うちの
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その日の夕方、鋼鐵塚が珍しく慌てた様子で鉄穴森の家を訪ねて来たのだった。乱暴に家の戸を開け、開口一番にこう言った。
「おい、うちのを見なかったか?」
はて、うちの。うちのとは何のことだろうか。うちで使っている道具のことだろうか。道具と言えば刀を作る道具のことだろう。
「鋼鐵塚さんが使っている金床なら見てませんよ。誰かが持って行ったのですかねぇ」
「違げぇよ! うちの実江のことだっ!」
鉄穴森はぽかんとした。ああ、実江さんのことかと。自分の妻をもうすっかりそんな風な呼び方をして、まるで長年のおしどり夫婦のようではないですか鋼鐵塚さん、と鉄穴森は心の中で声を掛けていた。
「実江さんなら、鉄永さんのところの春子さんと一緒にいるのを見掛けましたよ」
鉄穴森の妻である鉛が、手ぬぐいで手を拭きながら奥から出てきた。
「何だって鉄永んところの嫁と!? 俺に黙って出て行きやがって!」
鉄穴森は何もそんなに怒ることないじゃ無いかと思ったが、実江のことを本気で心配していたのだろう。鋼鐵塚は里中を探したらしく、着物には葉や泥が付いており、長い髪は振り乱し、慌てた様子で家に入って来た時は、少し気の毒に思えた。
「春子さんは確か、実江さんに捌き方を教えて貰うと言っていましたけれど」
捌き方。一体何の捌き方なのか……
実江は隠が里へ運んでくれる食料とは別に、一人で山の中に入り、猪や鹿などを自力で調達して来ることがあった。その肉を里の者達に分けてくれるので、このところ里の食生活は豊かになっている。
「夕飯の支度をする時間には帰って来ると思いますよ。ほら……」
鉛が開きっぱなしになっている戸の外に視線を送れば、若い女のはしゃぐ声が聞こえてきた。
「実江さん、どうやったら飛んでる雉を仕留められるの!? 凄過ぎなんだけど!」
「やってれば慣れてそのうち誰でも出来るようになるかな。雉って飛ぶの下手だしね。初めは少し難しいけど、慣れだよ。弓矢貸そうか?」
「ううん。それは遠慮しとく」
実江と春子の声である。その声を聞いた鋼鐵塚は、眉間に皺を寄せて勢い良く外に出て行った。
「おい! 実江、どこに行ってた。黙って勝手にどっか行くな」
本当は急にいなくなった実江が心配で心配で里中を探し歩いていたのだが、それを言えずに高圧的な態度で接する鋼鐵塚は言葉が足らずに人に誤解を与えてしまうことが良くある。こんな風に。
「はぁ!? 何その態度!? 許可無く勝手に山を降りるわけないし! ちょっと嫁がいなくなったくらいで何その言い方!?」
春子はぐいと一歩前に進み出て、随分と年上の鋼鐵塚の胸に人差し指を押し付けた。
実江と同い年の春子は物怖じせずに誰にでも食ってかかることで有名で、春子を娶った鉄永はそれはそれは温和な人物であることでも有名であった。鉄永が刀を届けに町に出た時に道に迷い春子に助けて貰ったのが馴れ初めとか何とか。
その為、温和な人の多い刀鍛冶の里で春子は少し毛色が違い、鋼鐵塚は自分の事を棚に上げておいて春子の事が少し、いや、かなり苦手であった。
「ちょっといなくなったくらいで何その言い方!? 何って器の小さい男! そんなんだからなまくら作っていっつも刀が折られて返って来るのよ!」
それは言い過ぎでは……と鉄穴森は思った。横にいる鋼鐵塚は刀鍛冶としての矜持が傷付いたらしく、顔を青くしてわなわなと震えている。春子が女で無かったら間違い無く包丁を突きつけているが、一応女には
「こんな男と生涯一緒にいなきゃいけない実江さんが可哀想。実江さん、いつでも言ってね。私の実家の兄、弁護士なの。離婚したくなったら応援するから。財産全て掠め取って別れるのも有りだからね!」
ひとしきり捲し立て「じゃあ今日はありがとう」と鋼鐵塚を一瞥し、ふんと鼻を鳴らすと春子は帰って行った。
その場に残された者達はしんと静まり返った。思いの外、鋼鐵塚は心に傷を負ったらしく黙ったままだ。鉄穴森は自分の家の玄関先で完全にとばっちりを受け、どう声を掛けてこの場を納めようかと言葉を探していた。
「あの、蛍さん……私、家を出る時ちゃんと声を掛けたんですけど。作業に熱中してて聞こえなかったです……よね?」
鋼鐵塚の顔を覗き込むようにして実江が言った。優しい瞳が幼い夫の心の中を覗き込んでいる。
「春子さんはあんな事言ってたけど、別れるつもりも全然ないですし、私、蛍さんの事まだまだずぅっとたくさん、本当にたくさん好きですからね? それに、蛍さんは素晴らしい刀鍛冶ですし。私はそう思ってますよ」
実江の言葉に鉄穴森は立ちくらみが起きそうだった。胸がきゅうと締め付けられる。鋼鐵塚さん、随分と年上の貴方が年下の妻にこんな事を言わせるだなんて何て罪な人なのかと、羨ましいやら悲しいやら何とも言えない気持ちになった。
「鉄穴森さん、お騒がせしました。蛍さん、行きましょう」
ぺこりと頭を下げて、鋼鐵塚の手を取った実江の反対の手には肉の塊が。既に屠殺が完了している雉の肉だ。足が生々しく剥き出しになっている。
実江に手を引かれ、去って行く鋼鐵塚は一言の言葉も無くぷいと帰って行った。その大人気ない姿に鉄穴森はさすがにイラっとした。
「あのお二人、本当におしどり夫婦ですね」
ふふっと笑った鉛に、そうか、これが愛だった。そう言えばそうだったかと鋼鐵塚にはあまり似つかわしく無い言葉を思い出した。
・・・
家への帰り道、二人は無言であった。しかし、手はしっかりと握られたままだ。里の中の山道を二人は静かに歩いている。
「おい。いつまでこうしてる気だ」
鋼鐵塚がそう言って繋がれた手を離した。するりと無くなってしまった温もりが実江には寂しい。
「出て行く時は手紙でも置いてから行け。仕事中は何も聞こえねぇし、見えてもいねぇ」
振り返りもせずに背中ばかりを実江に向け、ずんずんと道を行く。
実江にはわかっていた。気付いた時には忽然と姿を消した自分を必死に探してくれていたのだろうと。そして迂闊だった。仕事中は恐ろしい程の集中力で全く周りが見えていないのも知っていた。この広大な里の中を探して回るのも大変だったろうに。そこまで心配をしてくれていた事に嬉しくなる反面、申し訳のないことをしたと思った。
「蛍さん……もしかして怒ってます?」
その問いには何も答えず無言であった。
夫は、この人は刀に対する気持ち以外、自分の気持ちをなかなか表に出さないので、実江は時々戸惑ってしまう。何を感じたのか、どう思っているのか。これから少しずつわかるようになるのだろうか。今もこうして無言でいられるのは、もしかして嫌われてしまったかと不安になる。そう思うと実江は気持ちが落ち込んだ。すると、先へと進んでいた背中がぴたりと止まった。
「いや、実江のさっきの言葉が……」
「さっきの言葉?」
「鉄永んとこのに言ってた言葉だ」
鋼鐵塚がくるりと振り返る。
「実江ばっかりそういうのを平気で言うから何か癪なんだよっ!」
そう言ってふいに実江の手を握り歩き出した。何だ怒っていたわけじゃないのかと、実江は急に肩の力が抜けて、温かいその手をぎゅっと握り返したのだった。
「お前が…… 実江の姿が見えなくなると不安になる」
「私はどこにも行きませんよ?」
「それはよくわかった。そういう意味じゃなくてだな……いや、そういう意味もあるが」
何か言葉を探しているのか、実江の手を引きながら歯切れ悪くぶつぶつと何かを言っていた。
「四六時中、一緒にいたいって事だ」
振り向かずにはっきりとそう言った鋼鐵塚は照れているのか耳が真っ赤だった。その言葉を聞いた実江も顔が赤くなった。
二人は顔が赤いまま、家までの道を少し足早に進むのであった。
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