7.帰宅
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目を覚ました時、そこは暗闇であった。暗闇に目が慣れて来ると視界には天井の木目が見えていた。家に帰って来れたのだろうか。じっと木目を見ていれば、自分がいつも見ている寝室の木目とは微妙に違う。黒い染みの大きさが違う。木の質感も違う。
ああ、そうか。ここは藤の家か。
自分はあれから藤の家に運ばれたのだろう。自分の体の状態を確認する為に、まずは手足の指を閉じたり開いたり。手の方は包帯がきつく巻いてあり、動かせば痛みが走る。足の方は問題ない。次に手足を関節のつけ根から動かしてみる。腕も脚も感覚があり、動く。歩く事に支障は無さそうだ。
そして問題は脇腹と左胸の傷。処置は既に終わり縫われているようだが、ここは息をする度に激しく痛む。
あれから時間はどれ程経ったのであろうか。今はいつだ? 何日か気を失っていたのだろうか。他の仲間はどこへ行った。
家の者は寝静まっているらしい。人の気配はしない。それぞれの隊士が部屋を当てがわれたらしく部屋には自分一人であった。
布団から起き上がると、ずきりと脇腹が痛む。
早く家に帰らなければ──
約束をしたのだ。葉子と。必ず庭の桜で花見をするのだと。
痛みを何とか誤魔化して寝間着から隊服へと着替える。炎柱の羽織は丁寧に衣紋掛けに掛けられていた。家の者の心遣いに感謝をする。衣紋掛けの側に置いてある日輪刀を帯刀し、深呼吸をする。呼吸を整え、少しでも怪我の痛みを和らげようと試みる。ほんの少し痛みは和らいだ気がした。よし、帰ろうと部屋の障子戸に視線を向ければ、黒い影が部屋に近付いて来た。
「炎柱様……お目覚めですか? 失礼します」
聞こえるか聞こえないかの声量で外から声を掛け、入って来たのは一緒に任務についていた隊士であった。太い下がり眉をさらに下げて、困った表情をしている。
「煉獄様……まさか藤の家から出られるおつもりですか? その体で」
「そのつもりだ。家の者には明朝に礼を伝えておいてもらえるか。頼む」
下がり眉は、言うか言うまいか悩んだ末に言葉を発した。
「……それは承知できません。俺、霧島さんに頼まれてるんです。煉獄様の怪我が治るまで藤の家から出さないように。あの人は絶対に無茶をして家に帰るからって……縫った傷が開いたら取り返しがつかなくなります。お願いです。まだしばらく療養していて下さい。煉獄さんに何かあったら……俺達。いや、俺は……」
泣きそうな程に、顔をくしゃくしゃにした米田は暗くてあまり表情の見えない杏寿郎を見つめていた。
「ありがとう。だが、俺は大丈夫だ。約束を守りたいのだ。一番大切な人との約束を守れずに柱が務まるとは到底思えない」
「でも……」
「君にも妻が出来たらわかるはずだ。俺は炎柱煉獄杏寿郎だ。怪我も治り、約束も守る。不可能だと思うか?」
「それは……」
このような聞き方をすれば米田は何も言えなくなるのをわかった上でこんな言い方をした。我ながら強引だとは思ったが、何としてでも家に帰りたかった。
「俺、霧島さんに怒られちゃいます……」
「……気遣い感謝する」
・・・
藤の家を出た杏寿郎は、駆け足に近い早歩きをして夜の道を真っ直ぐと進んでいた。犬の遠吠えが遠くでもの悲しげに聞こえてくる。
地に足が着く度にずきんと脇腹が痛み、呼吸をする度にその痛みが強くなる気がした。あまり長時間は歩いていられないだろう。早く家に着かなければ。自分でも分かっている。怪我の具合からして安静にしていなければならず、夜中に藤の家から抜け出て帰宅するなど、大馬鹿者にも程がある。
葉子との約束を守りたい。
ただ、それだけのこと。
庭の桜の木の下で花見をする事が。ただそれだけの事の為に、怪我をおして歩いている。他人には理解出来ないかもしれない。己の怪我の程度もわきまえず柱としてあるまじき行為かもしれない。桜はまた来年も咲くだろう。
だが、約束を破るのは簡単で、一つ破れば次に破る時にはさらに敷居が低くなる。それは自分が良しとしない。許せない。そしてこの怪我の程度ならば、多少の無理をしても死にはしない。
行ける。帰れる。約束は守れると、そう判断をした。
痛む脇腹に手を添えながらなるべく早く歩く。静けさの中で、犬の遠吠えは遠くであったり近くであったりいろいろな場所で聞こえて来る。痛みは次第に激しさを増し、ずきずきとした痛みから脳天へ突き刺さるような痛みへと変わっていた。気が付ければ自分は地を駆けていた。
呼吸が乱れる。
薄い紺色の闇夜が、次第に濃く暗くなって来る。視界が悪くなって来たようだ。意識が混濁しているのかもしれない。ただ、意識の向かう方へとひたすらに足を動かした。
犬の遠吠えは、ふくろうの声へと変わり、いつしかふくろうの声はざわざわとした風の音に変わっていた。
視界はいよいよ漆黒に塗り固められ、途中で倒れてくれるなよと自分に言い聞かせた。ただ足の動くまま駆けた。
すると、風の音の中にか細い女の声が聞こえた気がした。
「葉子?」
自然と名前が口から出ていた。とうとう幻聴も聞こえて来たらしい。これはいよいよ早く家に着かなければまずいかもしれない。
意識は朦朧とし、景色なのか記憶の中なのかわからない道を駆け、痛みはとうに通り越して感覚が分からなくなって来た。もつれる足に意識を集中させる。こんな道端で倒れでもしてみろ。必ず家に帰らないと葉子が、自分が手紙を出して帰宅を催促したせいだときっとさめざめと泣くだろう。葉子のせいではなくて、自分がそうしたいからそうしたまでだと言って聞かせないと。言って聞かせてやらないと。泣く必要はないと。
駆けている道の中に、突然と葉子が現れた。葉子は泣いていた。ああ、泣かないでおくれ。自分は大丈夫だから、ただの怪我だから。頬に伝う涙を拭ってやろうと手を伸ばしたところ、そこには家の引き戸があった。
やっと、帰って来れた──
ふっと全身の力が抜けて、崩れ落ちるようにしてその場に倒れた。