勧誘(童磨)
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その日、川面に映る月を眺めようと規子は家からすぐの橋にやって来た。
人工的に作られた川に木製の橋がかけられている。昼間は人の往来があるこの場所も、この時間は誰もいない。遠くで犬の遠吠えがさらに寂しい夜を演出している。
夜に家から出るのは良くないと家族には止められたが「すぐ近くだし大丈夫」と言って、規子は半端無理矢理に家を飛び出して来たのだった。
この日は満月の為に淡い光が地上を照らし、提灯を持たなくても夜の暗闇では不自由しなかった。
「……綺麗」
空には煌々と月が輝き、川面にもゆらゆらと月が映っていた。頭上と欄干の下にも同じ月が輝いている。規子はこんな夜の風景を眺めるのが好きで、こうして夜に家から外に出てはこの場所によく来ているのだ。
しかも誰もいないこの時間に来るのが好きだった。1人で月夜の余韻に浸る。夜と一つになれる贅沢な時間。
今までも特に危険を感じたことも無かったし、今日も大丈夫。しばらく眺めたらすぐに家に帰る。そう思っていた時だった。
「今夜は月が綺麗だねぇ」
急に背後に人の気配がし、規子は振り返った。
そこには独特の被り物をした男が立っていた。瞳は虹色のような不思議な色をしており、妖の類なのかと一瞬たじろぐ。
気配も感じさせずに急に現れた男はただものではないのだと思う。この男は危険だ。
「こんなところで1人で女の子がいるなんて危ないね。どうした? 俺が話を聞いてやろう」
にこやかで口調も穏やかであるが、どこかずかずかと人の内側に入ってくるような無遠慮さが感じられる。
この人物は危険だ。本能的に察知した。
男は規子のすぐ隣りで欄干に背中を預け、手にしている金の扇をぱたりぱたりと手の上で叩いていた。
逃げられないのは既にわかる。逃げる方が身の危険なのではないかと感じる。どうしたら良い? もうどうしようもないのか。諦めるしかないのか。とりあえずは質問に答えよう。
「……月を眺めていました。今夜は満月なので」
「ふうん……確かに今夜の満月は見事だ。それだけ? それだけのことにこんな時間に1人で出歩いてるの? 無用心だね。怖くないのかい?」
男にとっては意外な回答だったのか驚いたような声を発した。
「怖くはないですよ。地元ですし。貴方こそ、こんな時間に何を?」
この質問は男にしてはいけなかったのではと言ってから気が付いた。
「俺? 俺はね、探し物をしてるんだよ。悩める人を救うのが使命だからね。君、名前は?」
「規子……です」
男は欄干に背を預けたまま規子の方に顔を向けるとにこにこと屈託のない笑顔をよこした。その顔が月明かりに照らされて、恐ろしいような美しいような何とも不安な気持ちにさせる。
「ふぅん……こんな時間に川を覗いている女の子がいたからね。規子ちゃんがここから身投げをするのかと思って気になって来てみたんだよ。自分で死ぬくらいなら俺が救ってあげようと思ったんだ。でも、その必要は無さそうだねぇ」
「そうですか……それは、ありがとうございます。でも大丈夫です」
「どういたしまして」
男はさらに目を細めて笑った。善人なのだろうか。わからない。
そして男は手にしていた小さな何かを川面の月に向かってひょいと投げた。月はぐらりと揺れて消えたが波紋が無くなると再び現れる。
「うわぁすぐに復活するねぇ。俺はこの崩れる瞬間が一番美しいと思うよ。そうは思わないかい? 儚い美しさ。うっとりするよ」
和やかに笑っている笑顔の中に、一瞬狂気が宿った気がした。だが、それは気のせいかと思うほどに一瞬のことで確信が持てない。
「そうそう。俺は優しいから一つ忠告しておくが……夜に出歩くのは"鬼"が出るから危ないよ」
男が持っていた金の扇を空いているもう片方の手に持ち替えた。顔は笑顔が張り付いたままだ。
「……あれ?」
気付けば規子の手の甲より血がぽたりと一滴地面に落ちた。痛みは無い。いつの間に怪我をしたのか。
規子は一本の線が引かれたような傷のある手を引こうとすると、おもむろに男に手をつかまれた。
「おやおや、怪我をしているね。どうしたんだろう? 可哀想に、傷が残らないようにまじないを掛けてやろう」
男は規子の手を口元に近付けると、舌を出し血ごと傷を舐めた。そしてちゅうと音を出して口元から離す。
「何を……」
規子は突然のことに唖然としたが、男は恍惚とした表情でべろりと舌舐めずりをした。
その姿は月明かりを背に美しくもあり、妖しく恐ろしかった。男の口からは犬歯が鋭く覗いている。
夜に出る鬼とは、この男のことでは?
規子はそう思ったが、それを言ってしまえば全てが終わる気がして黙っていた。恐ろしかった。
「ふぅん、良いね。この近くの山に万世極楽教の寺院がある。何か悩みや困ったことがあったら行くと良い。助けて貰える」
「…………」
男はにたにたと笑うと、規子に背を向け橋から離れて行った。
「規子ちゃん、またね。可愛い人」
それ以来、満月の晩にこの橋に来てみるものの、その男と会うことは一度も無かった。
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