15.ある日の午後・後
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二階へ上がると、八畳程の部屋に卓が二つ。どちらの卓にも食事の終わった重箱がいくつか置かれ、女将は持って来ていた盆に重や椀、湯呑みを重ねて置いた。
「繁盛しているようですね!」
杏寿郎も卓の上の重を女将の持ってきた盆に乗せ、片付けを手伝い始めた。
「違いますよ。夫婦でやってますからね。人手が足りないだけですよ。そちらのお嬢さんは? 杏寿郎さんのお嫁さん? あれ、こんな別嬪さんを。大きな婚儀が行われたってこの辺りまで噂がありましたからねぇ……もしかしてって思ってたんですよ。あれはやっぱり煉獄さんとこでしたか。そうかなぁってちらっと思ってましたけど。この辺りで歴史ある名家は煉獄さんところくらいですもんねぇ。ほんに、可愛らしいお嫁さん。私は見に行けませんでしたけど。どうぞよろしく」
女将は忙しなく手と口を動かしながら、あけすけに言った。葉子はその様子にあっけにとられていた。
最後に手拭いで卓の上をさっさと豪快に拭き、
「松・竹・梅どうしましょ?」
「どちらも松で。あとは漬け物も頼む!」
「はい、少々お待ち下さいね」
注文を受け小走りでとたとたと二階を降りて行った。てきぱきと小気味の良い女性であったが、女将の雰囲気に圧倒され、葉子は黙ってその様子を見ているばかりだった。
そんな葉子の様子を横目で見ながら杏寿郎は部屋の半分閉じられていた障子窓を全て開けた。途端に涼しい風がさらりと部屋の中を駆け抜ける。
「この店は昔からの顔馴染みでな。景色が良いので気に入っている」
風と共に真っ先に目に入ったのは、どこまでも続く景色だった。遠く山の稜線が見える青空に鳥が羽ばたき、広大な畑と民家が連なっている。側では川のせせらぎが穏やかに聞こえ、その少し奥は林となっていた。実にのどかで見晴らしの良い場所であった。二階に上がっただけなのに、こんなにも広い景色が広がっている。不思議な場所であった。
葉子は杏寿郎の側に近付いた。
「本当に素敵な景色! 山も見えます。隠れ家のようなお店ですね」
「ここの店は良く両親に連れられ家族で来たものだ。今は任務もあり、あまり来なくなったが。この辺りの土地が高台に位置し、眺望が良い」
時折り部屋に舞い込む風が杏寿郎の髪をさらさらとなびかせていた。
二人はしばし景色に見入っていた。
彼が真っ直ぐと見つめるその視線の先には何が見えているのだろう。
葉子は同じ景色を見ているはずが、杏寿郎はもっとずっと遠く多くのものを見ているのではないかと、そんな気がした。
『自分の思ってる以上に杏坊ちゃんの活躍で救われてる人がいるよ』
今朝の医者の言葉がよみがえった。
杏寿郎はすぐ目の前の人々だけではなく、その後ろに佇むもっとずっと多くの人も救っている。それは杏寿郎だけではなく、鬼殺隊の隊士も同じことだ。その鬼殺隊を支えているのが柱であり、杏寿郎だ。
この人は見えないところにどんな重圧を背負っているのだろう。
どこまでも遠くに広がる広大な景色を見ているといつか杏寿郎がこのまま遠くに行ってしまいそうで、葉子は思わず手を伸ばし、杏寿郎の右腕にそっと寄り添った。
『それを支えてるお嫁さんも然りだよ』
遠くに行った夫がいつでも帰って来れるように私はその手を離さないようにしていないと…… 葉子はこの時に強くそう思った。
急にどうしたのかと杏寿郎は少し驚いてはいたが、そのまま黙って二人で遠くの景色を眺めていた。
「葉子、今朝のことだが……子が欲しいのは本心だ。だが急いではいない。父上のこともあまり気にしないで良い。ああ見えて、心から葉子のことを娘のように大切に思っている。俺がつい口走ってしまったので、思わず言わずにはいられなかったのだろう」
今朝の件のことだ。皆で赤ん坊が欲しいと盛り上がった。皆から面と向かって言われたことで葉子にはそれが少し重く感じられていた。
「子を生み、育てるというのは簡単なことではない。それこそ命がけだからな。俺はあまり家にいられない。葉子に何かと任せきりになるだろう。葉子にその覚悟ができた時で良い。できた時が良い頃合いだと思う」
葉子が顔を上げると、杏寿郎が穏やかな表情で葉子を見下ろしていた。
子のことで負担に思わせたくないと気遣っているのがわかった。優しさが身に染みる。
「杏寿郎さん、私も杏寿郎さんとの子は欲しいのです。欲しいのですが……まだ、その……二人の時間を大切にしたくて。子ができたらきっと子ども中心の生活になります。その前にもう少し杏寿郎さんと……」
杏寿郎は驚いた表情をしたが、すぐに嬉しそうに目を細め、空いている方の手で葉子の頬をそっと触れた。
「俺とどうしたいのだろうな? 全く嬉しいことを言ってくれる」
頬に置かれた手はそのまま動かずにじっとお互いに目を見つめどちらともなくゆっくりと顔が近付いていく。
その時、どたどたと階段を上って来る音が響いた。
葉子は慌てて杏寿郎と距離をとり、とっさに障子窓から外を眺めた。広い空を鳥が鳴き声を出しながら飛んでいる。
「お待たせしました。松が2つです」
とんっと、女将によって蓋のされたお重、湯呑み、そして漬け物も手際良く次々と置かれた。
「今日はもう品切れなので、この後にお客さんは来ませんよ。私は呼ばれるまで来ませんからね。どうぞ、ごゆっくり……」
女将は含みを持たせた言い方をして、ふふと笑いながら降りて行った。
「女将はなかなかに個性的な人でな。親戚のような付き合いをしている」
「……そんな感じがします」
杏寿郎が蓋を開けると中からははみ出しそうな程の大きさの鰻重が入っていた。醤油の甘辛いたれがつやつやと鰻にかかっている。
「立派な鰻ですね」
「葉子、温かいうちに食べよう」
二人は向かい合って卓につき、割り箸をぱちんと割った。
「頂きます」
ふっくらとした鰻に箸を入れると崩れるように簡単に割ることができた。米と鰻を一緒につまみ、口に入れると噛む前からすぐにほろりと崩れ、鰻の焼いた香ばしさとたれの香りが広がった。
「うまい!」
「ふわふわです! 美味しい」