14.ある日の午後・前
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朝食のみそ汁を飲んでいた時だった。千寿郎は葉子の隣りで丁寧に焼き魚の骨をとっている。いつもの定位置で新聞を読んでいる槇寿郎の隣りで、杏寿郎が唐突にこう言った。
「俺も子どもが欲しい! なぁ、葉子!」
葉子は思いっきりむせた。何の話を急にするのだろう。
ごほごほと手ふきを口に当て、軽く咳き込む。
「この前の赤子の可愛さが忘れられない! 自分の子だったらさらに喜びもひとしおだろう!」
広げていた新聞を閉じて槇寿郎は卓の上に置いてあった湯飲みに手を伸ばし、豪快にくいと飲んだ。そしてドンっと卓に置いた。上に乗る皿や箸はほんの少し揺れた。
「よく言った杏寿郎。そうだ。自分の子は良いぞ。産まれた時の感動と言ったら言葉に表せない。杏寿郎の時も俺は泣いた。そして千寿郎の時も俺は泣いた。男親は出産時は何の役にも立たないが、俺はずっと立って見守っていた。そして感動していた。このことだけは確かに言える」
葉子は槇寿郎は出産時には本当に何もしなかったのだなと思った。だったら立ち会わなくても良いのではないだろうか……おろおろと心配をして廊下からひっそりと部屋の中を除く槇寿郎が想像できた。
「腕の良い産婆も近所にいる。何かあったら掛かりつけの医者もいる。とりあえずは整っているな。女手もあった方が良いのか。その時は葉子の母君に来てもらい……その前に炎柱の書も確認しておいた方が良いな。篝火の準備も進めなければ」
槇寿郎はまだ子もできていないのに、既に出産に向けての算段をし始めた。指を折りながらあれやこれやとぶつぶつ言っている。
「兄上は男児と女児、どちらを希望しているのですか?」
千寿郎まで乗り気で聞いている。
「こればかりは授かり物だからな! どちらでも良い!」
同じような髪色と顔の女児か男児。それは想像ができるような出来ないような。どちらにせよ玉のように愛らしいに違いないが、一体何をどうすれば煉獄家独特のこの髪色になるのだろうか。葉子はそれが不思議でならなかった。葉子以外の者は皆が同じ髪色で、黒髪の葉子が逆に目立つ。脈々と受け継ぐ血がそうなのか、それとも……
「あの……杏寿郎さん、お医者様がお昼前にいらっしゃいますよ」
「うむ! わかった! 早く食べてしまおう!」
山のように米が盛られた茶碗を持ち、杏寿郎は食事の続きをとった。槇寿郎も千寿郎も各々食事を始めた。
子は欲しいが、周りから期待をされると少し気遅れしてしまう。それにやはり子育ては大変なのだと思う。先日の、しかも数時間だけ赤ん坊を預かっただけでもその日は疲れてぐっすりと朝までよく眠れた。葉子は何となく心に重石が置かれたように感じた。
・・・
分厚い眼鏡をくいとあげ、医者は胸に当てていた聴診器を離した。
「ふむ。良いでしょう。なーんもないね。傷も綺麗にふさがってるし、肺の音も問題ないね。任務に行って良し」
「ありがとうございます!」
杏寿郎は開けていた襟を元に戻し、着物を整えた。
その時、庭の生垣に止まっていた鴉がばさと飛び立った。産屋敷邸に医師からの炎柱の任務復帰許可を伝えに行ったのだ。
「……まぁね、医者としては無茶するなと言いたいところだけども。そうもいかんでしょうよ。槇さんもそうだったしね。待ってる家族は冷や冷やだね。仕方ないけども」
聴診器を乱暴に鞄に入れ、バタンと鞄を閉めた。そしてしばらくじっと考え込み、杏寿郎と葉子の方にくるりと振り返った。分厚い眼鏡が向けられた。
「君たちには言ってなかったかね? 私は鬼のことはよくわからんけども。やっぱり死を覚悟したよ。往診の帰りだった。一人で道を歩いていたら突然上から降ってきてね。人の形のようで人ではない。気持ち悪いったらないね。ついに私の頭がおかしくなったのかとその時は思ったね」
この医者は鬼と遭遇したことがあったのだ。そして助けたのは恐らく──
「槇さんに助けて貰ってね。凄かった。一太刀だよ。私と槇さんはその頃からの付き合いさね。彼が来てくれなかったら今の私はいなかった。私は医者だ。患者を見て回ってる。結果、槇さんは私だけでなく、私の抱える患者も助けたことになるね」
医者はそのまましばらく黙ってから、白いざんばら頭をがしがしとかいた。彼は彼なりに言葉を紡ぎ、何かをこの若い夫婦に伝えようとしているのがわかった。杏寿郎と葉子はそれが感じ取れたので、じっと黙って次の言葉を待った。
風が庭の草木をざわざわと揺らし、どこからか風鈴の音が微かに聞こえる。盛夏はとっくに過ぎ、朝晩は秋の気配が感じられるようになった。その中でちりりんと鳴る風鈴の音はどこか寂しさを感じさせた。
「理不尽に人の命が失われるのはあってはダメね。これ絶対。鬼狩り隊の活躍は見えないところでも広く広く多くの人を助けてるってこと。自分の思ってる以上に杏坊ちゃんの活躍で救われてる人がいるよ。それを支えてるお嫁さんも然りだよ。言ってる意味わかる?」
分厚い眼鏡をくいと上げたその奥に、目尻に深い皺の刻まれた瞳があった。杏寿郎と葉子を穏やかに見つめていた。聡明で優しい瞳であった。
「二人は若いし新婚さんだしね。いろいろ辛いこともあるかもわからんけど……だいたいこの場合は男の方が辛いけどね。まぁ私を呼ばない程度に頑張りなさいな」
「……ありがとうございます」
二人は深々と医者に頭を下げた。