1.日常の風景
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仕切りの向こう側の人は忙しなく動いていた。手元の書類に目を通し、算盤を弾いたり、書き物もしている。そんな行員が数人、同じようにくるくると動いている。
「煉獄様」
次に自分が何をするのかわかっている行員達は、最小限の動きで狭いその仕切りの中でお互いにかち合わないよう作り物のように動いている。そんな光景をぼんやりと見つめていた。
「煉獄様?」
飾りっ気の無い質素な建物の中を見渡せば、自分と同じように呼ばれるのを待っている者が数人。手持ち無沙汰なのかうろうろとして、人に話し掛けている者もいる。葉子は用事を済ます為に銀行に来ていた。
「煉獄葉子様っ!?」
「は、はい」
苛々とした口調で行員に名前を呼ばれ、葉子は慌てて立ち上がった。何度か名前を呼んでいたらしい。窓口に行くと訝しげにじろりと顔を見られた。
葉子は名字がすっかり変わった事に未だに慣れておらず、呼ばれているのに気が付かなかったのだ。そうだ、名字が変わったのだ。煉獄姓へと。何度も自分に言い聞かせ行員より戻って来た伝票にはやはり「煉獄」の文字が書かれていた。
用事を済ませた葉子は、銀行を出て通りへと出た。
ぽかぽかとした陽はすっかり春らしいが、吹く風はまだ少し冷たい。季節は春へと移り変わって行く途中なのだ。
通りを歩いていると、ふと煉獄家が懇意にしている呉服屋、大店の橘屋が目に入った。その日は珍しく店主が店の外で柄杓を持ち、水を撒いていた。道に水を撒くのは土埃が舞わないようにする為だ。春先は時たま激しい春の風が吹く為に、通りの店先ではこのような光景が時々見られる。
店主は葉子の姿を確認すると、手を止めて声を掛けて来た。
「こんにちは葉子さん。今日は暖かく天気が良うございますね」
「こんにちは。旦那様を外でお見掛けするのは珍しいですね」
ああ、これですかと店主は自分で手にしている桶と柄杓をほんの少し掲げる。
「たまにはこうして外に出ないと、お客様に顔を忘れられてしまいますからね」
にこにこと温和な笑みを向け、続けて店主は言った。
「そうだ、葉子さん。この度はおめでとうございます。私も店をぬけて花嫁行列を見に行ったのですよ。本当に眩いくらいに美しかったです」
「いらしていたのですか……ごめんなさい。気が付きませんでした。ありがとうございます」
最近の葉子は買い物に出ると花嫁行列を見たという近所の人々よりこうして声を掛けられる事が多々あった。店先ではめでたいことだからとおまけで食品を多く分けて貰うこともある。そんな地域の人々の心遣いに嬉しさと同時に気恥ずかしい気持ちが心をくすぐる。
「そんな事はお気になさらず。周りに集まった方達からも、感嘆の声が漏れていましたよ。ハレの行事は地域の皆様にもめでたい事ですからね」
そして店主はすかさずこう付け加えた。
「そうそうお召しになっていた黒引き振袖ですが、留袖に仕立て直せますので、その際は橘屋をぜひご贔屓に」
商売の口上をしっかり忘れず商魂逞しく、そう声を掛けられ葉子は面を食らうのだった。
・・・
家に帰ると杏寿郎の草履が玄関に揃えて置いてあった。任務より帰って来たのだ。葉子は杏寿郎に会いたいはやる気持ちを抑え廊下を行くと、既に隊服から着流しへと着替えた杏寿郎と出くわした。
「杏寿郎さん、お帰りなさい!」
「葉子、ただいま! 出掛けていたのだな。しかし、挨拶が逆だな」
「そうでしたね。ただ今帰りました」
「おかえり葉子」
お互いに近寄ると杏寿郎は葉子の手を両手でそっと握った。
「もっと顔を良く見せてくれないか」
そう杏寿郎に真っ直ぐと見つめられ、葉子の鼓動は高鳴った。目を少し細め穏やかな表情で微笑んでいる。この顔をいつまでも見ていたくて、任務に出て行ったその時から彼の帰りを、杏寿郎が家に帰るのをずっと焦がれていた。
「ほんの数日会わないだけだったが、葉子が手の届かないところにいるのがどうにも落ち着かなかった」
杏寿郎は手を伸ばし、葉子の耳にそっと触れる。手は耳から頬へと輪郭を確認するようにおりて行った。もう片方の手はいつの間にかしっかりと葉子の腰を引き寄せている。お互いの体に距離は無い。
「会いたかった」
「……私もです」
瞳を見つめていると吸い込まれるようにどちらともなく顔を近付け、そっと唇を重ねる。葉子も応えるように、杏寿郎の腰に手を回した。お互いに会えなかった時間を埋めるように離しては重ね、離しては重ね、徐々に深いものへと変わって行く。頭は熱を持ちとろけそうだった。
「あー……厠に行きたいのだが」
二人は慌てて顔を離した。
槇寿郎が声を掛けて来たのだ。
葉子は脱兎の早さですぐさま壁に顔を向けた。心臓はばくばくとうるさい。全身が熱を持ち、耳まで真っ赤になっているに違いない。槇寿郎が家にいるのをすっかり失念していた。
「夫婦だからな。仲が良いのは結構。しかし、もう少し場所をわきまえてくれると有り難い」
そう言うと槇寿郎は二人の間を通り過ぎて行った。
「葉子? 大丈夫か?」
いつまでも壁を向いて固まっている葉子を心配した杏寿郎は声を掛ける。振り返った葉子は顔を真っ赤にしてうつむき、その姿がまた愛らしくておかしいのであった。思わず笑顔がこぼれてしまう。
「茹で蛸のように真っ赤だ」
「恥ずかしいです……」
しゅんとうな垂れる葉子の頭に手を伸ばしぽんぽんと優しく撫でてやった杏寿郎は
「父上に見られてしまったな! 仲が良いのは結構とのことだ! 気にすることはない。夫婦なら当然のことだ」
あまり気にしていないのか至極平常であった。いつものようにはつらつとしている。
「これから夕飯の支度か? 俺も手伝おう」
「そうですね……ありがとうございます。では、支度が出来ましたら呼びますのでそれまでゆるりとされていて下さい」
「わかった。それまで稽古場にいる」
気持ちは有難いが杏寿郎に台所に立たれるといろいろと厄介なので葉子は夕飯の支度が全て終わり、食卓に料理を運ぶ段階で杏寿郎を呼びに行くのが最近の流れとなっている。出来上がった料理を運ぶのも立派な手伝いなのだ。
葉子は、さて台所へ行こうかと体の向きを変えた時にふいに腕を掴まれた。まだ何か用事があるのかと振り返ると、少々熱を帯びた瞳と目が合った。彼がこのような色を宿す時は合図なのだ。二人にだけわかる合図。これから始まるであろう事をほんの少し待ち望んでいると、再び唇が降ってきた。葉子も本当は途中で強制的に断ち切れたそれが欲しかった。
しかしそれは優しく触れるだけの口付けであった。お互いにそれ以上は深入りしないように何とか気持ちを抑えすぐに離す。
「少し……名残り惜しくなってしまった」
顔が随分と遠い場所に離れてからそう寂しげに言った杏寿郎は、くるりと向きを変えてその場を去って行った。
葉子はひとつため息をつくと、
「その気にさせておいて自分は剣の稽古だなんてずるいです……」
まだどきどきとうるさくしている鼓動を深呼吸をして落ち着かせる。何か集中できる物がないと辛い。これは心して料理に専念をしないといけないと自分に言い聞かせたのだった。
葉子は腕まくりをし、袖を襷掛けにしながら台所へと向かった。
これが春を待つある日の出来事。
庭の桜の木が今か今かと満開の姿を表すその時まで蕾をつけてじっと佇んでいる。
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