柱様と……あとの1人はお名前を存じ上げておりません。半々羽織の薔薇色の無地と亀甲柄の羽織で。髪の少し長い方で……男性でしょうか」
「……半々羽織?」
任務の合間にわざわざ来て祝ってくれるような間柄の仲間は他にいただろうかと考えてみる。
「……冨岡か?冨岡義勇がいたのか?よもや!どういう風の吹き回しか!しかし有難い」
「やっぱり杏寿郎さんのお知り合いの方でしたか。私もお礼が出来れば良いのですけど」
「そうだな。今度会ったら家に来てもらうように話をしてみても良いな」
「何だか皆さんに祝福をされて……幸せですね」
そう微笑んだ葉子は本当に心より嬉しそうで、幸せが内面から滲み出ていた。これから歩む2人の未来が明るく希望のあるものになるのだと確信が持てる。
「……俺も全く同じ気持ちだ」
2人はしばらく無言でお互いに見つめ合っていた。行灯の明かりがゆらゆらと仄暗く部屋を照らしている。
すると心許ない明かりの中で葉子の瞳が何かを言いたげに揺れているのが見て取れた。
『杏寿郎さん』
……名前を呼ばれている。
それは声の無い声で、さっきからずっと名を呼ばれている気がする。葉子もきっと同じようにこの時を待っていたのだ。
葉子の瞳の中に自分が見えて、こちらをじっと眺めていた。
心臓の高鳴りを感じる。脈がとくとくと流れている。この静寂の中で心音が聞こえている。この鼓動は誰のものか。自分か、それとも葉子のものか……
「葉子……新しい鞘は持って来ているか?」
「……はい」
葉子は杏寿郎とは目を合わせずに、自分の手をぎゅっと握った。葉子はこれから何が始まろうとしているのか知っている。この時が何を意味しているのか分かっている。不安と期待とが入り混じり、葉子の瞳はゆらゆらと揺れていた。
「髪がまだ濡れているようだ」
杏寿郎は葉子に手を伸ばし、髪を手櫛ですいた。髪は水気があり、ひんやりと冷たい。
「……風邪をひくぞ?今夜は冷える」
葉子を引き寄せると杏寿郎は後ろからそっと抱きしめた。びくりと肩を震わせ、それでも葉子は受け入れようと健気だった。その気持ちが愛おしい。
「こうすれば寒くはないだろう」
「…………」
葉子は杏寿郎の腕に手を添えた。
「刀を納めても良いだろうか」
「……はい」
行灯の明かりが揺らいでいた。
葉子はくるりと体を杏寿郎の方に向けた。腕の中に葉子がいて、なだらかな額が、澄んだ瞳が、まっすぐとそこにある鼻が、ふっくらとした唇が、しっとりとした頬が。全てが目の前にあり、愛おしくて胸が締め付けられる。
黒い瞳が呼んでいる。「杏寿郎さん」と。