お前しかいない

それは外周を終え、体育館での練習がはじまって間もなくのことだった。

体育倉庫に探し物にいった部員がなかなか帰ってこなくて、赤司が様子を見に行った直後。
何かが大量に崩れ落ちる音、金属的なものがバラける音、ボールの跳ねる音、それらが混ざった爆音が倉庫から聞こえ、にわかにバスケ部全員がざわついた。
最初に野生動物さながらの素早さで動いたのは葉山。「征ちゃん!」と声を出したのは実渕だ。葉山と実渕がそろって倉庫に突入し、しばらくすると葉山の肩に手を回した赤司が出てきた。その後ろにもう一人の部員が続き、最後に実渕が出てくる。
引き摺るほどではないが、赤司はわずかに左足をかばっている。もう一人の部員は見たところ無傷の様子で、中で何が起こったかは大体察せた。
――その時オレはルーティンのシュート練をしていて、あの赤司あいつがヘマするなんて珍しいな、とぼんやり思っていた程度だ。あっという間に皆が集まって赤司らを囲み、救急箱を持ち出して、倉庫の中は~とか保健室に~とかこのあとは~とか誰々が一緒に~とかやいのやいのしているのを遠巻きに眺めるが、あまり興味もなく、その輪に加わる気は全然起きなかった。なかなか練習が再開しないので、勤勉なオレはひとり黙々とルーティンを続けようとしたのだ。
その時、まるで矢を射るような鋭利な声がオレの背中に刺さった。

「千尋」

名を呼ばれ、反射的に身体が固まる。次いでクソ、と眉をしかめたくなる憂鬱。部員の視線が一斉にオレに向く。
「保健室まで一緒に来い。このあとの流れは玲央に任せる」
そう言って手に持ったバインダーを目を丸くしている実渕に渡す。オレは誰にも聞こえない舌打ちを吐いた。なんでだよ。オレは関係ねぇだろ。オレこんな端っこで関係ないですよって顔してただろ。他にお前に付き添いたいヤツなんかくさるほどいるだろ。なんでわざわざ、
「千尋」
こういう状況で、いちいち、オレに、
かまうな。
「……」
オレは今けっこう嫌悪感を顔に出しているが、この死にかけの表情筋でそれがわかる奴はなかなかいない。今、釣り上がった猫のような目でまっすぐにオレを見据えているこの男以外は。
「千尋」
動こうとしないオレに重ねて声がかけられる。あきらめて嫌気を隠さず前に進み出ると、モーゼみたいに人垣が割れた……やめろやめろ大事おおごとにするな、オレを見るな、さっさと練習に戻れお前ら。
赤司が人前でオレを呼び立てる時、決まってあらゆる類の視線がオレにぶつけられる。好奇の目、疑惑の目、嫉妬の目。憎悪のこもった目すら。
これはオレが三年で出戻り、一軍に突っ込まれてから、何度も繰り返された状況、何度も味わった、オレにとっては地獄のような空気だ。
退部した三年をわざわざ赤司サマ自ら部に戻し、即一軍に昇格させた。今のところ秀でた能力もない影が薄いだけの平凡な部員が、主将に明らかに目と手をかけられ“贔屓”されているこの現状を、他の部員がどう感じているのか。
考えるだけでクソみたいな気分になる。うんざりだ。
赤司の前に立つと、見上げてくる目が無言の圧を発している。言われるまま(言われてないが)少し前屈みになると、赤司は澄ました顔でオレの肩に手を回し、左足をひょこ、と前に出して歩き出した。
体勢を安定させるために、肩に回された赤司の手を掴む。その時ほんの少し覚えた違和感の正体は、すぐにはわからなかった。

                ***

「もういい」
体育館を出て校舎への渡り廊下に来たところで、赤司がオレの肩から手を離した。「は?」と声が漏れる。負傷したのは嘘だったのか?と思ったが、歩き方はやはり微かにぎごちない。
「よくねぇだろ」
「お前の助けを借りるまでもないと言っている」
「わざわざ人連れてきといてそれかよ」
「玲央がうるさいからだ。こんなもの大したことはない」
「オレがそいつにグチグチ言われるんだよ、お前の足が悪化でもしたら」
もっともであろう指摘に、先をゆく赤司の足取りが少し遅くなった。これ以上ごねられる前に、後ろから腕を取って再びオレの首に回す。赤司は「千尋」と唸るようにオレを睨みつけた。こっち見んな。そのお綺麗な顔が極端に近い。
「勝手な真似をするな。こんな目立つ往来で僕が……」
「誰も見てねぇよ、うるせぇな」
「おい」
「人の目よりメンテ気にしろ。万一悪化したらお前の判断ミスになるぞ」
言い返そうと反射的に開いた口のまま息を飲み込み、赤司は押し黙った。
僕は誰よりも正しい、なんて耳を疑う傲岸不遜を平然と宣う天帝サマにとって、“判断ミス”は急所だ。他人の肩を借りて歩く姿を見られることと同様、こいつには恥辱以外のなにものでもない。そして、オレごときに言いくるめられることも。
顔の真横で赤司が憤りをおさめようと大きく深呼吸をしているのがわかって、思わず顔がニヤけた。こいつの優位に立てるなら、貧乏くじもたまには悪くないかもしれない。
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