19.春を忘れじ
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朝食を済ませ、4人は居間で煎茶を飲んでいた。
熱い煎茶が喉を通り、体の中も熱を持った。これでようやく1日が始まる心地がする。湯呑みをことりと卓に置き、槇寿郎はふうとため息をついた。
全員は押し黙っていた。
読んでいた新聞をぱたりと閉じて、槇寿郎は声を掛けた。
「……千寿郎、部屋で父と将棋でも打たないか」
「はい、わかりました」
槇寿郎と千寿郎は卓の上に置いてあった菓子をいくつか手に持つと、すっくと立ち上がり、そのまま居間から出て行った。
部屋には杏寿郎と葉子の2人きり。
杏寿郎は特に言葉を発せず腕組みをしていたがその腕を解き、真っ直ぐと葉子を見つめた。
「葉子、この家に来てから数ヶ月が経ったがどうだ?慣れたか?」
「はい。槇寿郎さんや千寿郎くんにいろいろと教わりながらだいぶ慣れました」
「そうか」
杏寿郎の瞳はいつもと変わらず、力強く真っ直ぐだった。
だが今日は何か決意を秘めたような、瞳の奥から滲み出る覚悟のようなものを感じる。
杏寿郎も葉子も次に顔を合わせた時は話をしなければならないと漠然と感じていた。それが今、この時だった。
「祝言をあげるつもりで葉子を家に迎え入れているが、祝言の日取りを決める前に聞いておきたいことがある」
「はい」
葉子は居住まいを正し、背筋を伸ばした。
杏寿郎は言葉を選んでいるのか、次の言葉が出るまでに時間がかかっている。
ようやく出された言葉はそれだった。
「……先日の郵便局での事件を知っているか?」
隣町での事件で、新聞にも大きく取り上げられていたのを記憶している。確か強盗目的だったと思う。
葉子が町に買い物に出た時、町の人々が噂をしているのはもっぱらその事件の内容だった。
「表向きは強盗目的の犯行で、犯人は捕まっていないことになっていたが、あれは鬼の仕業だ。建物内にいた鬼に、荷物を出しに来た人が次々に喰われた。何の罪もない普通の一般人で、いつもの日常を送っていた人々だ。8名の犠牲が出て、そのうちの1名は鬼殺隊士だった。別の鬼殺隊士が向かい、鬼は討伐されたが8名の尊い命が突然に未来を絶たれ亡くなった。鬼は人々の生活の隙間に入り込みいつも人を喰らう機会をうかがっている」
声色はひどく穏やかだったが、その口から語られる内容は凄惨だった。葉子は心臓が握られたかのような息苦しさを覚えた。
(新聞ではそんなこと一切書かれていなかったのに……)
唐突に未来を奪われた人々のことを思うと言葉にならない。
「今、こうしている間にもどこかで犠牲者が出ているかもしれない」
「…………」
「俺は鬼殺隊の一員である以上、命をかけてでも鬼から人々を守る。それが俺の責務だからだ」
鬼殺隊が過酷な任務なのは知っている。そして鬼殺隊の柱である杏寿郎もそれは例外ではないのはわかっている。
わかってはいるが……本人の口から語られると、それはまた違った気概を感じる。揺るぎない信念。
杏寿郎は真っ直ぐと向き合い、力強い炎を思わせる瞳はじっと葉子をとらえていた。
「俺は葉子と祝言を挙げ、夫婦になりたいと思っている。そして俺は鬼殺隊を支える柱だ。鬼殺隊士に命の危険がある時は俺は迷わず盾となる。任務の最中に命を落とすこともあるかもしれない。それでも俺と夫婦になる覚悟はあるか?葉子に今一度、聞いておきたい」
つまりそれは自分は任務で命を落とすこともあるのだと葉子に伝えている。
それはわかっている。わかってはいたが……
葉子の頬につつと涙が流れた。
悲しいから流した涙ではない。
杏寿郎の口からはっきりと思いを聞けた嬉しさと、自分も背負うことになる運命と覚悟と、起こり得るかもしれない悲しい未来と。
全てを受け止めたらなぜか涙が出てきたのだ。
「…… 葉子を泣かすつもりはなかった」
そう言って杏寿郎は立ち上がり、葉子の側に来ると頬に伝う涙を指でそっと拭った。
そして葉子を抱きしめた。
離したくない。どこにも行って欲しくない。共に歩んで行こう。
そう思うと、身体が勝手に葉子を抱きしめていた。この小さな体は華奢で、守ってやらねばと思わせる。
「葉子を悲しませるのは自分だと思いたくない。だが、葉子に嘘はつきたくない。こんな俺でも受け入れてほしいと思っている」
杏寿郎の心臓がとくとくと脈打っている。腕の中は温かく、杏寿郎の香りがした。陽だまりのような心地良い、どこか切なく懐かしい匂い。
「俺は葉子が一生笑って幸せに過ごせるのなら、俺ではない他の誰かと夫婦になっても構わないと思っている。それは身を引き裂かれるように辛いが。葉子を悲しませるのが自分だと思うとそれも辛い」
葉子はそっと杏寿郎の背中に手を回した。背中は広く、がっしりとしていたがどこか寂しげで1人でもがいているようにも思えた。
杏寿郎も人間だ。
同じように悩み、不安になり、同じように立ち止まる時もある。そう思うと、葉子は杏寿郎が愛おしくてたまらなくなった。
「……先のことは誰にもわかりません。もしかするとお互いに皺々になるまで添え遂げることもあるかもしれません。ただ、人はいつか死にます。遅かれ早かれ誰にでも等しくその時は来ます」
葉子は杏寿郎の腕の中から顔を離した。
「その時まで一緒に笑って過ごせれば私はその時が来ても、ちっとも悲しくありませんよ。自分のことも不幸だとも思いません。杏寿郎さんと夫婦になれないことの方が辛く悲しいです」
杏寿郎は目を見開いた。
赤い瞳の中にはしっかりと葉子の姿が映っている。目の中の葉子は穏やかに微笑んでいた。
死を意識すると生がはっきりと色濃く鮮やかになる。
「……杏寿郎さんの気持ちが聞けて嬉しいです。一緒に綺麗な景色を見て、一緒に美味しい物を食べて……一緒に笑ったり泣いたり、苦しいことも楽しいことも分け合いましょう。私はそうしたいです」
「…… 葉子」
杏寿郎は愛おしい者を見るように目を細めた。葉子が愛おしくてしょうがないのだ。目に入れても痛くないほどに……
しかしすぐに目が見開いた。
「うむ!それはダメだ!」
「……はい?」
「苦しいことは分け合えないな!俺が葉子の分も背負ってやろう!それが夫の務めだろう!」
(何か……変な伝わり方したかな?私の気持ちはわかってくれたかな)
葉子はほんの少しの不安を感じたが、特に何も言わずに杏寿郎の反応を待った。
こんな少しずれたところも愛らしいのだ。これがいつもの杏寿郎。自分の夫になる人。
「葉子、外に出よう。伝えたいことがある」