5.絶対に
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庭の桜が咲いている。ざあと春風が吹くと花びらが舞い、ひらりひらりと落ちて行った。葉子は洗濯の手を止めて、しばし桜に見入っていた。
『この桜の木は一体いつからそこにあるのか俺は知らないが、それは見事でな! 今年は葉子と一緒にこの木の下で花見がしたい』
そう、明るく告げた杏寿郎の眩しい笑顔が脳裏に浮かぶ。思わず顔がほころぶ。
本当は幼い時に杏寿郎と一緒にこの桜を眺めているはずで、その時に将来を約束したのだが、自分はその時のことはあまり良く覚えていない。
(……夫婦になってから初めての春だから。何が何でも花見がしたいって言ってたっけ)
二人が婚礼を挙げてから初めての春。そこに杏寿郎は並々ならぬ想いがあるようで、たとえ雨続きであっても花見はする、と大声で断言していた。
(気持ちはわからないでも無いけど……)
杏寿郎の葉子に対する想いがこそばゆく、恥ずかしいやら嬉しいやら見上げている桜のように葉子は気持ちが薄い桃色にほんのり染まるような心地がした。
「見事な桜だろう」
振り返れば縁側に湯飲み片手の槇寿郎がいて、同じく桜を眺めていた。葉子は急いで残りの洗濯物を物干し竿に掛けると、腕を組みじっと桜を見つめている槇寿郎の側まで行った。
「この桜はいつくらいからあるのですか」
「俺が物心ついた時には既にあったなあ」
よいしょと縁側に腰を掛けた槇寿郎にならい、葉子も側に座る。お茶を淹れて来ようかしらとふと思ったが、槇寿郎がぽつりと話し出したのでやめた。
「俺の祖父の代からは既にあったようだな。そんな話を聞いた記憶がある」
槇寿郎は遠い記憶を辿るように、感慨深くじっと桜を眺めている。その横顔が杏寿郎にそっくりで、葉子は早く杏寿郎が任務から帰って来ると良いなとひっそりと願った。父親の影に夫の影を重ねるのは失礼だろうか。それ程に葉子の中で杏寿郎の存在は大きくなっていた。
桜を眺める槇寿郎の横顔は精悍で、瞳の色は燃えるように赤い。気高く力強い色だ。槇寿郎が炎柱であったように、父も祖父も曽祖父も代々鬼殺隊を支える炎柱だったのだろう。杏寿郎も当たり前のように炎柱だが、それは本当に生まれながらにとてつもなく重い荷を背負っているのではないかと葉子は思った。
「俺は花見の為に酒を断っているのだが。杏寿郎から手紙は来ていないか?」
「いえ、特には」
「そうか」
槇寿郎は庭の生垣にとまっている鴉をちらりと見た。それは槇寿郎の鎹鴉だが、杏寿郎に向け、帰って来た時には頭に小さな傷があった。それはよくよく見ないとわからない程の傷であった。
鴉の身に何かあったらしいが、当の鴉に尋ねてみても傷が出来た時のことは良く覚えていないらしい。足にくくり付けていた手紙は無くなってはいたが、手紙が杏寿郎の手元に届いたかどうかが定かでは無い。出した手紙を読んでいないことも考えられる。
いつもより時間がかかっている。
杏寿郎の帰りを健気に待つ葉子に、とてもじゃないが「花見には間に合わないかもしれない」とは言えなかった。桜は既に散り始めている。
(大した鬼でなければ任務は直ぐに終わるのだが……)
ここ最近、特に葉子が家に来てからというもの杏寿郎は運良くそれほど難しい任務には就いていないようだった。負傷をして帰って来た事がない。それ程、杏寿郎の実力が高いのだろう。全盛時の槇寿郎よりも息子の方が剣技が磨かれているのは知っている。
(……だが、それは今、ただ運が良いだけだ)
槇寿郎は風が吹くたびに落ちていく花びらをじっと見つめていた。
今回の任務についてから時間が経っている。鴉からの連絡は無い。まだ任務中なのか、怪我をしてどこかで療養中なのかわからなかった。
「杏寿郎さん、桜がまだ残っているうちに帰ると良いのですけど……」
桜を見つめている葉子の優しげな横顔を見て槇寿郎は思った。
杏寿郎の身に不測の事態があった際、葉子は大丈夫だろうか──
ふと、桜を見つめていた葉子が槇寿郎に顔を向けた。
「お花見はお重でするものでしょうか?」
「その方が後片付けが楽じゃないか?」
「お重ですか……中身は何にしましょう」
葉子は「お重は三段か五段、どちらが良いかしら」などと小さく呟きながら立ち上がると、台所へと消えて行った。杏寿郎が帰ってくると信じて疑っていないようだった。
春風が運んで来た花びらが槇寿郎の膝にひらりと乗った。