内に秘めたる
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この日、二人は珍しい格好をしていた。"珍しい"というのは、普段なかなかしない格好をしている、ということだ。
杏寿郎は薄いブラウンのベストとスーツを着ている。葉子はと言うと、白のブラウスに赤いロングスカート、そして紅梅色の羽織と、二人とも洋装の格好をしている。とりあえず洋装で行こうと葉子が決めた。それはなぜか。
なぜなら今日この日、二人で洋食屋に行くからだ。
「初めてこんな格好をするので不安でしたけど……正解でしたね。何だかここにいる皆さんとってもモダンで洗練されてますね」
葉子は初めて来る洋食屋にそわそわとしながら周りを眺めている。皆、スーツやベストやワンピース、それに帽子なども被っておりとても洒落ていた。袴姿にパンプスを合わせている女性もいた。
「そうか? この店の内装がそう見せているんじゃないだろうか。最近では洋装をしている人を街中でも良く見かける」
初めて来る洋食屋でもいつもと変わらず、落ち着き払った杏寿郎に葉子はさすがとため息が出る。
自分達の座る椅子は赤い
全てが見慣れない物に囲まれ、葉子はそわそわと落ち着かない。いつも着物を着て畳に座り、正座をしている自分が赤い豪華な椅子に座っている。それだけで王侯貴族にでもなった気分であった。
「葉子、慣れないところに無理に付き合わせてしまっただろうか」
「そんなことないですよ。私も来たかったですし。少し慣れなくて緊張していますけど。杏寿郎さんと、お洒落をして二人で出掛けて……今日は特別な日だなぁと思っています」
にこにこと、そして周りを見ては物珍しそうにしている葉子を杏寿郎は眺めていた。
近くの街中に洋食屋が出来たと聞き、二人で来てみたかったのでこうして葉子を誘い出掛けた。別に特段着飾らなくても良いのではないかと思ったが、実際に洋装をした葉子は見慣れなくて少々目を合わせるのが気恥ずかしい。真っ赤なスカートを着た姿が眩しく、そして何よりも嬉しそうに楽しそうにしている葉子を見て杏寿郎も胸が高鳴っているのを自覚している。葉子以上にそわそわとしているのは自分だが、それを悟られないように落ち着き払ったふりをしている。妻よりも夫の方がはしゃいでいるのは何だか分が悪い気がするものだから。
「お待たせ致しました」
がらがらと銀色の手押し車を携えて、給仕が料理を運んで来た。
葉子と杏寿郎の前には黄土色の刺激的な香りの立つカレーライスが置かれ、さらにスープ、肉料理のトンカツ、サラダなどが次々とテーブルの上に置かれた。
「次のお食事は頃合いを見てお運び致します」
「うむ! ありがとう!」
葉子は周りの客にならい、テーブルの上に置いてあった紙を広げて膝の上に置いた。
二人は目の前に置かれたカレーライスから立ち上る香りを吸い込み噛み締めた。
「これがカレーライス……良い香り」
「とろみのある液体の中に具材が入っている。にんじんか? それを米にかけたのだな。不思議な食べ物だ」
「頂きます」
二人揃って手を合わせ、スプーンを持ちカレーライスをすくうと恐る恐る口の中に運んだ。
「うまい!」
「わぁ……」
食べたことのない味だった。
少し刺激的で香りが良い。それでいて甘くこくがあり、米ととても合う。いくらでも食べられそうだった。
「美味しいです。不思議な色だと思いましたけど、野菜も一緒にそのまま食べられるのですね。これ、家で作れたら千寿郎君も喜びそうです」
「今度甘露寺に聞いてみよう。彼女ならいろいろと知っているだろう」
二人はカレーライスをぺろりと平らげて、次の料理が運ばれて来た。無論、食べるのは杏寿郎である。周りの客もテーブルに次々と運ばれる料理の数に目を丸くしていた。
葉子は杏寿郎の美味しそうに食事をする姿が好きだった。
普段は大量の料理を家で作らないといけないので少し大変だが、それを差し引いても杏寿郎が全てぺろりと食べてくれ「うまい!」と言ってくれるのは嬉しかった。米つぶ一つも残さず、好き嫌いもせず、出した手料理は全て食べ尽くしてくれる。作り手冥利に尽きる。
そして今日は料理も片付けも店側が全て提供してくれる。心置きなく、純粋に杏寿郎と食事が楽しめる。目の前には愛する夫がいて、こうして夫と幸せな時間を共有している。今日はとても良い日だと思った。
「何か良いことでもあったか」
ふいに、手にしていたフォークとナイフの手を止めて杏寿郎が尋ねた。
「それは、内緒です」
ああ、この顔だと杏寿郎は思った。嬉しそうで、どことなく何かを含んだ言い方。十中八九、肯定的な良い意味が込められている。それをはっきりと言葉として受け取ればきっと舞い上がってしまうのは分かりきっている。
気取った店で、愛らしい妻の言葉と姿に惚気るなど、やはり夫としては少し分が悪い気がする。それに今日は自分はスーツを着ている。少し、ほんの少しだけ気取りたい気分だ。
「洋食を食べるのはたまには良いな。勿論、葉子の手料理がこの世で一番うまいが」
「……ありがとうございます」
下を向き、少し照れてはにかんだ葉子がまた愛おしかった。
洋装を着て、大切な人と特別な店に行く。今日はとても良い日だと杏寿郎は思った。食事をしてそのまま帰るのも勿体ないので、この後は夜の月でも見に行こうかと思いを巡らせていた。
これも葉子には内緒にしておいて、少し驚かせてやろうと、真向かいでにこにことしている妻の顔を眺めていた。
今日は格別に良い日だ。