22.目覚め
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陽のさす見慣れない部屋の中にいた。自分はベッドに寝かされているらしく、背中に硬い布団の感触があるが、布団よりも地面から距離があるように思えた。藤の家だろうか。蝶屋敷だろうか。辺りを見渡そうとしたが首が動かなかった。
目を閉じて深く息を吸う。内臓やあちこちの骨も損傷したのだろう。息を吸うのも吐くのも激しい痛みが伴った。しかし、俺は生きている。そう思うと堪らなく嬉しかった。
視界の端には腕から伸びている管がいくつも見える。腕に力を入れようとしたが、力が入らなかった。足も腕も力が入らない。今までに経験した怪我の中で最も重傷に思えた。
だが、俺は生きている。
笑いそうになるのを必死で堪えた。笑うと肺に負担がかかる。誰か人はいないのか……
ゆっくりと頭を左に傾けると、ベッドより少し離れたところに背もたれのある長椅子があった。その上には毛布を掛けて横たわる人がいる。毛布の端から覗くのは浅葱色の女性物の着物だった。見覚えのある文様で、白い花丸文の着物。気に入ってよく着ている着物だった。嬉しくてつい名を呼ぼうとしたが、口から空気が抜けて激しくむせた。大きな声は出せないらしい。
「杏寿郎さん?」
衣の擦れる音がして、はらと毛布が下に落ちた。人影がゆっくりと近付いて来る。どくんどくんと自分の心音が大きくなるのを感じていた。一歩二歩とその人が近付いて来る。
視界に入って来たのはやはり葉子で、目のまわりは少し腫れていた。泣き腫らしたのだろう。
「……杏寿郎さん」
顔がくしゃりと歪み、葉子は顔を手で覆った。肩を震わせ声を出さずに泣いている。やはり葉子を泣かすのはこの俺なのだと思った。
「杏寿郎さん、杏寿郎さん……」
何度も何度も確認するように声を出し、指の隙間からは涙がこぼれていた。
「もっと顔を良く見せて下さい」
両手を頬に添えられた。葉子の手は温かく柔らかい。潤んだ瞳の中には包帯で片方の目が隠されている自分が映っていた。ああ、自分はこんなに痛々しい姿だったのかと、我ながら呆れた。
「……どれくらい寝ていたのだろう?」
「5日ほど。もう喋らなくて大丈夫です。人を呼んで来ます」
「……まだ呼ばなくて良い」
ゆっくりと目を閉じ、息を深く吸う。
この瞬間が夢でないように祈りながら何度も呼吸を繰り返した。葉子の香りが、家の香りがした気がした。帰って来れたのだ。
噛み締めるように何度か深呼吸をしていると、ゆっくりと額を撫でられた。その感覚がこそばゆく、目を開ければ葉子が涙をぽつりぽつりと落としていた。
ああ、葉子を泣かすのはこの俺なのだと、罪悪感にも似た居心地の悪さがちりちりと胸を焦がす。
「葉子、手を……」
指はかろうじて少し動いた。葉子は俺の手を取ると強く握ってくれた。泣かすのはこの自分だが、それでも葉子にどうしようもなく焦がれて触れたくて、こうして甘えてしまう。しょうがない男だと我ながら自覚をする。
「母に……戻るようにと。しっかりしろと背中を押された」
「杏寿郎さんはお役目を立派に勤めてますよ。もう、大丈夫ですから……」
「妻を、葉子を泣かすなと」
葉子は慌ててハンカチで涙を拭った。
「これは嬉し涙ですから……」
「もう何度泣かせているかわからないな」
自嘲気味に笑って見せたが、上手く笑えているかわからない。声を出す度に、骨が軋むように痛みが全身を駆け巡る。だが、そんなことはどうでも良かった。どんなに無様な姿だったとしても戻って来れた。葉子と再び会えた。一緒の時間を過ごせる。それだけで十分だった。
「葉子に謝ることがある」
「謝ることなんて何にもありませんよ。もう十分ですから。本当にもう……」
「貰った折り鶴が……あの時に貰った鶴が砕けて散ってしまった」
幼い頃、結婚の約束をしたあの日、葉子から折り鶴を手渡されている。それは不器用ながらに小さかった葉子が一生懸命に折った鶴で、いついかなる時も持ち歩いていたものだった。
任務の時も、遠く離れた地にいる時も、鬼と対峙している時も、側で見守り勇気付けてくれていた。それを先の戦いで失った。
「……致命傷となる攻撃を俺の代わりに鶴が受けてくれたのだ」
鬼の拳は心臓を突き破ることなく、脇腹をかすめた。それでも激しい傷であったが命は失わなかった。その代わり鶴は砕けて失った。
「大事にしていた物を無くしてしまった。もう二度と手に入らない。心の支えだった……」
葉子は穏やかな顔で俺を見下ろしながら、手をきつく握りしめた。俺は握り返すことはできないからせめて指を葉子の白く細い指に絡ませる。
「私は杏寿郎さんが目覚めたことが何より嬉しいです。私には杏寿郎さんよりも大切なものがわかりません。大事なものを守ってくれてありがとうと……それで良いじゃないですか。鶴はまたいくらでも私が折りますよ」
そう言って葉子は瞳に大粒の涙を浮かべ、そっと指で拭った。
妻は、葉子は自分の欲しい言葉をいつもくれる。その言葉に何度も救われている。心が満たされる心地がした。もう、葉子には敵わない。俺はそれで良いのだ。
窓からは明るい陽がさしている。部屋の中はいっそう明るくなった。
朝がきた。長い夜が明け、人々の活動する朝がやってきたのだ。明けない夜はない。明日は必ずくる。
「杏寿郎さん、まずはゆっくり休みましょう」
「……そうしよう」
ゆっくりと目を閉じた。目を閉じていても、まぶたには部屋に入る陽光がうつる。暖かい日差しだった。