19.春を忘れじ
▼
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
2人は雪が薄っすらと積もる庭へ出た。
そしてひときわ大きな、今は枯れ葉もまばらになっている桜の木の下でまだ咲かない桜の枝を見上げている。
「葉子は幼かったので覚えていないと思うが、葉子が両親に連れられこの家に来た時に俺はここで葉子に結婚を約束している」
そうだったのか……
残念ながら葉子はその時のことを覚えていない。
(でも、立派な満開の桜の木はどこかで見てる気がする……)
薄らと記憶には霧がかかっているが、桃色の花を誇らしげに満開に咲かせた桜は小さいながらもなんと綺麗なのだろうと思った気がする。
そんなに立派な桜を見たのは後にも先にもそれが初めてだった。
「舞い散る桜の花びらを追いかけて、それは大変に愛らしかった。俺は自分が物の怪にでも憑かれたのかと思うくらいに葉子から目が離せなくなり、この
杏寿郎は胸のポケットより小袋を取り出すと、その中からくしゃくしゃになっている紙を取り出した。
「これは覚えているか?」
それは赤い花菱の亀甲模様の千代紙で出来た折り鶴であった。
「それは……」
折り鶴はすでに本来の折り跡とは違う場所が折られ曲げられ、ところどころ破けており、折り鶴だと言われなければただの塵と間違われても仕方の無い程にぼろぼろだった。
しかし、葉子は覚えていた。
(家にたくさんあった千代紙……覚えてる。私、それで頑張って鶴を折った……それをまだ小さい杏寿郎さんにあげたんだ。何度もやり直して、たくさん作って……一番上手に折れた鶴をあげたんだ)
「そんな……ずっと……十年以上も前からとっておいてくれてただなんて……」
葉子の目から再び涙が溢れた。次から次へと涙が出てきて、頬を伝う。葉子は手で顔を覆った。
「この折り鶴を胸にしまい、任務に行く時もいついかなる時も持ち歩いていた。そうすると葉子が側にいる気がしてどんなに辛くても前に進めた。柱になるその時に迎えに行くと心に決めていた」
葉子は声を出して咽び泣いた。
この人は自分のことをこんなにも想ってくれていたのだ。十年以上もかけ、その時が来るまで気持ちを温めていた。春を待つ桜の木のように。
雨が降る日も、暑い夏の日も、風の強い日も、嵐の日も、寒い冬の日も、雪が積もる日も全ての永い時を乗り越えて春に満開の桜を咲かせるのだ。
こんなに幸せなことはない。
胸が苦しく、狂おしいほどに切なく、愛おしい。
「さあ、涙を拭こう」
杏寿郎は葉子の頬に伝う涙を持っていた手拭いで拭いた。
拭いても拭いても次から次へと涙が出て来て、止まる気配がないので少し杏寿郎は慌てた。
「ごめんなさい。これは嬉し涙です……」
「そうか。なら仕方ないな!」
そう言うと、杏寿郎は葉子の肩を抱いて自分に引き寄せた。
外は寒いが寒くはない。お互いの気持ちが確認でき、2人は穏やかだった。
桜の木はずっと幼かった過去の2人を見下ろしていて、そして今も2人を見下ろしていた。
「葉子。祝言は冬の明けた梅の咲く季節に挙げよう」
「……はい」
・・・
槇寿郎と千寿郎は桜の木の下で肩を寄せている2人を縁側より眺めていた。
「兄上達は何をしているのでしょうか?」
「さあな……思い出話しでもしてるのだろう。これから忙しくなりそうだ。あまり時間がないかもしれないな」
全てを承知しているような槇寿郎を不思議に思いながらも、千寿郎は桜を見上げている2人の雰囲気が今朝とはまるっきり違うのにほっとしていた。
「父上、1つ聞いても良いですか?葉子さんとの許嫁の話は双方の親同士が決めたのですか?」
「ん?」
さて、どうだったかなと槇寿郎は考え込んだ。
「いや……そのつもりで顔合わせをしたのだが、確かその時はまだ決めるには年齢的に早過ぎる、何回か会ってから決めようとそういう話だったかと思う」
明治から大正へと時代が流れ、西洋の文化が急激に流れ込み、自由恋愛が叫ばれて来た
葉子の両親もまだ娘は物事を理解していない年なのでと、許嫁については消極的だった。
「それが、初めての顔合わせの時に杏寿郎が既に乗り気でな。2人手を繋いで部屋に入るなり"夫婦になります"と高らかに宣言したものだからおかしくて皆で笑ってしまった」
その姿を見た葉子の両親も、杏寿郎さんの気持ちがそこまで固いのなら娘も幸せになるでしょうと喜んでいたのを記憶している。
「その日以降、葉子と早く許嫁同士になりたいと杏寿郎より急かされ、双方の親が承諾した……というのが正しい流れだったか」
「すごい……兄上の葉子さんへの想いは十年以上も前からずっとだったんですね」
「まぁそうなるな。何と一途な男だと、自分の息子ながらに驚いた。それ以降は剣術の稽古も驚く程に積極的にやっていたな」
そして桜の木の下での宣言通りに鬼殺隊の最高位の炎柱となった。杏寿郎は努力を厭わない槇寿郎の自慢の息子だった。
千寿郎は桜の木の下にいる2人を再び眺めた。
冬はまだまだ寒い。これからが冬の本番だ。
けれど季節は春に向けて確実に進むのだなと、千寿郎は春が待ち遠しい気持ちになったのだった。