興じましょう
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夕方の、夕飯を作り終えひと息つこうとしていた葉子に、玄関より呼び出しがかかった。
割烹着を慌てて脱ぎながら玄関まで向かうと、客人が困った顔で畏まっている。
「あぁ、葉子さん。橘屋の使いの者です。申し訳ありませんが一度、店まで来て頂きたく参りました」
橘屋とは煉獄家が代々懇意にしている呉服屋のことである。炎柱の羽織も特注で橘屋が作っているとか何とか……
店の旦那と槇寿郎は歳が近く、お互いに酒好きで物好きな為、意気投合し、時々珍しい酒が手に入った時などは一緒に酒を楽しむ仲である。
そして橘屋の旦那は派手な遊び好きで有名だった。橘屋からの帰りはいつも槇寿郎は上機嫌でかなり酔っ払っていることが多い。
今日も昼過ぎに「葡萄酒を飲みに行って来る」といそいそと出掛けて行ったのだった。
槇寿郎の行った先が橘屋だったとは……
葉子は千寿郎に家を出る事を伝えると、急いで店側の用意した馬車に乗り込んだ。
・・・
店前に着くと既に暖簾が下ろされ、今日の営業は終了していた。道行く人も家路につこうと薄暗い大通りは賑わって来ている。
馬車より降りる葉子に手を差し伸べ、手伝ってやった使いの者は何とも要領の得ない説明をしだした。
「ささ、こちらです。見苦しいかと思いますけど……情け無い話、私どもではどうしようもなくて……旦那様は一度言ったら聞かないのです。相手をしてやれば気が済みますので、どうかよろしくお願いします」
その言いぶりより、酔っ払いのいる場所へ放り込まれるのだと察した。酒の相手をしてやるのか……普段より酒を飲まない葉子は頭の痛くなる思いがし、思わず小さなため息が出た。
2人がいる部屋に通されると、片膝を立てて座る店主と卓を挟んで向かいに座り、腕組みをして難しい顔をした槇寿郎がいた。
「さぁ、槇寿郎さんの番ですよ。早く賽を転がして下さいな」
「むう……」
大人達は双六に興じていた。
「や、葉子さん。来て下さったのですね。ささ、こちらへどうぞ」
葉子の姿を認めた店主は後ろに置いてあった
無造作に出された座布団だが、ふっくらと厚みがあり、銀糸で薄く三崩し文様の織り込まれた柄は大変に高級な座布団なのだと素人ながらにもわかった。
「おい、近過ぎる。離せもっと離せ。あと、何でお前の隣りなんだ。おかしいだろ」
槇寿郎が座布団の位置をもっと離せと小言を言っている。
「良いじゃないですか。槇寿郎さんは葉子さんと毎日ご一緒してるのでしょう?こういう時じゃないとお話しできませんものねえ?」
にこにこと葉子に顔を向けて同意を得ようとしている店主は、酔っ払っているらしく幼い子どものようであった。
店主の昼の顔を知っているだけに、顔をほんのりと赤くさせ、双六に夢中になっている様は見てはいけないものを見てしまった気にさせる。
葉子は言われた通りに座布団に座ると、店主は離した座布団に近付くようにしてさり気なく座り直した。
「じゃあ、説明しますね。今、私と槇寿郎さんはそこにある酒を賭けて双六で遊んでいるのです」
店主が指さした場所には、見事な瓶に入った濃い紫色の酒が恭しく飾られていた。これが葡萄酒というヤツなのだろう。
「で、その酒は私がわざわざ……わざわざ本場の伊太利から取り寄せた物なのですけどもね。私は酒を賭けてまして……正直、この酒にはかなりの金を注ぎ込みましたので、それに見合う物を出せと言ったのですよ。賭け事の対価は対等じゃないと意味がないですからね。そしたら槇寿郎さんは葉子さんを賭けたわけです。あ、別に体を売るとかそういったやましい事ではないのですよ。我々は紳士ですから」
卓の上に置いてあった扇子を広げ、店主はこそっと葉子に耳打ちをした。
「槇寿郎さん、一回戦は私に負けてまして。そこで葉子さんをこの家に呼ぶことになりました。今は二回戦目です。これで負けると今日、葉子さんは我が家にお泊まりです」
「な、何て勝手なことを……!」
葉子は槇寿郎をきっと睨んだ。
「いやいやいやいや、俺は騙されたんだ!葡萄酒が飲めると誘われて来てみれば、賭けをするなんて知らなかった。おい!橘!お前は嘘つきだ。商売人の風上にも置けん!」
そう言って全力で否定をしている槇寿郎だが、どことなく楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「そんなことよりも早く賽を振って下さいよ。あ、葉子さんはお酒飲みますか?飲みませんね。お茶を用意しましょうね。これ、誰か」
襖が静かに開けられ下人らしき男が店主の言うことを大人しく聞き、下がって行った。
「ほら、見てて下さい。これ、私はあと2マスで上がりですけど、槇寿郎さんはずっとぐるぐる回ってるんですよ。次に6が出ないとそこから抜けられない。そこから抜けられても、私が次で2以上の目を出せば上がりです」
店主はくすくすとおかしそうに笑った。
いつもの温和な接客時の表情とはまるで違い、悪戯っぽく笑う顔が少し怖かった。
窮地に立っているはずの槇寿郎も、目が狩りをする時の鷹のようにギラギラとしており、この状況を楽しんでいるようだった。
不覚にもこの2人から漂う大人の色気を垣間見てしまったのは秘密だ。
……酒が入っているからだろうか。このくらいの年齢の男はみんなこんな感じなのだろうか。とにかく早くこの場から帰りたい。
「葉子さんの為に最高級の綿布団を用意しますからね。寝心地良いですよ。風呂も総檜ですし、香りが良い。旅館に来たと思って寛いで行って下さいな」
店主はもう槇寿郎が負けたものとして勝手に話しを進めている。
「よぉし……では、やるぞ」
槇寿郎は少しふらつきながも立ち上がり、水晶でできているような美しい透明なサイコロを手に取った。
この部屋にある物はサイコロを取ってしても全てが趣向を凝らした作りをしており、どうにも落ち着かない。
「とうっ!6だ!6が出ろ!」
サイコロはころころと転がり、店主以外の2人が息を飲んで見守る中、止まった賽の目は「3」であった。
「あああああっ!すまん!葉子!今日はここに世話になってくれ!」
嘘でしょう。何を勝手に……
頭を抱えて座り込んだ槇寿郎だったが、6が出ても店主が次で2以上を出せば負けるのだ。どちらにしろ分が悪い。やはり槇寿郎も酔っ払っている為、正常な判断が出来ないようであった。
「あーあ、残念でしたね。じゃあ私が……」
カランとサイコロを投げ、出た目は「4」だった。
「また、私の勝ちですね。葉子さん、今日はゆっくりして行って下さいね」
そう言って店主は葉子の頭を抱えてよしよしと撫でた。
「おい、触るな。葉子は俺の娘だぞ」
ギロリと睨んだ槇寿郎の瞳は怒りで燃えていたが、店主は手にしていた扇子をぱっと広げ、嫌味ったらしく槇寿郎に向かってパタパタと仰いだ。
「敗者は早く帰って下さい。怖い目で睨んでも無駄ですよ。槇寿郎さんが帰ったらずぅっと一緒にいられますからねぇ……見て無かったら私達が何をしようがわかりませんし。ねぇ?」
店主の葉子を見る目が据わっていて、ぞくりと怖くなった。
杏寿郎と一緒にいる時には感じた事のない恐怖がふつりと湧き起きる。早く帰りたい……
店主は楽しそうに、にこにことして扇子を仰いでいる。槇寿郎の髪がふわふわと揺れている。
「いっそのこと、葉子さんうちに嫁いで来たらどうですか?私、妻に先立たれて独り身ですし。子もいませんし。うちなら一生左団扇で楽しく暮らせますよ。うん、若奥様良いなぁ」
店主は扇子をひらひらとさせて笑っている。冗談なのか本気なのかわからない。笑ってはいるが、目は据わっていて真意の程がわからない。しかし、酔っ払いの戯言を間に受ける程馬鹿じゃない。
槇寿郎に助けを求めようと視線を送るが、じっと双六を眺めていて葉子が困っているのにも気付いていない。
何なんだこの男達は……
呆れるやら、見てはいけない物を見てしまった後悔やら、葉子は自分でこの状況を切り抜けるしかないと覚悟を決めた。
はぁとひとつため息をついた。
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