26.家路につく【完結】
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「家に帰りたいのだが。もう、俺は大丈夫だ!」
杏寿郎の目の前にいる胡蝶しのぶはにこにこと可憐に微笑んではいるが、こめかみに青筋が立っていた。
「煉獄さん。診察の時に毎回同じ事を言われるのでさすがにしつこく思えてきました。どこがどう大丈夫なのでしょう?」
「全部だ!」
診察の為に開けていた襟を整え、きりとしのぶを見据えるとさも自信ありげに言った。
「まだ傷が癒えていないのは承知している! だが、俺にはかかりつけの医者がいる。腕の良い医者だ。稽古もまだしないように約束する。運動もしばらくしない。なるべく食事は控えめに取る。これで良いだろう? 家に帰らせてくれないか」
診察をする度に毎回同じ事を繰り返す杏寿郎にしのぶは返事をするのも面倒になっていた。聴診器を自分の首から外し、机の上に乗せるとひとつため息をついた。
「煉獄さんは前にも藤の家から抜け出したことがありましたね。傷口が開いていたとか。そんな無茶をする人のことを誰が信用しますか? 今、呼吸を使えば損傷している骨にひびが入りますよ。骨や内臓を支える筋肉もだいぶ痛めていますし。責任感が強いのは結構ですが、まずは自分の体を一番に考えて下さい」
「家で静かにしている。それくらいのことは守れる」
しのぶには杏寿郎の言葉がとても信用できなかった。やっと動けるようになったが、食事制限も守らず、今は他の隊士の剣の指導をしている時もあるようだ。運動も稽古も厳禁だが、指導中に熱が入り木刀を何回か振り上げ、よろけて膝をついたこともあるらしい。きよから聞いた。
診察カルテに経過を書きつつ、思案げに鉛筆を走らせる手を止めた。
「……家に帰れば隊士を指導することはありませんね」
「そうだ!」
「腕の良いお医者さんもいらっしゃるようですし」
「父の代から世話になっている!」
「あとは食事ですか……」
「控えめにする!」
そして今日は葉子が来ている。杏寿郎は葉子と一緒に家に帰りたいのだろう。
しかし……としのぶは思う。杏寿郎が上弦の鬼と対峙したことで鬼殺隊、産屋敷耀哉も大きく動く。ここで柱、戦力が欠ければ今後に影響する。次にこのような深い傷を負えば杏寿郎は恐らく……
せめてその確率を少しでも減らす為にも慎重に任務開始の時期を見極めたかった。既に杏寿郎の身体は大きな負荷を背負っている。
杏寿郎に顔を向ければ、そんな心配はどこへやら。背筋をぴんと伸ばししのぶをじっと見据えていた。どこまでも前向きな姿勢は一体どこから湧いてくるのだろう。しのぶは呆れるやら感心するやらで再びため息をついた。
「……みんな煉獄さんに甘いのですよ」
まぁ、私もそうなんですけどね──
しのぶは自嘲気味にふふと笑うと杏寿郎は不思議そうに首を傾げた。
「何でしょう。煉獄さんの圧でしょうか。それとも人柄の問題でしょうか。葉子さんもそうですよね? 煉獄さんに言われればはいと頷くしかないでしょう。煉獄さんが無理をして任務に復帰するんじゃないかと心配なのです。もっと体調が万全になってからじゃないと……」
「葉子はそうでもない。今朝、大福を食べようとしたら止められた。皿ごと取り上げられた。前に比べてずいぶんと言うようになってきた。俺が突き進んでも止めようとするだろうな。どうしても譲れない時は俺も下がらないが」
どこか人ごとのような言い方をする杏寿郎にしのぶは少しだけいらっとした。あなたが約束をきちんと守って無茶をしなければ良いだけの話ですよと言いたかったが、そこは我慢した。
「あの葉子さんがですか?」
「そうだ。その都度胡蝶様の指示を仰ぎましょうと言ってくる。郷に入っては郷に従えと。ここは家ではないから勝手は許さないと。俺は窮屈で仕方がない。早く家に帰りたい」
面と向かい「窮屈」と言われ、しのぶは思うところがあったが反論する気にもならなかった。杏寿郎だけでなく、しのぶの言いつけを守らない自由過ぎる隊士は他にもたくさんいる。それが鬼殺隊なのだ。鬼殺隊を束ねているのがお館様で、家で杏寿郎を見守っているのが葉子なのだ。柱も家に帰れば妻には敵わないのだろうなと思った。鬼を断つ日輪刀も妻には全く通用しないのだろう。
「優しげな葉子さんが意外ですね」
「うむ、俺には勿体ない程の良き妻だ」
はっきりとお惚気を言葉にするのでしのぶは笑うしか無かった。聞いているこちらが恥ずかしい。
「……では、煉獄さんがうるさいので、葉子さんを信じて託します。私はこの後お館様に呼ばれていますので。書付を葉子さんにお渡しして下さい。食事は控えめに、運動と稽古はまだしてはいけません。同じことを書きますからね。食べてはいけない物なども事細かに書きますからね」
「わかった。俺も努力はする。葉子に伝えておけば間違いないだろうがな!」
あなたがきちんと自己管理をするんですよと、しのぶはこめかみに小さな青筋が立ったが、深呼吸をして平常を取り戻した。
机の引き出しより便箋を取り出すと、さらさらと鉛筆を走らせた。
「胡蝶、長い間世話になったな!」
「本当ですよ」
しのぶは杏寿郎の方を見ずに、葉子への書付を書いている。かりかりと鉛筆を走らせる音が診察室に響く。