9.その後
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実江の見合いの件がめちゃくちゃになった後、鋼鐵塚はそれ以来いつも行っていた河原には一度も行かなかった。正しくは行けなかったのだ。どんな顔をして実江に会えば良いのかわからなかった。
あの場では咄嗟に手が出てしまっていた。緊張して行ったであろう見合いの場で男は実江の心を踏み躙った。妾になれなどと。実江を妾に。五番目になれと。この手であの男を殺してやりたかった。断固として許せなかった。もし、町中で会う機会があれば次こそは必ず殺してやると鋼鐵塚は心に誓った。
そして鋼鐵塚の前には以前、実江の祖母より手渡された物が置かれている。
(なぜこれを俺に託したのか)
それは実江がにこやかに写っている見合い写真であった。写真から滲み出る美しい若さが眩しく、男の一人所帯の殺風景な家に置いてあるのが気が引ける。
この見合い写真には名前と年齢、住所が添えられ手紙を出せばいつでも見合いに漕ぎ着けそうだった。
(俺が実江と見合いをするのか? あんなことをしでかした後なのに?)
鋼鐵塚はいまいち乗り気になれなかった。
「鋼鐵塚さん、いらっしゃいますか。入りますよ」
家の外より鉄穴森の声が掛かり、許可を出すより早く鉄穴森と小鉄が家の中に入って来た。手にしている皿にはみたらし団子が何本か乗っている。
「最近、河原に行ってないようだったから気になって来てみたんです。どうしちゃったんですか鋼鐵塚さん。実江さん、今朝河原にいましたよ」
小鉄が直球で聞いてきた。二人は知った風に勝手に家に上がると、側に置いてあった鉄瓶より茶を入れはじめた。
「別にどうもしねぇよ」
鋼鐵塚は二人に背中を向け、手にしていた実江の見合い写真を横に置いた。
「鋼鐵塚さん、元気を出して下さい。あの時は格好良かったと思いますよ。少なくとも私はスカッとしました」
「そうですよ。いつもの癇癪はアレですけど、今回のはキレて当然ですよ。俺はあの時、鋼鐵塚さんを生まれて初めて尊敬しましたよ」
小鉄がさらっと悪口を言っているが、鋼鐵塚は聞かなかったことにした。
「しかも、鋼鐵塚さんが飛びかかった時、実江さんのお兄様が手助けしてくれたじゃないですか。これは身内に認められたと言っても過言ではないと思います」
「そうですよ。もうこうなったら実江さんと夫婦になるしかないですよ。あの糞男よりも鋼鐵塚さんの方が何百倍もマシですよ」
小鉄は勝手なことを言いながら持って来ていたみたらし団子をぱくりと食べた。
「河原に行きましょうよ、鋼鐵塚さん!」
「そうですよ。実江さんと会いましょうよ。きっと鋼鐵塚さんを待って──」
「うるせぇ! 黙れ!」
鋼鐵塚は乱暴に草履を履くと、これまた乱暴に玄関の引き戸を開けて、そのまま家から出て行ってしまった。
「あー……行っちゃった」
「少し、言い過ぎましたかね」
持って来たみたらし団子をどうしようかと、小鉄と鉄穴森は二人で顔を見合わせていると、ふと畳の上に六つ切りの大きさのアルバムのようなものが置いてあるのが目に入った。
「……写真でしょうか」
鉄穴森が中を開いて見て良いものか悩んでいると、横から小鉄が何でもないことのように自然にアルバムを開いていた。
「実江さんだ。見合い写真ですね。何で鋼鐵塚さんがこれを持ってるんですかね?」
「ほぅ……やはり綺麗な人ですねぇ、心根の美しさが際立っていますよ」
見合い写真を眺めつつ、いくつかの疑問が湧いたが勝手に見た事を咎められれば厄介だと、二人はその場にそっと写真を置き、家を後にした。
・・・
一人になりたかった鋼鐵塚は、家には戻らず広大な里の中を落ち着きも無くうろうろとしていた。そうこうしているうちに日が傾き、温泉にでも入って帰るかとふと思い立った。そうと決まれば今、自分のいる場所から一番近い、里内では外れの方にある温泉へと向かう。
この温泉は里の中心部より離れている為に、まだ手入れがそこまで行き届いておらず、かろうじて温泉の体を保っている深さのある湯船とそれを囲う石、簡単な湯口と服を脱ぎ着する為の目隠しのついたて、服を置く籠がいくつかあるだけだった。
もちろん誰もおらず、利用する者もほとんどいない為に、鋼鐵塚はよくこの温泉を利用していた。
この場は木々のざわめきと少しの虫の音、ちょろちょろと湯口より流れる熱い湯の音しかしていない。実に静かな場所であった。
鋼鐵塚は服を脱ぎ、適当にいくつか置いてある籠に衣類を大雑把に入れ、面も無造作にその中に放り投げた。誰もいないから良いかと、掛け湯もせずにそのままどぼんと湯船につかると、体から疲れや悩みや、全てのしがらみが溶け出るような、そんな心地良さを感じた。
天を仰ぎ見れば木々の間に既に月が姿を表していた。どこからかふくろうの鳴き声がする。仲間を呼んでいるのか、独り言か。それとも何かを語り掛けているのか。説教はご免だ。
『お前はこれからどうするのかね』
そう、ふくろうに言われた気になった。
さらには日中の小鉄の言葉が思い起こされた。
『実江さん、今朝河原にいましたよ』
そうだろうなと思った。午前中の早い時間に川で洗濯をするのが習慣のはずだ。行けば会えたに違いないが、どうしても気が進まなかった。
自分が行かなかったことで、実江はどんな思いでいるのだろうか。特に何も思っていないかもしれない。そもそもなぜ見合いの席を覗いていたのかと、不審に思うはずだ。
(そりゃあ、気になったからだ)
相手の男がどんな人物で、二人がどんな会話をやり取りするのか、次に繋げるのか、それきりで終わるのか。気が気でなくなり小鉄に「実江さんの見合いに潜入しましょう」と提案された時には素直に受け入れてしまっていた。
しかし、行って良かったとも今は思う。
実江が変な男の毒牙にかからなくて良かった。相手がたとえまともな男であっても、実江が他の男と見合いをするのは辛抱ならないことに気が付いた。
ふうと一つ大きなため息をついた。視界は温泉からの湯気により、辺りは霞がかかったように見えている。
(で、俺は一体何がしたいんだ)
白く視界に入って来る霞を、試しに吹き消してみようかとふっと息を掛けてみたが、湯気は次々と温泉から生まれて何ともならなかった。霞はより一層濃くなった気さえする。
(そりゃそうだ。元を絶たないとどうにもならない)
実江が知らない男と見合いをするのは嫌だ。それを眺めるのも嫌だ。やきもきする。気に入らない。然らばすることは一つしかないはずだ。
鋼鐵塚はざっぱと湯から上がると、そのまま垂らしっ放しで温泉に浸かってしまっていた髪をぎゅっと絞り水気を切った。
ぼんやりとしていて髪をまとめてから湯に浸かるのを忘れていた。夜風で冷えて風邪を引かなければ良いが。
そんなことを思いながら服を着ていると、 強張っていた気持ちが温泉で柔らかくなったのか、ふと河原に行ってみようという気になった。ほかほかとした体に風が吹くと心地が良かった。
こんな時間に実江は間違いなくいるわけはないが、何となく気が向いた。
最後に草履を履き、濡れた髪で肩が濡れないように手ぬぐいを肩に置いてその場を後にした。