雨降りて(黒死牟)
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曇天の、今にも雨が降りそうな日だった。
鬼は陽光の元では生きられない。この日は朝から太陽が厚い雲で覆われ、日中だというのに外を出歩けた。
久しぶりだ、日中に外を歩くのは。
上弦の壱である黒死牟は「青い彼岸花」を探す為に、市中を歩いていた。
何百年と
その為こうして日中に出歩ける貴重なこの日を捜索に当てている。
鬼である自分がそのままの姿で歩けば町は混乱する為に、むろん姿は人間の姿に似せている。
まだ日があるこの時間は人々が賑やかに通りを歩き、町中は物売りや商品を求める人の声で活気があった。人々の話し声、子どものはしゃぐ声、笑い声が雑踏の中に混ざり、心地の良いざわつきが頭に響く。
ずいぶんとこの国は変わった。人も変わった。永い動乱の時代を経て、今は幕府が治める太平の世だ。こんなにも世の中は動いているというのに、自分はずっと同じ時で止まったままだ。
……永い時を生き過ぎた。不変とはこんなにも退屈で虚しいのか。
鬼になったことを後悔はしていない。してはいないがどこか虚しい。人が行き交う通りを歩いていると、そんな思いがふつりと生まれる。
ふと視線を上げれば前方より女がひと束の菊を持ち、こちらに向かって歩いて来る。
武家の娘か。凛とした佇まいでわかった。年の頃は20歳半ば過ぎ、まだ子は産んでいないらしい。人間の身体的特徴はこの目で見ればわかる。
「よお! 規子。金は持ってんだろうなぁ」
突如、野卑な笑みを浮かべた男達が女に話しかけた。女の名は規子というらしい。規子は男を無視するように避け、そのまま前に進もうとした。
「おい! 無視すんじゃねぇよ! 花なんざ買う金があったらお前の旦那が作った借金返せや。死んじまったんなら嫁のあんたに払う義務があんだよ」
男はわざと周りの人々に聞こえるような声で捲し立てた。通りを歩く人々は関わりたくないと足早にその場を通り過ぎる。
「……夫はお前達に騙されたのです。払うものはありませぬ」
きっと相手の男達を一瞥すると規子はその場を去ろうとした。
「けっ、騙される方が悪いんだ。自害なんかしやがって、武士の風上にも置けねぇ。金はお前が遊郭でも何でも行って作れば良い。俺の相手をすれば、俺が払ってやっても良いけどな。武家の女の味が知りたいねぇ」
取り巻きの男達よりどっと笑いが起こり、中心にいる男は口元をいやらしく歪め笑った。周りの男達もそれに合わせるようにして、にたにたと笑っている。
男は腕を伸ばすと乱暴に規子の腕を掴み、引っ張って行こうとした。
──不快。耐え難し。
「離して下さいっ! 離して……!」
人間と関わることはしたくはなかったが、女の苦痛の声を聞いてとっさに一歩が出てしまっていた。
「……女を取り囲むなど……男のすることか」
「何だてめぇ!?」
「早く……去れ」
その一声を発しただけだったが男たちは青ざめ、額からはじっとりと脂汗を出し、口々に負け惜しみを言ったかと同時に慌てて逃げ出した。
その様子をぽかんと眺めていた規子はハッとして向き直る。
「助けて頂きありがとうございます」
「…………」
手にしている菊は自害をしたという夫に捧げる花なのだろう。大事そうに抱えている。
「あの……武士の方でしょうか? お名前をお聞きしてもよろしいですか。お礼がしたいのです」
「名乗る程の名は……無い」
人間と関わる気はさらさら無い。やがてぽつりぽつりと雨が雫となって降って来た。
規子は何かを言いたげにじっと視線を寄越して来る。その姿がとうの昔に置いて来たもう忘れたと思っていた妻の姿と重なった。
口数の多い
黒死牟は何も言わずに出て来たあの家を思い出していた。そう、何も言わずに忽然と姿を消したのだ。あの日、鬼となる為に。
「では、これを」
規子はおもむろに黒死牟の手を取り小さな包みを渡して来た。生身の人間、しかも女相手に手を取られるとは不覚。そんな己に驚いた。殺気が皆無だった為に、反応が遅れたのだろう。
しかし規子の手は驚くほど柔らかく温かかった。久しく人の手の感覚を忘れていたが、こんなに柔いものだったか。かつての妻もこんな風だったというのか。
自分の中で何かが弾けて雫となり、ぽつりと落ちた。
やがて雨が本降りとなり、地面にしみを作って行く。規子は「本当にありがとうございました。では、またどこかで」と言って小走りに去って行った。
もう二度と会うことはあるまい。
鬱陶しい雨をしのぐ為に、建物の軒下へと身を滑らせた黒死牟は先ほど手渡された小包を開けてみる。その中には砂糖を固めて作った和三盆が入っていた。
人の食べ物なぞ、久しく口にしていない。食べ物の味もとうに忘れた。ただ、興味本位で食べてみようという気にはなった。
小包をそっと開けて、小さな固まりを口にする。
口に含めばさっと溶けて、優しい甘さが広がった。忘れていた味覚を思い出し、懐かしさとどこか胸を締め付けられる思いがした。
あの女の、規子の気遣いの味なのかと思った。自分は鬼にはなったが、まだ人の気持ちをおもんばかることができたのか。ふっと口元が緩む。
そして、この菓子は以前にも食べたことがあるような気がする。
「規子に……せめてもの礼を……しなければな」
規子に詰め寄っていた男達を探しに出掛けようと、黒死牟は雨が降る夕刻にふらりと溶け込んだ。
雨がしとしとと物憂げに降っている。