8.呼応
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次に目を覚ました時、薄らと瞼を上げて見た景色はいつもの寝室であった。この時、心から安堵をした。やっと帰って来れた。
怪我による痛みも「家に帰って来ている」とそう認識しただけで、体の中から溶け出てしまったようにさほど気にはならなかった。
すると、見ていた天井の木目が隠れ、ふっと人の顔が覗き込んで来た。
「杏寿郎さん」
会いたいと焦がれていた葉子だった。葉子の瞳がじわりと滲み、潤む瞳の中には力なく布団に横たわる自分が映っていた。そして葉子は自分の額に置かれていた手拭いを取り、細い手がそっと額に当てられた。冷やりとしていて気持ちが良かった。
葉子の瞳を見つめていると、だんだんと涙が溜まって行き、ついにはつつと頬を伝った。ああ、やはり葉子を泣かすのはこの自分なのだなとちくりと罪悪感が心を刺した。
「……葉子、ただいま」
そう声を掛けると、葉子は頬を伝っていた涙を拭い、すっと立ち上がった。そしておもむろに部屋の障子戸をするりと大きく開けた。
「杏寿郎さん。見えますか? 桜が咲いていますよ。とても綺麗ですよ」
顔を横に向け、開かれた障子戸の奥には立派な立派な桜の木がはらはらと花びらを落としながらそこに鎮座していた。それがまた儚くて、ああ、何と綺麗な景色なのだろうかと思った。もっと近くで見たくて、布団から起き上がろうとしたところ、側に座った葉子にそっと肩を抑えられた。
「今日と明日は安静にしていないとだめです。こんなに無茶をして。良いですね?」
「……わかった」
自分の妻は…… 葉子はこんなに威圧的だっただろうかと首を傾げてしまった。肩を抑えられた時も振り解ける力のはずなのに「大人しく言う事を聞かないとこれはまずい」そう思わせる静かな凄みがあった。自分が留守の間に何かあったのだろうか。いや、怪我をおしてそれでも無理に帰宅をした夫に呆れているのだろう。怒っているのかもしれない。
女性は結婚をすると変わると聞くけれど、葉子も例外ではなかったのかと、それが少しおかしくつい笑ってしまった。
「どうかしましたか?」
「……いや、何でもない」
側に置いてあった桶に手拭いを浸し、ぎゅっと絞った冷たいそれを額に乗せられた。乗せられた手拭いは冷たくてやはり気持ちが良かった。熱があるのだろう。
「体が冷えるといけないので、そろそろ閉めますね。少し動けるようになったら桜の木の下に行きましょうね。それまでは静かに横になっていて下さい」
まるで幼い子をあやすように、穏やかな声で言う葉子が、手を伸ばし頭を撫でて来た。細い指が髪をすく感覚がこそばゆい。自分は聞き分けの無い子どものようだと思われているのだろうか。それは心外だ。だが、体が本調子でないと自制が効かなくなるのか、つい口からぽろりと言葉が出ていた。
「腹が減っているのだが」
「今日は水しか飲めませんよ」
「……何か食べたい」
「だめです」
ぴしゃりと言い切って、葉子はすっくと立ち上がる。
葉子はこんなに威圧的だっただろうか。もっと朗らかで優しかったはずなのに。だが、大人しく言う事は聞かなければならないのだろうなとその雰囲気から察した。
そんな妻の表情を見つめていると、かぁかぁとけたたましい鳴き声と共に、がらがらがらと勢い良く玄関の戸が開けられた。
『ちょっとぉ! 炎さんいますか! 炎柱様来てますかぁ!』
どたどたと廊下を駆けて来て、ひょっこりと顔を出したのは隠の山下であった。
「やぁぁぁっぱり家に帰ってたかぁ。だめですよぉ……藤の家から脱走したら。酷い怪我だって聞いてたのに、はぁーもう……ホント無茶するなぁ」
がっくりと肩を落とし、畳に手をつけて山下は項垂れた。聞けば、明け方に鎹鴉が蝶屋敷にやって来て藤の家から療養中の炎柱が脱走したと報告があったと。
脱走とはずいぶんな言い方ではないかと思ったが、そう責められても仕方がない。
「胡蝶様がえらい呆れてましたよ。どうせ蝶屋敷には来ないだろうからって、いくつか薬を持たされてます」
山下は背負っていた袋から道具を取り出し、葉子に手渡した。
「くれぐれも煉獄様に無茶をさせないようにと、葉子さんの方からもきつくきつく言い聞かせてほしいとの仰せです。あんまり元気そうじゃないですけど、顔が見れて安心しました」
「山下さん、ご心配をお掛けしました。ありがとうございます」
動けない自分に代わり、葉子が深々と頭を下げた。
「では、煉獄様。お大事になさって下さい。何か必要な物があったら持って来ますので」
「……すまないな」
本当は「ありがとう」と感謝の言葉を掛けるのが正しいのだろうが、やはり藤の家から勝手に帰って来るのは褒められた事では無いし、このように人に心配をかけている。だが、どうしても譲れない時があるのだ。それがあの時だった。彼に理由を説明する気力はないので「すまない」と一言。しかし、山下はその言葉で全てを理解したのか、見えている目元が満足そうに細められ笑った気がした。
次に、山下と入れ違いで父がやって来た。布団に横たわる自分を見下ろし、何か言いたげにしていたが、頭を掻きながら深いため息をつき葉子の横に座った。
「目が覚めたか。俺の言わんとしている事は、お前も良くわかっているだろうから何も言わん。何も言わんが……どうしてこうも頑固なんだ。一体誰に似たんだ?」
弱々しく笑うしかなかった。
「千寿郎も……あれもなかなかです」
「知っている」
葉子はそんなやり取りを横で聞きつつ、杏寿郎の掛け布団を首の方まで掛け直してやった。緋色の髪を撫でてやると、杏寿郎はくすぐったそうに目を細め、そのまま目を閉じた。
目を閉じ、穏やかな暗闇の中で杏寿郎はこの家には自分の心の内を見透かす特殊な能力を持った人々が多いなと、そう思った。