お前しかいない
そう言って笑った顔に、ぐ、と喉が変な音を出すくらい、腹の底からせり上がるとんでもない不快感を覚えた。最悪だと思った。こいつ、最悪だ。
たとえば狼に生殺与奪の権利を明け渡していながら傷付けられることも殺されることも絶対にないと心から信じている小動物。たとえば狼の悪意も好意も平気で利用して使い捨てるくせに狼の盲従を信じ狼の自由と幸せを純粋に願う無垢な愛情。
そういう、そういう残酷なグロさなんだよな。オレとお前の間に常にあるのは。歪みきった「全幅の信頼」の上に置かれオレはずっとギリギリのバランスを保って吐きそうな思いをしているのに、お前のせいで狂っても、オレはお前を殺せない。
『いくらでも好きにできるんだよ 今のお前なら』
ノイズまみれの自分の声が頭の中でリフレインした。片膝をベッドに乗せると安いパイプがギシリと軋んだ。逃げられないように手首を掴む手に力をこめても、真上から見下ろしてさらに顔が近づいても、赤司は未だにオレを
「ふしぎだな」
ガラス玉のような透明なこころで、赤司はオレをまっすぐに見上げて言う。
「
ベッドに両手を押さえ込まれて横たわる赤い生き物が、ようやく辿り着いた正解に、確信めいた鋭さで何かを呟いた。
「お前しかいないんだ、千尋」
オレの髪が赤司の頬にかかり、呼吸が混ざり、赤司の熱もオレに伝わって発熱する。
オレがこいつに近づきたいなんて思ったことはただの一度もなかった。こいつの手が冷たいことなんてちっとも知りたくなかった。こいつの不安定さをそばで感じて、こいつの幼さに触れて、お前の孤独を知って、お前の光を浴びて、
(オレの視界にも今、お前しかいない)
このまま口唇を塞いだらお前を支配できる。お前を犯して暴いたらこの胸のドス黒い苛立ちは解消される。今この瞬間を逃したらオレはもう二度とお前を殺せない。夕暮れの薄暗さ、ベッドの上のオレたちの影が伸びて、乱れた前髪の隙間から汗ばんだ赤司の額がうっすらと光っている。そうだ、こいつは病人だ。オレの右手には包帯が巻かれていて、ここは保健室のベッドで、練習はまだ――
ハッと息を飲んだ。
寸でのところで身を起こして顔を離す。赤司はまぶたを閉じてすぅすぅと寝息を立てていて、身体からは完全に力が抜けていた。
放課後の保健室の異常なほどの静寂の中、止まっていた時間が一気に動きはじめたようだった。全身から変な汗がどばっと噴き出た。少しでも音を出したら爆発する気持ちで、死ぬほど慎重に手を離し、ギシギシ鳴るベッドにビビりながら、息をひそめてそろりと床に降りた。
爆音でわめいている心臓をなだめるために、静かに静かに息を吸って、肺の中にたっぷり溜めてから……それはもう静かに、最後まで吐き切る。
なんとか少し落ち着いてから、オレは血の気が引くのを感じた。
――や、
やばかった。あと一ミリだった……。
一ミリなんかもうほぼゼロ距離みたいな気もするけどな!知らねぇもう考えたくない。怖い。病人に下手な挑発をされたところで、何がそんなに気に障ったのか自分でもよくわからない。こいつを抑えつけて好きにしたってオレの抱えるぐちゃぐちゃの感情がスッキリ整頓されるわけがないし余計に取り返しのつかないことになるだけだ。今ならそんなこと理屈じゃなくわかる。なのに、何を、考えてたんだオレは。赤司だ。男だとか主将だとかじゃない、問題なのは赤司か赤司じゃないかだ。赤司だぞ。最悪だ。最悪すぎる。
もうちょっとで、本当に、
(いや違う。そんなもん、もうとっくに)
とっくに、なんだよ。ふざけんなよ。最悪だ、最悪、最悪。
「――……最悪だ」
ああもう、クソ。
めちゃくちゃだ。
頭を抱えてひたすらぐるぐる懊悩していたら、とっくに約束された10分間を過ぎていた。恐る恐る赤司をふり返ると、深い呼吸で穏やかに眠っている。汗も引いて頬の赤みも少し引いたか。たった10分だが、状態はさっきよりも落ち着いたように見える。
ちょっとほっとした。まあ、疲れからの熱なら休めば少しは回復するか。それが10分で済むってのは赤司サマが過ぎるが。
言われた通り起こさねぇと面倒なことになるのはわかってるけど、せっかく良くなってるのにここで叩き起こすのもさすがになんだかな。このあと寮帰るだけなら別にここでもうちょっと休んでいったって一緒だろうし。
ていうか、なんかオレも死ぬほど疲れたし。このあと練習戻る気力まだないし。ちょっとだけ、10分だけ寝かせてくれ。頼む。
ベッドの端に座って。柵に身体をもたせかけ腕を組むと、すぐに視界も思考も真っ暗になって眠ってしまった。
起きた時には一時間経っていて、目を覚ました赤司に憤怒の形相で怒られたことは言うまでもない。