みんなでお料理
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葉子と千寿郎を前に座らせて、槇寿郎はじっと腕を組み佇んでいた。そしてゆっくりと伏せていた目を開いた。炎を思わせる緋色が力強く二人を見据えている。
「今日は杏寿郎の誕生日を祝う日とする」
低く重厚な声でそう静かに告げた。
・・・
葉子は着物を襷掛けにし割烹着を来て、朝から延々と米をとぎ、食材を切り料理の下準備に勤しんでいた。千寿郎と槇寿郎は買い物に出掛けている。
突然に「誕生日を祝う」と槇寿郎から言われ、何をするのかと思えば「杏寿郎と言ったら食べ物だ。食事だ。今日はとびきりのご馳走を皆で作って食べさせよう」とのことだった。
葉子達には誕生日を祝う風習がないのだが、世間の流行にそこそこ敏感な知人の橘に「欧米では誕生日を祝う風習があるらしいですよ。最近は上流家庭でもそういった催しをしているのです。槇寿郎さんは父親らしい事は何もして来てないですし、たまには特別な日を演出してもバチは当たらないんじゃないですかね。え? 私ですか? 私は男を祝う度量はいくらも持ち合わせておりませんが。何か?」などと吹き込まれたらしい。
杏寿郎の誕生日を祝うのは大いに賛成だが、槇寿郎が台所に立つことを葉子は非常に危惧している。以前にかまどの火を起こそうとして横着し、呼吸を使ってちょっとしたボヤ騒ぎを起こしているのだ。
包丁も握ったことのない槇寿郎に何の手伝いを頼もうかと思案していたところ、玄関の戸ががらがらと引かれ二人が帰って来た。
廊下を進む足音が台所に近付き、
「魚と肉を買って来た。これだけあれば充分だろう」
千寿郎も槇寿郎も両手で抱える程の食材を持ち、どさりと台の上に置いた。その量は隠の山下が家に食材を運んでくれる量とそう大差は無かった。
「あのぉ……いくら何でも多過ぎませんか」
「いや、あいつは食べる。本気を出せばこれくらいは必要だろう」
本気とは何だ。いつも本気を出していなかったのか。葉子はその言葉に戦慄した。毎日献立を考えて作る方の身にもなって欲しい……いや、今日は祝いの日だ文句は我慢しよう。
槇寿郎も腕まくりをし、千寿郎も袖を襷掛けでくくり、いざ、調理開始! と三人は台所で円陣を組んだ。
葉子は予め研いでいた米を、一体何升炊けるのかという大きさの釜にざぁと入れる。そして大量の水を釜の中に豪快に入れた。そして小さく火のつくかまどの上に置く。
はじめちょろちょろなかぱっぱ。
初めは小さく、途中で大きな火力にかまどの火を調節する。決して途中で蓋を開けてはいけない。それが米の炊き方の常識だ。料理のいろはは既にこの身に染みついている。葉子の米の準備は完璧だった。
千寿郎は小豆を煮ている。沸騰すれば湯を捨て、沸騰すればまた湯を捨てる。それを何度か繰り返すと、小豆がぱっくりと割れて水はほんのり赤く色付いた。小豆の用意は出来た。後は砂糖を入れるなり、潰すなり、寒天で冷やし固めるなり、好きな料理に仕立てて行く。よし、全てだ。全てを作ろうと千寿郎は自分の中にある料理の種類を頭に思い描いた。
槇寿郎はその横で、「今更の疑問だが、さつまいもとみそ汁の組み合わせはそこまで美味いか……?」と思いながらみそ汁を混ぜていた。
次に葉子は魚を捌く。頭をざんっと切り落とし、包丁を躊躇いもなく腹に刺して一気に尻尾まで引く。ばりばりと小気味のよい音を立て、魚を三昧におろした。おろした一枚をまな板の真ん中に置き、すっすっと包丁を引く。一定の幅で美しく刺身が出来上がって行く。お頭付きの刺身が芸術作品のように出来上がる。魚はあと五尾。これを全て捌ききる。刺身、煮魚、丼物。杏寿郎さん、貴方の胃袋は今晩、この海の荒波に耐えられるのかしら……と、葉子は一人くすりと笑った。
胃がむかむかする程の甘味を作り終えた千寿郎は既に切られている野菜と買って来た肉を鍋に豪快に入れる。かまどの火は最大の火力だ。ちろちろと火が鍋の下からはみ出している。呼吸は使えないが、かまどの火の扱いは父よりも兄よりも使いこなせる。
兄上、見ていて下さい……と、素早く動かしもはや残像しか見えない菜箸を持つ己の手を見つめ続けた。
鍋を揺すりながら菜箸で肉の色が変わるまでかき混ぜる。肉の色が変わったところで、鍋肌より調味料を掛ければじゅうと香ばしい音と共に、炒め物が茶色に色付く。肉野菜炒めの完成である。
槇寿郎は台所の隅で包丁を手に取り、しげしげと輝く包丁を眺めていた。
「はぁっ! とうっ!」
「せいっ!」
二人は高く投げた大根を手にした包丁で素早く刻む。その刀捌きは目にも止まらぬ速さで何も見えない。みるみるうちに大根は空中で糸のように細く長く切断され、あるいは半月の形に切られた。ぱらぱらと皿の上に大根が置かれて行く。まるで大根が、この皿は元々自分の居場所だったのだと主張しているように自然と皿に乗って行く。
「葉子さん、あとは盛り付けるだけですねっ!」
「そうね! 私達良く頑張ったよ!」
葉子と千寿郎は最後のもう一踏ん張りだと、出来上がった料理を皿に盛り付けて行く。
「できたぁっ!」
槇寿郎は台所の隅で「玖の型ってどんな構えだったかな……」と包丁を持ちながら姿勢を低くする体勢をとっていた。
・・・
「ただ今、帰りました!」
いつものように大きな声で玄関に入れば、いつも出迎えてくれる葉子がいない。こんな時間に出掛けているのかと訝しく思えば、玄関先には葉子と千寿郎の草履、そして槇寿郎の下駄も置いてある。先に夕食でも食べているのかもしれないと、しんと静まり返った廊下を進む。三人の気配はするが、声を殺しているようだ。
まさか……何か事件にでも巻き込まれたか?
この世には鬼もいれば、犯罪に手を染める人間もいる。杏寿郎は少し不安になり、一気に居間の障子戸をすぱぁんと開けた。
『誕生日おめでとう!』
三人が声を合わせ高らかに言い、千寿郎は手にしていた爆竹を杏寿郎の足元に放り投げた。
「よもや!」
爆竹はバチバチと激しく燃え、杏寿郎の足元でいくつもの閃光を放ち、くるくると回っては燃え尽きた。畳はところどころに焼けて黒ずんでいる。
杏寿郎は何事かと、にこにことしている三人を見つめた。
「杏寿郎、今日はお前の誕生を祝う日だ。三人で馳走を用意した。有り難く食べると良い」
「父上……誕生日はそう恩着せがましく言うものではないと思います」
がははと豪快に笑う槇寿郎の横で、千寿郎は爆竹の燃えかすを拾っている。居間の卓に視線を向ければ、絢爛豪華な料理がこれでもかという程に置かれていた。
「三人で用意をしてくれたのか?」
「はい。お誕生日ですから。お腹いっぱい食べて欲しくて。槇寿郎さんも台所に立ったのですよ」
あまりの出来事に動けないでいると、にこにこと微笑む葉子に羽織をそっと外された。
「さ、みんなで頂きましょう」
「父上はみそ汁を担当しました」
「杏寿郎、ぼうっとしてないで早く食べるぞ」
各々がいつもの自分の場所に座り、杏寿郎が着座するのを待っている。
「何と礼を言ったら良いのか……」
まさか家族より誕生日を祝って貰えるとはつゆほども思っていなかったので、杏寿郎はどう反応したら良いのか分からなかった。突然の好意に気持ちが振り切れて、はち切れんばかりに嬉しい。この気持ちをどう表現したら良いのだろうか。
心がほわりと温かく、今すぐに全員を抱きしめたい衝動に駆られる。
「いや、うむ! ありがとう!」
杏寿郎は自分の座る席の隣にいる、葉子と千寿郎にがばりと抱きつくと、力いっぱい抱きしめた。
「ぐ……兄上」
「杏寿郎さん……痛い」
「俺は素晴らしい家族に囲まれて幸せ者だなっ! わっしょい!」
その日は夜遅くまで、居間から笑い声が絶えなかった。大量の料理も見事に杏寿郎の腹の中に収まったとか。
爆竹により焼け焦げた畳は後日、畳をひっくり返し元通りにしたという。