お前しかいない
*
保健室の入口にあるプレートは「担当者不在」になっていた。職員会議か何かだろう。扉に鍵はかかっておらず、不用心だなと思いつつ中に入る。
扉を閉めた途端赤司はオレから離れてスタスタ歩き出し、普段は保健医の定位置である背もたれのあるキャスター付きの椅子に座った。「湿布を」とバッシュの靴紐をほどきながらオレに命令する。
薬品の納められているガラス扉の戸棚には鍵がかかっていたが、引き出しから消炎鎮痛効果のある湿布と包帯が見つかり、それらを赤司に手渡すと、受け取って、赤司はオレを見た。
「座れ」
正面の丸椅子を目線で示される。
「なんで」
「座れ」
もしかしてオレに手当てさせる気か?足なんだから自分でできるだろ。
「僕の治療じゃない。お前だ。座れ」
キッパリ言い渡されて眉をひそめる。オレ?の治療?なにが……。
自分の手が目に入る。あ、と思った。
もしかして、という嫌な予感。
三度も同じことを言わせた怒りが赤い目に表れていて、オレはのろのろと赤司の手前に座った。
右手を取られ、手首を慎重に裏返したり元に戻したりして様子を診られている。
やっぱりかよ、と聞こえないように小さく舌打ちした(聞こえてるだろうが)。
今日の練習が始まる前から、右手首にほんの微かな痛みを覚えていた。多分体育のソフトボールで筋に負担をかけたっぽい。捻挫というほどでもなくすぐ治りそうだし、今日の練習くらいは大丈夫だろうと深く考えていなかったのだ。
赤司は終始無言でオレの手首に湿布を張り、そのまま包帯を巻き始めた。主将サマ直々に手当てしていただいてありがたいところだが、感謝の気持ちよりも煩わしさの方が余裕で勝る。
「大げさだろ」
「痛みを知覚した時点で湿布を張っていればそれで済んでいた」
「別に今も痛くない」
「メンテナンスを怠るな。お前のミスは僕の判断ミスになることをよく覚えておけ」
「……オレのミスはオレの責任だ。お前には関係ない」
「そう思うならくだらないケガをするな」
「……」
クソが、という逆ギレをなんとか舌打ちで飲み込んだ。言い返せなすぎて他に言うことがない。クソが。
伸縮性のある包帯で、するするすると器用にオレの手首を包んでいく、その鮮やかな手さばきになんとなく見惚れる。赤司サマはなんだって出来る。他人のケガや不調にだってすぐ気付く。こいつ練習はじまってすぐオレの手首に気付いてたのか。マジでいつもと何も変わらない動きをしてたはずだけどな。オレ自身が気付いてないほどの僅かな異変に気付いて……?なんで見てるだけで相手のコンディションがわかるんだ。本気で意味がわからない。怖い。
そういえば以前、部員が微熱で早退したことがあったが、あれも本人は気づいていないのに見ていただけの赤司が指摘して発覚したんだったっけな……、
微熱。
ふと意識の端にその単語が引っかかる。
処置を終え手首の様子を診ている赤司を……赤司に触れられている、包帯に覆われていない素肌の自分の手の感覚を、意識した。
こいつの腕を肩に回した時から生じていた微かな違和感。あれ、と思った。なにか違う。なんだ?
記憶と違う んだ、と思い至った瞬間、オレは湿布のゴミを片付けている赤司の手を掴んだ。
「お前熱あるだろ」
不意を突かれた赤司は目を大きく見開いた。
「何を言っている」
「手が熱い」
赤司は不可解そうに思い切り眉をひそめた。
「熱くない」
その表情を見るに、体調不良を隠したいとかじゃなく本気で無自覚らしい。なんでだよ。他人のことはすぐ気付くくせに、呆れる。
「熱い。一回熱測れ」
立ち上がって体温計を探し始めたオレに、赤司が珍しく動揺……というほどじゃないが、戸惑いを含んだ声で「おい」と唸る。
「熱などない。なぜお前にそんなことがわかる」
「手が熱い」
「熱くない」
同じ会話をするな。
「熱いんだよ。お前にはあんまわからねぇだろ、自分の体温だから」
背後で赤司がまた眉をひそめたのがわかった。
「お前の手はもっと冷たい」
不本意ながら、オレは赤司の手が冷たいことを知っている。不慮の成り行きで繋いだ指先、口唇に触れた氷のように冷たい指先をはっきり覚えている。忘れようとして忘れられるものじゃない。本当に、不本意ながら。
「明らかに熱い。ほら、測れ」
差し出した体温計を不信感たっぷりの目で凝視して、10秒。赤司はオレを睨みながら受け取り、脇に挟んだ。数秒後に取り出したそれを覗き込むと、「37.8℃」と表示されていた。元が低いからか、手の熱さから想像したほどは高くなかったが、否定しようのない証拠が出てしまった赤司は、心底不服という顔でむっつりとしている。
「足の手当てしたら練習戻らねぇで帰れよ。実渕にはオレが言っとく」
「この程度で……」
「メンテナンスを怠るな よ。主将だろ」
わかりやすく口を噤んだ様子に、日頃の恨み云々を思い返し少し溜飲が下がった。
ていうか風邪とかインフルだったらどうすんだ。ウィルスまき散らしながら練習するつもりかお前は?全然合理的な判断ができてない、こいつらしくないのはやはり体調が悪いからか。部員を助けて足を挫いたのも、実は本調子じゃないから起こったヘマだったのかもしれない。
それにしてもこいつ発熱とかするんだな。薄着でヒマラヤに放り込んでも平然としてそうだと思ってたけど、鬼の霍乱とはこのことだ。そして今のオレはまさに鬼の首でも獲ったようで少し胸のすく思いだ。
赤司は左足のバッシュと靴下を脱ぎ素足になった。ちらりと目を遣ると、足首からくるぶしにかけてわずかに赤みを帯び、腫れかけているようだ。
形勢不利と悟ったらしい赤司は、オレの手首にしたのと同じ処置をさっさと自分の足首にも施した。ますますムッとした表情で、「明日には治る……」と呟いている。熱のことか、捻挫のことか、両方か。
「風邪ではない。これはごく稀にある。極めて一過性のものだすぐに治る……」
「風邪じゃないなら大方疲労だろ」
黙り込んだので、どうやらそういうことらしい。赤司サマは超ご多忙の身だから、まあそういうこともごく稀にあるんだろう。完璧無敵超人宇宙人と思ってたから、人間っぽい一面が知れてちょっと安心すらする。うっかり他人に知られてしまったのは痛恨の極みなんだろうけどな。ざまぁという気持ちがないわけでもない。
壁時計を見ると、部活が終わるまであと二時間半残っている。右手首を掲げながら、
「オレはどうしたらいいですかね、主将」
「僕のノート32項に記してある基礎練をこなせ。左手のみのパス、シュート練習もものにしておくように。どちらも明日成果を確認する」
「……了解」
聞くんじゃなかった。ケガ人にはもっと優しくしろ。
保健室の入口にあるプレートは「担当者不在」になっていた。職員会議か何かだろう。扉に鍵はかかっておらず、不用心だなと思いつつ中に入る。
扉を閉めた途端赤司はオレから離れてスタスタ歩き出し、普段は保健医の定位置である背もたれのあるキャスター付きの椅子に座った。「湿布を」とバッシュの靴紐をほどきながらオレに命令する。
薬品の納められているガラス扉の戸棚には鍵がかかっていたが、引き出しから消炎鎮痛効果のある湿布と包帯が見つかり、それらを赤司に手渡すと、受け取って、赤司はオレを見た。
「座れ」
正面の丸椅子を目線で示される。
「なんで」
「座れ」
もしかしてオレに手当てさせる気か?足なんだから自分でできるだろ。
「僕の治療じゃない。お前だ。座れ」
キッパリ言い渡されて眉をひそめる。オレ?の治療?なにが……。
自分の手が目に入る。あ、と思った。
もしかして、という嫌な予感。
三度も同じことを言わせた怒りが赤い目に表れていて、オレはのろのろと赤司の手前に座った。
右手を取られ、手首を慎重に裏返したり元に戻したりして様子を診られている。
やっぱりかよ、と聞こえないように小さく舌打ちした(聞こえてるだろうが)。
今日の練習が始まる前から、右手首にほんの微かな痛みを覚えていた。多分体育のソフトボールで筋に負担をかけたっぽい。捻挫というほどでもなくすぐ治りそうだし、今日の練習くらいは大丈夫だろうと深く考えていなかったのだ。
赤司は終始無言でオレの手首に湿布を張り、そのまま包帯を巻き始めた。主将サマ直々に手当てしていただいてありがたいところだが、感謝の気持ちよりも煩わしさの方が余裕で勝る。
「大げさだろ」
「痛みを知覚した時点で湿布を張っていればそれで済んでいた」
「別に今も痛くない」
「メンテナンスを怠るな。お前のミスは僕の判断ミスになることをよく覚えておけ」
「……オレのミスはオレの責任だ。お前には関係ない」
「そう思うならくだらないケガをするな」
「……」
クソが、という逆ギレをなんとか舌打ちで飲み込んだ。言い返せなすぎて他に言うことがない。クソが。
伸縮性のある包帯で、するするすると器用にオレの手首を包んでいく、その鮮やかな手さばきになんとなく見惚れる。赤司サマはなんだって出来る。他人のケガや不調にだってすぐ気付く。こいつ練習はじまってすぐオレの手首に気付いてたのか。マジでいつもと何も変わらない動きをしてたはずだけどな。オレ自身が気付いてないほどの僅かな異変に気付いて……?なんで見てるだけで相手のコンディションがわかるんだ。本気で意味がわからない。怖い。
そういえば以前、部員が微熱で早退したことがあったが、あれも本人は気づいていないのに見ていただけの赤司が指摘して発覚したんだったっけな……、
微熱。
ふと意識の端にその単語が引っかかる。
処置を終え手首の様子を診ている赤司を……赤司に触れられている、包帯に覆われていない素肌の自分の手の感覚を、意識した。
こいつの腕を肩に回した時から生じていた微かな違和感。あれ、と思った。なにか違う。なんだ?
「お前熱あるだろ」
不意を突かれた赤司は目を大きく見開いた。
「何を言っている」
「手が熱い」
赤司は不可解そうに思い切り眉をひそめた。
「熱くない」
その表情を見るに、体調不良を隠したいとかじゃなく本気で無自覚らしい。なんでだよ。他人のことはすぐ気付くくせに、呆れる。
「熱い。一回熱測れ」
立ち上がって体温計を探し始めたオレに、赤司が珍しく動揺……というほどじゃないが、戸惑いを含んだ声で「おい」と唸る。
「熱などない。なぜお前にそんなことがわかる」
「手が熱い」
「熱くない」
同じ会話をするな。
「熱いんだよ。お前にはあんまわからねぇだろ、自分の体温だから」
背後で赤司がまた眉をひそめたのがわかった。
「お前の手はもっと冷たい」
不本意ながら、オレは赤司の手が冷たいことを知っている。不慮の成り行きで繋いだ指先、口唇に触れた氷のように冷たい指先をはっきり覚えている。忘れようとして忘れられるものじゃない。本当に、不本意ながら。
「明らかに熱い。ほら、測れ」
差し出した体温計を不信感たっぷりの目で凝視して、10秒。赤司はオレを睨みながら受け取り、脇に挟んだ。数秒後に取り出したそれを覗き込むと、「37.8℃」と表示されていた。元が低いからか、手の熱さから想像したほどは高くなかったが、否定しようのない証拠が出てしまった赤司は、心底不服という顔でむっつりとしている。
「足の手当てしたら練習戻らねぇで帰れよ。実渕にはオレが言っとく」
「この程度で……」
「
わかりやすく口を噤んだ様子に、日頃の恨み云々を思い返し少し溜飲が下がった。
ていうか風邪とかインフルだったらどうすんだ。ウィルスまき散らしながら練習するつもりかお前は?全然合理的な判断ができてない、こいつらしくないのはやはり体調が悪いからか。部員を助けて足を挫いたのも、実は本調子じゃないから起こったヘマだったのかもしれない。
それにしてもこいつ発熱とかするんだな。薄着でヒマラヤに放り込んでも平然としてそうだと思ってたけど、鬼の霍乱とはこのことだ。そして今のオレはまさに鬼の首でも獲ったようで少し胸のすく思いだ。
赤司は左足のバッシュと靴下を脱ぎ素足になった。ちらりと目を遣ると、足首からくるぶしにかけてわずかに赤みを帯び、腫れかけているようだ。
形勢不利と悟ったらしい赤司は、オレの手首にしたのと同じ処置をさっさと自分の足首にも施した。ますますムッとした表情で、「明日には治る……」と呟いている。熱のことか、捻挫のことか、両方か。
「風邪ではない。これはごく稀にある。極めて一過性のものだすぐに治る……」
「風邪じゃないなら大方疲労だろ」
黙り込んだので、どうやらそういうことらしい。赤司サマは超ご多忙の身だから、まあそういうこともごく稀にあるんだろう。完璧無敵超人宇宙人と思ってたから、人間っぽい一面が知れてちょっと安心すらする。うっかり他人に知られてしまったのは痛恨の極みなんだろうけどな。ざまぁという気持ちがないわけでもない。
壁時計を見ると、部活が終わるまであと二時間半残っている。右手首を掲げながら、
「オレはどうしたらいいですかね、主将」
「僕のノート32項に記してある基礎練をこなせ。左手のみのパス、シュート練習もものにしておくように。どちらも明日成果を確認する」
「……了解」
聞くんじゃなかった。ケガ人にはもっと優しくしろ。