春の陽気にあてられて
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葉子は一対の内裏雛をそれぞれそっと箱から出すと、厚畳の親王台の上に置いた。
優しげな顔に真っ赤な紅をさし、古典下げ髪に天冠をつけ畏まって一点を見つめている女雛。もう一方の男雛は優しげだが凛々しい顔立ちで真っ直ぐと前を向いている。後から垂纓冠(すいえんかん)、腰には飾り太刀、手には笏を男雛に持たせてやった。
部屋の梅の掛け軸のある床の間に密やかに置かれたそれを眺め、女雛のほんの少し乱れている髪を撫で付けて整えてやる。
ひな祭りは女児の健やかな成長を願う年中行事であり、既に嫁いだ葉子は祝う必要はない。しかし嫁入りの際に内裏雛だけを実家より持って来ていた。幼い頃に飾られていた雛人形で遊んでいた懐かしい思い出を、そのまま実家に残して来るのは少し寂しい気持ちが湧いたからだった。
(ここの家はひな祭りはしないもんね。実家から持って来た雛人形をちょっとだけ寝室に飾らせてもらおう)
手にしていた女雛を元の位置に戻し、実家に飾られていた雛壇を思い出す。精巧な道具が揃えられた雛人形をこっそり遊びに使っていると、母に見つかり怒られるのだった。その為にほとんどの女雛は髪が乱れてしまっているのだ。母の忠告を守り、人形を大事に扱えば良かったかしらとほんの少し後悔をしていたところ、部屋の外より声が掛かる。
「葉子さん、少しよろしいですか。書を見てもらいたいのです」
「ええ、どうぞ」
すっと開かれた障子戸より、正座をした千寿郎が顔を覗かせた。
「雛人形ですか?」
床の間に置かれている雛人形にすぐに気が付いた千寿郎は葉子の側までやって来て、横に静かに座った。
「ご実家から持って来られていたのですね」
「内裏雛だけね。ここの家は桃の節句はしないものね」
雛人形が珍しいのか、千寿郎は顔を少し近付けてまじまじと眺めている。
「そうですね。うちは桃の節句より端午の節句ですから。もしかしたら蔵に先祖の飾った雛人形があるのかもしれませんが僕は見たことがありません。それにしてもすごく細かく作られているのですね。髪も一本一本がちゃんとある……こんなに近くで見るのは初めてかもしれません」
そして葉子の方に顔を戻し、何かを思い出したように再び人形に視線を向けた。
「……この雛人形、婚儀の時の兄と葉子さんに似ていると思いませんか?」
「こんなに色白じゃないよ?」
「そうではなくて……」
千寿郎は言葉を探しているのか、腕を組み考え込んでいる。その姿が今は任務に出ている杏寿郎にそっくりで葉子は心がほっこりとした。
「何と言葉にしたら良いか……袴を来て真っ直ぐに座っていた兄と、黒引き振袖を来た葉子さんが……何だか畏まってここに座っている内裏雛に似ているなと。見た目とか着ている物とかではなくて」
適当な言葉を探しているのか、少しの間を置いてから千寿郎はぽつりと言った。
「兄も葉子さんもあまりに立派で美しくて、僕は自分が誇らしい気持ちになりました。あの時の婚儀は自分のことではないはずですが、不思議とそんな気持ちになったのです。何だろう……こう、伝わってますか? 少し変でしょうか?」
「変じゃないよ。ありがとう。そう言って貰えてとても嬉しいよ」
葉子の目には少し恥ずかしそうにうつむいている千寿郎が映った。
あの時は……あの時はと振り返る。一つ一つの所作をこなすのに精一杯で、母に言われるまま、周りに流されるがままその時が過ぎたような。しかし、皆から祝福され人生の節目を迎えられた事は非常に喜ばしくこの上ない幸せな時間であった。今でもあの日の事は鮮明に覚えている。時が何年と過ぎても、あの一日をなるべく忘れないように胸に刻もうと葉子はそう思った。
「そうだ、雛人形は居間に飾りましょう。せっかくですし、父も兄にも珍しい物のはずなので喜ぶと思います」
千寿郎の提案により、二人で内裏雛をそっと居間へと運んだ。
・・・
玄関の引き戸がガラガラと開かれ、買い物に出ていた槇寿郎が夕飯の時間に間に合うように帰って来た。
「今、帰った」
玄関よりすたすたと続く足音はそのまま居間へと向かったようだった。葉子は台所より、手を拭きながら槇寿郎のいる居間へと向かうと、さっそく飾り棚の上に鎮座する雛人形を眺めていた。
「蔵から出したのか?」
「いえ、実家から持って来ました。ここに飾っても良いですか? お邪魔でしたら片付けます」
嫁ぎ先の家へ実家から持って来た物を置くのはどうなのだろうか。実家を恋しく思っているのでは? そう受け取られてしまうのではないかと葉子は少し心配になった。
「季節が感じられて良いじゃないか。しかもちょうど良かった。町で売っていたので買って来た」
差し出されたのは雛あられであった。槇寿郎も桃の節句を意識したのだろうか、桃・白・緑の三色の色鮮やかなあられを人形の横に置いた。
「今までは絶対に買うことは無いからな。買うのには少し勇気がいったがなかなか新鮮で楽しかった」
「わぁ……可愛らしい。ありがとうございます」
ころんとした可愛らしい色の雛あられを槇寿郎はどんな気持ちで買って来たのだろうか。葉子はそれを思うと嬉しくて、心がほっこりと温かくなるのであった。
槇寿郎は満足そうに腕を組み、人形を眺めている。
「この二体、どことなく杏寿郎と葉子に似てはいないか?」
「……千寿郎くんにも同じ事を言われました」
「ああ、やはり」
槇寿郎は葉子と人形の顔をそれぞれ見比べた。
「そもそも内裏雛自体が宮中の婚儀を模した飾りだからな。どことなく畏まった雰囲気があの時の二人に似ている」
「そうでしょうか?」
「まぁ、俺も千寿郎も褒めているのだから良いじゃないか。深い意味はない」
笑いながら槇寿郎は葉子の頭をくしゃくしゃと撫でて、そのまま居間を後にした。
こうして実家から持って来た雛人形も煉獄家に温かく迎え入れられ、二体の人形は「万福この上なし」と満足気な表情になった気がした。
今日はずっと外の気温も心も温かく、ほわんと春の陽気にあてられたようであった。