6.煩悶の夜
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葉子の足元には桜の花びらで作られた絨毯が広がっている。庭の桜の木は緑色の葉がところどころに目立ち、花びらは風が吹くたびにひらりひらりと散っていく。
任務が終わり負傷をした杏寿郎は藤の家で療養中だと鴉から連絡が来たのが二日前。花見の為に酒を絶っていた槇寿郎は断酒をやめた。
杏寿郎はまだ藤の家にいるのだろうか。命に別状はないとのことであったが、どの程度の怪我なのかは分からなかった。
蝶屋敷なら場所と行き方を知っているが、どこの藤の家で療養をしているのかはわからなかった。今まで任務から帰って来るまでにこんなに時間が掛かったことはあっただろうかと不安になる。
顔が見たい。心配でたまらない。
葉子は花びらを落として行く桜の木を眺めながら、不安で落ち着かない自分の気持ちを必死で取り繕って台所へと向かった。
・・・
いつもは寝付きが良く一度寝たら朝まで起きない葉子が、その夜はふと目が覚めた。予感とでも言うのだろうか。何やら胸騒ぎがする。
ゆっくりと布団から起きて、夜の気配に耳を傾ける。庭にいる虫たちがころころと盛んに鳴いていた。時折り吹く風が、がたがたと戸を揺らしている。なんてことはない静かな夜だった。
気のせいかと再び布団に潜ろうとした時、がたんと家の玄関の引き戸に何かがぶつかる音がして、ずるりと這った音がした。音からして戸にぶつかり、そのまま下へと落ちたかのようであった。
「杏寿郎さん……?」
直感でそう思った。
葉子は慌てて布団から出ると、ぴったりと閉じられている障子戸を開けた。冷たい夜の空気を肌で感じながら廊下を走り玄関へと向かった。その間も胸が苦しいような、息が上手くできないような嫌な緊張に包まれて、やけに時間がゆっくりと感じた。
玄関へ行くと、大きな影が戸の下の方で塊となってうずくまっているのが目に入った。ちょうど人の大きさであった。真夜中に訪問した黒い影。不思議と恐ろしい気にはならなかった。葉子は急いで玄関に降りると、戸を開けた。
そこには眉間に深い皺を寄せ、目をきつく閉じた杏寿郎が倒れていた。
「杏寿郎さんっ!」
葉子は杏寿郎を起こそうと、伸ばした手を体に滑り込ませた。冷やりとした感触があり、自分の手のひらを見ると赤い血が広がっている。杏寿郎の血だ。そして冷たい自分の手のひらとはうって変わり、杏寿郎の体は燃えるように熱い。発熱をしているようだった。
「杏寿郎さん」
声を掛けるが返事は無く、苦しそうな呼吸を小刻みに繰り返している。葉子は頭の中が真っ白になり、固まった。恐怖で声が出なかった。
「……何でここにいるんだ。とにかく運ぶ」
異変に気が付いた槇寿郎が後ろから静かにやって来て、倒れている杏寿郎を見下ろしていた。眉間には深い深い皺を寄せ、険しい表情をしている。
槇寿郎は裸足のまま玄関へと降りて、倒れている杏寿郎の腕を持ち、自分の肩へと回すとそのまま立ち上がった。
「葉子、布団を敷いて貰えるか。寝かそう。その後で俺は医者を呼びに行って来る」
「……はい」
「何、心配は無用だろう。何せ家まで帰って来たのだからな。寝ているところを起こされてこっちは良い迷惑だ」
不安そうな葉子に槇寿郎はそう声を掛けた。続いてよいしょと玄関に上がり、草履も自分で脱げない杏寿郎の代わりに葉子が草履を脱がせてやる。
葉子は槇寿郎を追い越してぱたぱたと廊下を行き、自分達の部屋に急いでもう一枚の布団を敷いた。水を用意しようと部屋から出たところで、杏寿郎を支える槇寿郎とすれ違った。横目で見た杏寿郎は尚、目を閉じたままだ。普段のはつらつとした姿とは程遠い弱々しい姿を目の当たりにして血の気が引く。
命に別状はない。
そう鴉からの連絡があったではないか。葉子は何度も何度も頭に反芻させて、自分に言い聞かせていた。
台所へと向かった葉子は桶に水を張り、薬箱を手に取ると、騒ぎに起きて来た千寿郎が入り口に不安そうに立っていた。
「……兄上が帰って来たのですか?」
家の中を漂う緊張した雰囲気に、察しの良い彼は何かを感じ取ったようだった。
「帰って来たんだけど、怪我の手当をしようと思って。千寿郎君、明日も学校あるでしょう? 寝てて大丈夫だよ」
葉子は勤めて平静を装った。
「……そうですか。わかりました。手が足りなかったら呼んで下さい。何事も無いと良いのですが」
そう伏し目がちに言った千寿郎はその場を静かに後にした。
聡い彼のことだから、自分がこの場にいてもあまり役には立たないとの配慮なのだろうと葉子は思った。本当はこんな夜中に突然の帰宅をした兄のことを酷く心配しているに違いないのだ。そんな千寿郎の気遣いに心を痛めつつ、葉子は水を張った桶と薬箱を手に取り寝室へと向かった。