4.双頭の鬼
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夜の帳が下り、鬱蒼としている森は更に薄暗く、陰鬱な雰囲気をまとっている。しんと静まり返った夜の中で、一歩また一歩と地面に足を踏み出す音だけが響いている。
杏寿郎が異変に気が付いたのは、ほんの前であった。足が重いのだ。山の中の坂道の為に足が疲れて重いのだと、一般人であれば何の疑いも無くそのまま先へと進むだろう。これは鬼の血鬼術だ。一歩を踏み出すごとにさらに重さが加わる。急にではなく、じわりじわりと。異変に気が付かず、気付いた時には自らが鬼の懐深くに進み出ていて、逃げることはできないのだろう。姑息で巧妙な鬼のやり口。杏寿郎はそこで歩を止めた。側では苔むした石仏が静かに佇んでいる。
やけに静かな森であった。動物の鳴き声も虫の音も聞こえない。日中は何の変哲も無い普通の森の姿だったが、夜になると途端に静けさが際立ち異様な雰囲気を醸し出している。鬼が潜んでいる独特の気配とでも言うのだろうか。そんな暗闇の森であった。
恐らくこの辺りからが、鬼の領域との境目なのだろう。これより先は鬼の血鬼術の中だ。鬼の根城を仲間が捜索するには姿の見られていない杏寿郎が囮となる方が良いと、そう決めた。そして鬼を外に出して時間を稼ぐか、そのまま鬼を斬る。
もっと懐近くまで行ってみるか。いや、まずは鬼を誘き出さなければ。これより先はさらに体が重くなる。自分の四肢も思うように動かなくなるだろう。いや、待てよと霧島の言葉を思い出す。
『一昨日より人を払っている為、被害は出ていない。鬼は逃げずに今も家の中に隠れている』
しかも、米田を逃す為に鬼もろとも斬撃を与えたと。鬼は負傷をしたわけだ。人の血肉を渇望しているはず。そう思い立つと、杏寿郎は日輪刀の鯉口をカチリと切り抜刀した。血鬼術により思ったよりも刀は重く、振り上げるのに少々力がいった。自分の左腕に刀を置く。躊躇いもなく刀を引くと、腕より赤い線が滲み出る。
数滴、赤い血がゆっくりと落ちて行き、地面に鮮やかな染みを作った。
「また性懲りも無く来よったな」
「昨日の奴らの仲間か。惨めったらしく逃げやがって」
声のする方に顔を向ければ、一抱えも二抱えもあるだろう大木の並ぶその間に、背の曲がった小柄な老人がいた。犬歯は鋭く、顔が首に二つついている。半分は人間の老人で、もう半分には角があり、皮膚の色は緑色だった。人外の姿をした鬼だ。
「俺は腹が減ってんだよ」
「待て、刀を持っているぞ。迂闊に近付くでない」
老人の方、角のある方と口がそれぞれにある為に、好き勝手にそれぞれが喋っている。精神が分かれているのだろうか。
鬼は膝を曲げると跳躍し、杏寿郎の元へと降り立った。その動きは素早かった。杏寿郎は数歩後ずさる。自分の足が重い。
その時、木の枝にとまっていた鴉が飛び立った。
鬼は地面に落ちた血を土ごと舐め始めた。おぞましい光景だった。地面に這いつくばってまで血を舐めとるとは、そこまで血肉を渇望しているらしい。
「惨めだな。そこまで血に飢えているか。鬼よ」
長い舌をじゅるりと口に収め、鬼は立ち上がる。ぺっと口の中の砂利を吐き出すと、猫のような茶色い目はじろりと杏寿郎を捕らえていた。
「じじい、早く喰っちまおうぜ」
「昨日の奴らはどこへ行った。お前一人ではあるまいな」
老人の方は
「おい! じじい! 早くとっ捕まえて喰うぞ。俺は腹が減ってるんだよ。何回も言わせんな」
「待て、こやつは我らの術に気付いておるぞ。間合いに入って来ない。深追いは禁止だ」
早く喰らいつきたい方と、慎重な方で意見がわれているらしい。ならば
「俺は三食必ず食事をする。肉体の鍛錬も欠かさない。食えばさぞかし美味いだろうな!」
自分で傷を付けた腕に力を込め、己の血液を絞り出す。血はゆっくりと地面に落ちた。落ちて行く血を眺めながら、角の鬼は口より涎をだらしなく垂らしている。
「肉が目の前にあんだからよっ!」
「待てっ! 出てはいかん!」
鬼の肉体は角のある方の意思で動くらしく、気付けば目の前まで肉薄していた。杏寿郎は一歩後退りをし血鬼術の領域より出る。途端に体は軽くなり、迫り来る鬼の腕を即座に刀を振り上げ弾いた。両方の口で断末魔の叫びを吠えながら、鬼は忌々しげに飛び退いた。
「ほら、言わんこっちゃない。戻るぞ。あやつは只者ではない!」
「只者ではなくても所詮人間だろうが!」
そう言いながら斬られた腕は即座に再生をした。腕が元通りになるのに時間はそうかからなかった。十二鬼月こそないが、かなりの人数を喰らって来たらしい。鬼殺隊が把握している数よりもずっと多そうだ。鬼の能力は喰った人間の数に比例する。
「戻るぞ馬鹿者が。只者ではない!」
「うるせぇな。目の前に人間がいるのに、みすみす逃がすってのかよ。俺は我慢ならねぇんだよっ!」
角の鬼は杏寿郎にかなりの固執をしている。それ程までに人を喰らいたいのだろう。口からは涎を垂らしかなりの飢餓状態。今ならここから離れても追って来るに違いない。じりじりと後退り、少しずつ距離を取る。鬼もつられてじりじりと自分の領域とやらから離れている。もう老人の方は諦めているのか何も言わなくなった。
「そんなに血肉が欲しいか。ほら、あるぞここに」
杏寿郎は傷のある腕を掲げた。すると鬼はもう待ち切れないと地面を蹴り猛然と迫って来る。鋭い爪のある腕を振るも、既に血鬼術の外に出ている杏寿郎は軽々とそれを避けた。間髪入れずにさらに一振り二振りと鋭い爪は襲って来るが、全てをかわし切りさらに後ろへと飛び退いた。
とっくに血鬼術の外に出ているが、この鬼はさらに血鬼術を使おうとしない。使えないのだろうか。本体ではないのやもしれぬ。やはり杏寿郎の勘が当たった。朽ちた家の方に何かある。
「クソックソックソッ! ちょこまかと!」
苛つきを隠す事もなく、鬼は地団駄を踏んでいる。もう良いだろうと、杏寿郎は日輪刀を正眼に構えた。辺りの空気がぴんと張り、口からは鋭い呼吸音が漏れ出る。
「クソックソックソッ!」
「……馬鹿者めが。終わりじゃ」
老人の方の口から小さくそう聞こえた。杏寿郎はさらに刀を横に構え、鬼が膝を曲げるより早く強く地面を踏み込む。
「壱ノ型、不知火」
炎が刀より発せられ、空気が熱を持ち揺らいだ。炎の一閃と共に鬼に肉薄し、鬼は目前に夜叉ような鋭い目を見た。気付くと鬼の首は遠くに吹き飛んでいた。首は地面に落ちると灰のように塵となり、朽ちて行く。
しかし、鬼の体の方は首から血を流し倒れたままだった。杏寿郎は刀に付いた汚れを一振りすると、汚れた鬼の血はべしゃと辺りの石に飛んだ。
「わざと斬らせたな。どちらが本体だ。老いた方か」
転がる鬼の体がむくりと起き上がり、斬られた首からは骨と肉、筋肉のようなものがべきべきと鈍い音を立てながら盛り上がる。杏寿郎は再び正眼に構える。
口、鼻、目と順に作られて行き、やがて顔と頭が再生されると、今度は一つの年老いた鬼の顔のみになった。小さな角が二つ。皺だらけの顔に犬歯は鋭く、茶色に濁った目は猫のようだった。
「これだから若いのは。後先考えずに動きよる。目先のことばかり考えおって。遠き慮りなければ必ず近き憂い──」
杏寿郎は鬼が話し合えるのを待たずに駆け、下段より逆袈裟に斬りつけた。鬼は先程とは比べ物にならない程に軽々と攻撃を避ける。
「最後まで人の話を聞かぬとは……若輩者めが。これだから若いのは」
「人ではないだろう。貴様は鬼だ」
再び刀を構え、鬼に迫る。一太刀、二太刀と刀を振るうがそれすらも軽々と鬼は避け、遠くに飛び退いた。
速い。何だこの速さは。
「獅子の若僧。貴様の動きはなかなかだな。ただの剣士ではないな。だが、お前に構っている暇は無いのだ。わしの家に鼠が入り込んでいる。昨日の奴らだな。こちらの方がやり易そうだ。まずは夕餉をとるとしよう」
鬼はそう言うと、風のようにして駆けて行った。杏寿郎は鬼を追いかけるようにして後を追った。