呼び名
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鬼殺隊は人の活動する時間に睡眠を取り、人の寝静まる時間に活動をする。昼夜逆転する生活も珍しくない。故に、同じ生活時間の鬼滅隊の仲間内で群れる。しかし、柱となれば多忙を極め、かつその最高位の称号があまりに眩しく孤高の存在となってしまう事もある。しかも、訳あって俺のように自分から人と距離を取り、そのまま柱を引退したような者には、いわゆる世間で言うような友人と呼べる人間はいなかった。
ただ一人を除いては。
奴を友人と呼ぶのも非常に抵抗があるのだが、そんな人間関係しか築けなかった自分が全て悪い。悪いのだが……家族に関する悩みを吐き出せるような人間は奴しかいなかった。
「……で、話って何でしょう?」
にこにこと怪しいまでの満面の笑みを顔に貼り付けた男の前に、卓を挟んでむっつりと座していた。
一枚板で造られた立派な卓の上には、酒やらつまみやらが大量に置かれていた。とても二人で食べられる量では無かったし、海外より輸入をした食材と思われる見た事のない高級そうな食べ物も置かれていた。
「……凄い量だな」
「ええ、槇寿郎さんのお話を酒の肴にして楽しもうかと。あ、そこの黒いの。キャビアって言うんですって。鮫の卵だそうですよ」
面と向かって平然と失礼な事を言ってのけるこの男こそ、話の出来る知人であった。非常に不本意だが。
「で、話って何ですか?」
橘はキャビアという名の黒い粒を箸で摘み、ひょいと口に運んだ。「うーん、葡萄の酒の方が合いそうな味だなぁ」などと呟いている。
「まぁ、話と言うのはだな。家族の事なのだが」
「ええ」
「家族と言うのは……葉子の事だ」
葉子の名を出した途端、橘の瞳がぎらついた。酒を口につけ、湿り気を帯びた唇は愉快そうに弧を描いていた。
葉子とは父と義理の娘の関係なのだが、恐らく橘には変な性癖があるのだろう。葉子の事となると、食い付きが尋常では無く、金の力でねじ伏せてどうにかしようとする。この男の闇は深い。それを知っていて、橘に葉子の話を振る自分も大概なのだが、今はそんな事はどうでも良い。
「へぇ…… 葉子さんですか」
橘はわざとらしく、名を口にした。早くその続きを言えと手にしているびいどろの中の酒をくるくると揺らし、値踏みするような目をこちらに向けている。
「まぁ、何だ……何だって良いのだが、俺の事を槇寿郎さんと名で呼ぶのだ。お父さんとか、父上とか、お父様とか……そう言う風に呼ばないものなのだなと少し気になった」
「つまり葉子さんにお父様って呼ばれたいって事ですか?」
「そういうつもりでは……」
手元のびいどろに入れられた酒をちびりと口にした。きりりとした冷酒が喉を通る。
「息子達には父上って呼ばれているじゃないですか。欲張りですねぇ。腕を押さえ付けて組み敷いて、父と呼ばないと人には言えない秘密を作るぞって言ってやれば良いじゃないですか。簡単でしょう?」
「言ってる意味がよくわからんな」
「またまた……」
橘はふっと鼻で笑い、にやにやとこちらを伺いつつ手元のびいどろを傾けていた。きらきらと硝子が部屋の灯りに反射している。
「お互いに良く知りもしない赤の他人が、急に父と娘に……家族になったわけですからね。葉子さんも貴方との距離を測りかねているのでしょう。それか……」
くいと酒を一気に口に流し込み、卓に手をついた橘は身を乗り出して来た。人差し指をちょいちょいと曲げて、お前の顔もこちらに寄越せと命令している。言われた通りに俺も橘に顔を近付けた。
「槇寿郎さんの事を男として見ているのでは?」
「は?」
思わず間抜けな声が出ていた。橘は元いた位置に戻ると、真剣な顔で言い出した。
「……少し気になってたんですよ。葉子さんって、時々槇寿郎さんを見る目が……何と言ったら良いのか……あ、いや、やめておきましょう。私の勘違いです。流石に、それは」
「いや、そこまで出たなら言ってみろ」
「私の勘違いだとは思いますけどねぇ」
目を弓なりに曲げ、至極愉快そうにしている男は再び卓に身を乗り出した。今度は橘に命令される前に自分から卓に身を乗り出していた。口に手を当て、ぼそりと一言。
「熱っぽい目で見てますよね」
・・・
畳にごろんと横になり、すやすやと眠る橘を横目に酒を一人で飲んでいると、玄関先で女の声がした。
『ご迷惑をお掛けしました』
とたとたと部屋に向かって来る足音を聞き、障子が開けられ入って来たのは葉子であった。横たわる店主をちらと見て、
「こんなに遅い時間です。槇寿郎さん。帰りましょう。立てますか?」
葉子の差し出した手を無視して、ふらりと立ち上がる。卓の上にはまだ手のつけられていない食事が残っていた。
再び葉子が家の者にぺこぺこと平謝りをしている横を通り過ぎて、勝手に玄関を出た。家の者が気を使って葉子を呼んだのだろうが、良い迷惑だった。橘にあんな話を聞かされてどう顔を合わせたら良いか分からなかった。
店の外に出ると夜風は冷たく、酔いは一気に覚めた。ほんわかとした心地よい微睡みは急激に覚醒する。
目が覚めると橘の言っていた言葉をやけに鮮明に思い出し、それと同時に葉子が自分を見つめる表情も確かにそうだったかもしれないと思わせるものへすり替わって行った。ただの酔っ払いの戯言を間に受ける都合の良い頭に自分でも笑える。
わざと先に歩かせている葉子は、心配してか時折り後ろを振り返る。その顔も、手にした提灯の灯によりとても幻想的で艶やかである気がする。
「大丈夫ですか? お水飲みます?」
先を歩く葉子が、一向に距離が縮まらない自分を心配してゆっくりと近付いて来た。そして手にしていた竹の水筒を差し出して来た。
細く、白い手であった。組み敷くのは容易いのだろうな。
葉子の手首を咄嗟に掴み、引き寄せると水筒はからんと地面に落ちた。中に入っていた水がこぽこぽと溢れては地面に吸い込まれていった。
葉子は、何が起きたのか分からずに困惑した表情でこちらを見上げている。その瞳の中には熱ではなく、恐怖と戸惑いの色があった。
「……手が滑った」
ぱっと手を離せば、葉子はそそくさと落ちた水筒を拾った。水筒についた土を払いながら「まだ酔っ払ってます?」と呆れた口調で聞かれ「ああそうだな」とだけ適当に答えておいた。
夜風にさらされる度に、内面に一枚、また一枚と膜が覆って行く心地がする。それは決して表に出してはいけない内なる部分を上手く隠してくれる。膜は厚く覆い、元の形もわからなくなったところで葉子と俺は家へと帰宅するのだった。