10.終わりにしよう
▼
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
河原に向かって歩いている時に、鋼鐵塚はふと気が付いた。自分が提灯を持ち歩いていないことに。そのまま家から出て来てしまったので、夜の道を歩くことを想定していなかった。しかしこの日は満月で、満遍なく辺りを淡い光が照らしていた。木々に茂る葉や草木に濃い陰影を作り、日中とは違う風景を醸し出している。
こうして月明かりがある為に、河原までの道のりと里内を歩く分には心配ない。鋼鐵塚はそう自分に言い聞かせそのまま手ぶらで河原へと向かうことにした。
夜の川は静かであったが、静かで無かった。川の流れる音が砂利を踏みしめる音を掻き消し、絶えず水流の音がしている。その音はせせらぎであったり、早瀬であったり、様々な川の音がせめぎ合っていた。それは少し恐ろしいような、寂しいような何とも言えない不安を掻き立てた。
川沿いを黙々と歩いていれば、やっと開けたいつもの河原にたどり着いた。
自分がこしらえた石塔の奥、ちょうど実江がいつも洗濯をしている辺り、そこに人影が見えた。人がいる。まさか見間違いかと目を擦れば、やはり確かに人がいる。釣りをしているようだった。そしてその人物は女物の着物を着ていた。
「実江っ……!」
思わず鋼鐵塚は駆け寄っていた。大小様々な石につまずきながらも、何とか転ぶことはなく息を切らし実江の元へとたどり着いた。
「鋼鐵塚さん?」
姿に気が付いた実江は、驚いた顔をしたものの、その後にっこりと微笑んだ……かのように見えた。煌々と輝く月の光りとは逆光で、はっきりと顔が見えないのが惜しい。
「こんな夜に何やってんだ、危ないだろ!」
とっさに出た言葉がそれで、自分でももう少しまともな台詞が言えないのかと自分で自分に少し呆れた。
「うなぎを釣ろうと思って。うなぎは夜行性なので」
「……送ってやる。良いから帰るぞ」
いくら猪を一撃で仕留められる実江とはいえ、夜に女が一人で出歩くのは良くないと思った。しかし、実江はその場を動こうとせず、鋼鐵塚に向けていた顔を今度は川に向け、じっと竿を握ったままだった。釣り糸は向こう岸に近い川面に続いており、川の流れに身を任せながら頼りなげにゆれている。
二人はしばらく無言でその場に立っていた。時折り、魚か何かわからないがぴしゃんと川面を跳ねる水音がする。夜の川には鋼鐵塚にはわからない生き物がいるに違いなかった。
しばらくして実江は釣竿を川から引き上げ、くるくると釣り糸を竿に巻き付けると、釣りを諦めたのか足元の砂利の上にそっと置く。そしてくるりと振り返った。
「本当はうなぎはどうでも良いんです。ずっと鋼鐵塚さんに会えなくて、夜なら来るかなって思って待ってました」
やはり月とは逆光で、実江がどんな表情をしているのかよくわからなかった。
「この前は、お見合いの時はありがとうございました。鋼鐵塚さんが、初めて私の名前を呼んでくれたのがとっても嬉しかった……」
──名前。そういえば実江のことを名前で呼んだことは今まで無かったかもしれない。
この時、月にかすかに薄雲がかかり、眩いばかりの白い光がいくらか和らいだ。顔を覆っていた濃い影はなりを潜め、やっとこの時に実江の表情がわかった。実江は微笑んでいた。
実江は確かに微笑んでいた。
その微笑みはこの場にいるたった自分一人にだけ向けられているのだ。
会いたいと、焦がれた実江の表情はやはり美しかった。少しはにかんだ表情に胸が締め付けられる思いがする。そして次に自分に起きた変化は胸の高鳴りだった。そのすぐ後には雷に打たれたようなとてつもない衝撃が体を駆け抜けた。この感情を何と表現したら良いのだろうか。
好きとか、愛しているとかそんな陳腐な言葉とも違うのだ。一つの言葉では言い表すことができない。
「もう一度、名前を呼んで貰えますか?」
静かにそう問うた実江は黒目がちな瞳をそらさずに真っ直ぐと向けている。
鋼鐵塚は少しの間を置いてから言った。改めて言われると気恥ずかしいが。だが、自分が思うよりもずっと、それはすんなりと喉を通り声となって出ていた。
「…… 実江」
「凄く、嬉しい……」
またもや照れながら微笑んだ実江は、その存在が自分の中で体の大部分を占領してしまったようだった。魂の全てを実江に持っていかれてしまったのではないかと思うくらいに目の前の景色はもう、実江しか映らなかった。これが夢でないと良いのだが。
水流の音がさらさらと辺りに響いている。
川の音がこんなに耳に届いたことはあっただろうか。いつもは何とも思うことの無かったその音さえも、実江を形取る風景の一つとして緩やかで、たおやかで美しいとさえ思った。
月は薄雲から抜け出て、再び煌々と満遍なく辺りを照らし始めた。逆光となっている実江の顔は、陰影が濃くなりまた表情が分かりづらくなる。
「あ、そう言えば鋼鐵塚さんお面していないですね」
温泉に浸かった時に忘れたのだろう。そんなことはどうでも良い。もっと真っ直ぐと実江の顔を見つめていたい。実江の声はもはやぼんやりと頭に降り注いでいた。
「前も、家に来た時もお面を外してましたけど、その時は気付かなかった……目が、左目が」
実江はそう言って、今はもう光を見ることのできない左目にそっと手を触れた。見上げて来るくりくりとした瞳が心配をしているような、優しい色に満ちていた。満ちていると確信が持てた。月からの逆光が実江の表情を影で隠していても、鋼鐵塚にはまるで見えているかのようだった。
実江の手がゆっくりと顔の左側を優しく触れて撫でて行く。
「……これは、大した怪我じゃない。刀は打てる」
鋼鐵塚は思わず、自分の顔に添えられている実江の手を握った。その手は線が細く、柔らかだった。実江はびくりともせず、鋼鐵塚の固いごつごつとした職人の手をじっと受け入れていた。
「俺のところに実江の見合い写真がある。見合いをするぞ、俺と。それで見合いは金輪際、終わりにする。良いな?」
実江はにっこりと微笑むと、二つ返事で承諾をした。