常世と現世
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その場所は朱い鳥居が緑の中をどこまでも続く妖しくも美しい場所であった。己が生を受けたその時よりも遥か昔よりその場に鎮座している聖なる場所。続く鳥居を進めば常世と現世の境界が次第に曖昧になって行く──
月明かりの下、一際大きな鳥居をくぐり真っ直ぐに進むと目の前には荘厳な楼門がそびえ立つ。その楼門の前に石で出来た狐が二体、こちらを鋭く睨んでいた。
鬼が、このような神仏の場所に足を踏み入れるのを良しとしていないようだった。しかしそこに置かれている狐は動かず、ただ見下ろしているだけだった。構わず歩を進める。
しばらく歩くと木々の生い茂るその中に朱い鳥居がずらりと並んでいた。ここを潜るその先には一体何が見えるのかと、人間の不安と想像を掻き立てるのだろう。不思議な光景であった。
その並ぶ鳥居の前に蛍火がぼうと灯る。一つ灯ると、また一つ一つと火が灯り、道を作って行く。まるでこちらに来いと手招きをされているようで、蛍火に従い鳥居の続く山を上った。
灯る火に導かれるまま進み、やがて蛍火は途切れた。途切れた先は開けた場所で、眼下には月明かりに照らされる瓦葺き屋根が無数に広がっている。人家である。この場所は政を行う中心地だ。そしてその街を見下ろすようにして、くゆりと銀色に輝く豊かな尻尾をなびかせた女がそこにいた。銀色の耳と尻尾、そして銀色の艶やかな髪。この世の者とは思えない美しい人外の姿。女はふいと振り返ると、目を細めて微笑んだ。
「お待ちしておりました。黒死牟様」
真っ赤な紅をさした女の口元には牙が見えている。狐の鬼。この場所に巣食う妖艶な鬼狐。
「……面妖な……蛍火は何だ」
「ああ、あれですか。お気に召しましたか? そうすると人間が導かれたように自らここまで来てくれるのです。死ぬ時くらい、美しい景色を抱かせてあげたいのです」
「……くだらぬ」
黒死牟の冷たい物言いにも動じず、狐は再び微笑んだ。その姿は人を喰らう鬼だというのに優しげで、どこか憂いを帯びていた。
「あの方からの……言伝だ。もっと人を喰らえと」
鬼の名は暁子と言った。名は興味も無いので聞くつもりも無かったが、要件を伝えられた時に「暁子という鬼だ。その姿を目に焼き付けて来い」と含みを持った言い方をされたのだった。
風が吹き、狐の銀色の髪や尻尾を揺らしている。月明かりの下、銀とも金とも見える髪は星空のようにさらさらと煌めいていた。狐は無言で微笑んでいる。
黒死牟は、今までこんなに美しい鬼はこの世に存在していただろうかとその姿を見て思った。あの方が、たかが下弦の鬼ごときを気に掛ける事を訝しく思っていたが、目の前にいる女の鬼を見て理解が出来た。ただただ息を呑むほどにその姿は美しいのだ。神の化身とされる狐の姿。神々しくもあり、妖艶であった。
鬼がこんな姿でこの世に存在して良いのだろうか。鬼は醜い化け物だ。自分も人である事を捨て、こんな姿に成り下がったというのに。
いくつもの鳥居を潜り、その奥で出会った妖はまるで月から降りて来た天女のようだった。しかしその正体は人の肉を喰らう鬼だ。それがまた狐の美しさを際立たせているようにも思えた。
「人を喰らい……ひいては……上弦の鬼と入れ替わりの血戦を申し込め……との仰せだ」
「まぁ」
狐は黒死牟の言葉にほんの少し目を見開き、そしてくすりと笑った。
「たかが下弦の参ごときの私が黒死牟様に勝てるとでも? それはそれは無謀なことを仰いますのね」
「……口を……慎め」
黒死牟もこの目の前の鬼が上弦とまともにやり合えるとは到底思えなかった。弱くはないが強くも無い。鬼狩りの柱に勝てる気もしない。容易く首を斬り落とされる姿がありありと想像出来る。首が落ちるその時も、この狐は顔に微笑みを絶やさず、命尽きる時も銀の雫が落ちるように儚いのだろうかとふと思った。
「……もう人は喰らいません」
目を見張った。
ざあと風が吹き抜ける。風に狐の銀色の髪がふわりとなびいた。そして長いまつ毛を伏せながら小さく語り出す。
「やめる……というより食べれないのです。私はこれ以上強くはなれない鬼なのです」
「それは……あの方が……良しとしない」
「そうでしょうね。わかるのです、私はもうすぐ鬼狩りに殺されます。でもそれで良いのです。長く生き過ぎました」
鬼はさらさらとした髪をなびかせて、琥珀色の瞳は悲しげに揺れていた。瞳は月と同じ色で、青白い顔の中に淡く二つ浮かんでいる。黒死牟の立つその場所よりもずっと後ろのどこかを見つめている瞳は硝子のようだった。何を見つめているのだろうか。
「もうここには来ない方がよろしいでしょう。貴方なら、きっと鬼狩りが来ても虫を握り潰すように簡単に殺めることができるのでしょう。ですが、私はもう……良いのです」
黒死牟は狐の全てを諦めたかのような言い振りに小さく怒りが湧いた。あの方の力により永遠を手に入れたというのに。我々は選ばれし特別な存在だというのに。何を言い出すのだこの女は。理解ができぬ。
輝く月をも陰らせるその美貌を捨て去り、死を選ぶなど到底許されない。選ばれし鬼だというのに。それは許さない。この世に生を留めておかなくてはならぬ。そう強く思った。
「あの方が……それを許さない」
"あの方"と名を借りたが、もはやそれは己の希望でもあった。この鬼をみすみす失うのは惜しい。いや、あの方も同じ考えに至っているはずだ。する必要のない言伝をわざわざ自分に頼んだのも、ただの戯れか、この鬼を生かしておく為に託されたのやも知れぬ。上弦の壱であるこの自分に。
ふと、風と共に遠くから人間の殺気を感じた。それはほんの微々たるものであったが、細い糸のようにぴんと張り詰めている。
「鬼狩りが……来る」