鯉のぼり
▼
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
それは青空の中を悠然と泳いでいた。黒、青、赤、緑、緋色の五色の鯉のぼりが誇らしげにそよいでいる。
家の庭に高く掲げられた鯉のぼりを下から眺めながら言った。
「あの……物凄く高い位置にありませんか? 雷など大丈夫でしょうか」
「こういうのは目立たせた方が勝ちなんですよ」
鯉のぼりを掲げることが。そして端午の節句に勝ち負けがあるのかは甚だ疑問だったが、それはもう、ひと仕事終えたと言うように誇らしげにしている山下を見て思った疑問はとてもじゃないが言えなかった。
山下は腕を組みながら葉子と一緒になって鯉のぼりを眺めている。
「あの……でもやっぱり雷が少し心配で……」
「毎年これでやってますから大丈夫ですって。で、飾り付けは終わりました?」
毎年。そう言われてしまうと葉子は何も言えなくなってしまう。この家のしきたりややり方は長年煉獄家に出入りしている隠の山下の方がずっと詳しい。
葉子はもう何も言うまいと観念した。
そして二人は庭から客間へと行き、部屋の中を覗くと立派な鎧が二つ飾られていた。炎を思わせる朱い鎧は鈍く光り、威厳があった。山下は飾られた鎧を右端から左端まで、上から下まで姑のようにじっとりと眺めると「うんうん」と小さく頷いた。
「飾り付けはこれであってますか」
「ばっちりですよ。さすがです葉子さん。じゃあ俺は帰ります。その日は任務があるので来れませんけど、皆さんによろしくお伝え下さい」
鯉のぼりの取り付けを頑張ってくれた山下に、葉子は心ばかりの菓子を持たせれば、「気を使わなくて良いのに」と言いながらも喜んで受け取り彼は颯爽と帰って行った。
・・・
薄らと明るくなった空から、陽がのぞいている。木々の間から細い光が地をさし、足元を照らしている。とうに灰となり、散り散りと朽ちている黒いそれは杏寿郎が斬ったものだった。足元には赤黒い血と、切り裂かれた衣類が落ちている。
「炎柱様。怪我人の搬送が終わりました。後は我々だけで大丈夫です。山への立ち入りも解除します。藤の家に向かわれますか?」
「いや、怪我はしていない。そのまま屋敷に帰る」
「わかりました。では失礼します」
隠の男は杏寿郎に背中を向けて駆け出したが、ぴたりと足を止めて振り返る。
「あの! 襲われていた親子ですが、父親の方も命に別状はないそうです!」
隠はぺこりと杏寿郎に頭を下げては再び駆け出した。
そうか。死人は出なかったか……杏寿郎はほっと肩の力が抜けた気がした。
その父親は子を守ろうと、背を鬼に向け必死に子を腕の中に閉じ込めていた。叫び声と同時に駆け付けた時には、鬼が背中に乗り血をすすっていた。
即座に斬った鬼の風貌はもう人の原形を留めていなかったが、着ている物から助けた男とかつては同じ年齢くらいの男のような気もした。鬼も元は人間だったのだ。
死人は出なかったと言えるのか……
ふと、自分の手のひらを見つめたその中に、一筋の白い光が差し込んだ。
朝日が好きだった。夜の孤独から抜け出た喜び、そして鬼が活動出来ない朝を告げる。朝日が上り人々はやがて活動を開始する。長い長い夜が明けた。ふと杏寿郎は陽が多く降り注ぐ方へと足を向けた。
そこは木の少ない開けた場所だった。すぐ足元は崖となっており、眼下には帝都の美しい街並みが広がる。きらきらと陽光が建物に降り注ぎ強い陰影を作る様子は息を飲む美しさだった。
そういえば帰る家の方角はこちらの方だったかと、視線を遠くに向ければ富士の山が薄く見えるもっと手前、川より手前の瓦屋根の並ぶ人家の中に鯉のぼりをいくつか見つけた。
ああ、もうそんな季節かと黎明に泳ぐ鯉を眺めていると、その中にひときわ高く掲げられている鯉のぼりを見た。
杏寿郎は思わずくすりと笑った。あれは自分の家だ。
この時期になると、辺りのどの家よりも鯉のぼりを高く掲げるのは毎年のことだった。いつからそのように高く掲げるようになったのかは記憶にないが、家に帰る時に密かに目印にしている。あれが自分の帰る家の場所なのだと。
そして家で待つ葉子はこの家の鯉のぼりの高さにきっと驚いたであろう。目を丸くして鯉を見上げる葉子の姿を想像しては思わず頬が緩む。
「さて、帰るか」
独り言ちると炎柱の羽織をひるがえし、美しい街並みを背にその場を後にした。