12.天をも恐れぬ
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滝に近付けば近付く程に、音も水飛沫も激しく降り注ぐ。女である実江に対して怒っているような、まるで女を寄せ付けない拒絶にも似ていた。
祠まで辿り着くと、実江は手早く小皿に乗せた供え物を置き山の神に静かに祈りを捧げる。
早くこの場を去れと、瀑布の音はどうどうと激しく響き、水飛沫を浴びて実江はすっかりずぶ濡れだ。
祈りを終えた実江はいよいよ帯に挟んでいた鋏を手に取る。
一つ深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。髪はかなりの長さをばっさりと切ることになる。短い髪では結うことは無理で、着物には似合わない髪型になるのだろうか。実江は一体自分の見た目はどうなってしまうのかと不安で仕方が無かった。髪は女の命だとずっと言われて来ていたのに。それを今、この場で切らないといけない。
瀑布の轟音は早くしろとさらに強く音を発しているようにも聞こえた。
開いた鋏を後ろに束ねた髪に付ける。
ざっくりと切ってしまえばそれで終わる。いつまでもずぶ濡れになっていては風邪を引いてしまう。早く切らないと。早く切ってこの場から離れたい。
そうは思っていても実江の手は鋏を動かせなかった。
ここまで伸ばした髪だ。兄に買って貰った簪もしばらくは付けられなくなる。一度もつけた事が無かった気もする。祖母にもいつも綺麗な髪ねと褒められていたっけ。昔は髪を切り揃えてくれていたのは亡き母だった。結ってくれていたのも母だった。櫛で髪を梳かしながら、鼻歌を歌っていた。髪はまた伸ばせば良いだけだが、ここまで伸ばすのに一体何年かかる?
本当は髪を切りたくない──
「やめておけ」
ぐいと実江の腕を掴み、鋼鐵塚は水飛沫の掛からない場所まで強引に引っ張った。実江はずぶ濡れで、打ち捨てられた仔犬のように弱々しく脆かった。
「そんなに嫌なら髪は切らなくて良い」
「でも、神様に……」
鋼鐵塚は実江の荷物から勝手に手ぬぐいを取ると、実江の頭にかけてごしごしと拭いてやった。
「人の幸せを妬む奴が神様なわけあるわけないだろ。そんな奴の許しを乞うたぁ、こっちから願い下げだ」
「でも……」
呆気にとられている実江に構わず、頭をごしごしと少々乱暴に拭き、次いで荷物から着替えを取り出し、手渡した。
「さっさと着替えろ。風邪ひくぞ」
そう言われても、実江は立ち尽くしたままであった。着替えを手にしたまま呆然としている。気持ちの整理がつかないのだろう。
「仕方ねぇな」
鋼鐵塚は苛々とした様子で、実江の手の中にある着替えを奪い取ると岩の上に置き、濡れている実江の帯を解き始めた。
実江は抵抗もせずになすがままだ。水を含んだ帯はびたりと下に落ち、着物の前襟は開き、下に着ている襦袢が見えている。
「風邪をひく。自分でやらないなら俺が脱がしちまうぞ。良いのか?」
実江は何も答えず無言であった。
それに困ったのは鋼鐵塚の方である。ぼんやりとしている実江の着替えを促す為に、帯を解いたは良いがそれでも着替えをしようとしない。困った。このままでは風邪をひいてしまう。
とりあえずは襦袢を着ており、裸になるわけでもないので濡れて重くなっている着物に手を掛けた。着物はその重さで肩から外せば勝手に自分からずるりと脱げていった。
激しく水飛沫を浴びていたのだろう。襦袢もやはり濡れており、水気を含んだ布は実江の体にぴったりとまとわり付いている。腰から尻までのしなやかな稜線がはっきりと分かり、胸の辺りには二つの丘がある。その艶かしい姿に鋼鐵塚はどきりと心臓が音を立てたが、あまり意識をしないようにして言った。
「おい! 自分で着替えろ! 襲うぞ!」
声に驚いた実江はハッとして慌てて着替えを手に取ると、後ろにある大きな岩陰に身を隠した。
・・・
岩陰で着替えを終えた実江はおどおどとして、鋼鐵塚の前に進み出た。
鋼鐵塚は腕組みをしながら不機嫌そうに激しく落ちる滝の水を眺めている。
相変わらず瀑布はどうどうと轟音を発し、人を寄せ付けるのを良しとしない。
「髪の長さなら実江と俺はあまり変わらないはずだ。神様とやらはどうせ女が二人いると思ってるだろうよ。よし、帰るぞ」
「でも……」
組んでいた腕をほどき、鋼鐵塚は実江の方を振り返った。実江は何かを言いたげに瞳を揺らしていた。
「良いか、人は死ぬ時は死ぬ。病気にもなる。神様とやらは何も守ってはくれない。信じるのは勝手だが、自分がしたくもないことを耐えてまでする必要はないだろ。髪を切りたく無かったんだろ?」
神様とやらが本当にいるのならば、なぜ、我々刀鍛冶は日輪刀をいつまでも作っているのか。何百年と。罪もない人々の命がこうも突然に奪われるのはなぜだ。誰も鬼を殲滅させる事ができないから、長年鬼殺隊が命を賭して戦っているのだ。都合の良い時だけ我を崇めよと、そんな理不尽な話があるか。
「風邪を引く前に帰るぞ。さっさと風呂にでも入れ。これを着ていけ」
そう言って鋼鐵塚は自分の着ていた羽織を実江に着せてやるのだった。すっぽりと羽織に収まる実江の髪は濡れており、弱々しく見えた。
刀は横からの力に弱い。
技術のある手練れが上手く扱わないと簡単にぽきりと折れてしまうのだ。
真っ直ぐでひた向きな実江が少し心配になった。鋼鐵塚は思わず、実江を自分に引き寄せた。
「自分の信じるものだけを信じれば良い。あまり自分を殺してまで頑張り過ぎるなよ」
見上げれば鋼鐵塚の形の良い瞳が実江を優しげに見下ろしていた。口は悪いが、この人は優しい。実江はそれはとうに知っている。この人が側にいてくれれば、この人を信じれば後は何も怖くはないと、そう思えた。
実江はお互いの胸がくっつきそうな距離にいる鋼鐵塚の背中に手を回し、そのまま抱きついた。背中は広くて温かい。
「私、鋼鐵塚さんの事、胸が苦しくなるくらいに好きです」
顔を胸に埋めている為に声はくぐもっていたが、実江の声が直接体に響いた気がした。腕を同じように実江にそっと回し、空いている方の手は濡れている長い髪を撫でてやった。
「それは奇遇だな。俺も同じだ」
実江はその言葉に答えるように背中に回している腕に力を込めた。
滝は相変わらずどうどうと激しい音を立ててはいるがただそれだけのことで、腕の中にいる実江は次第にその音が気にならなくなった。