空っぽの恋

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一晩経てば多少なりとも落ち着くもので。
明け方部屋に戻ったがやはり赤司はもういなかった。
わかってるのにまたスマホを確認する。連絡はない。まだあいつに合い鍵は渡してない。だから玄関に鍵はかかってなかった。
礼節を重んじるあいつが、主のいない間に鍵もかけず部屋を出ていくのは抵抗があっただろう。万が一空き巣に入られたら一大事だ。だがそれでも赤司はオレに会わないうちに出ていくことを選んだ。
昨日散々乱したはずのベッドの上はホテルのベッドメイクみたいに綺麗になってた。冷蔵庫を開けた時に朝食が入ってるんじゃないかとかまだ何か期待している自分に気付いて殴りたくなった。昨夜の自分の発言を、逃げず、一語一句全部思い返してから、オレはようやく大きなため息を吐き出した。
―――謝ろう。
それしかねぇだろ。
この前みたいに『一回別れる』なんて、二度とごめんだ。
赤司に謝罪と、「お前が落ち着いてからでいいから話したい」と送る。
シャワー浴びてベッドに倒れ込んで、昼過ぎに起きた時も、まだ既読はついていなかった。





 『征ちゃんと話したわ』
通話口からの最初の一声がそれはもう氷のように冴え冴えとしていて、オレは避けられない修羅場の予感に冷たい汗を流した。

赤司からの返答はなく、それどころか送った謝罪にはいつまで経っても既読がつかないまま、2週間が経っていた。
こうなったら自ら動くしかない。腹を決めたオレは、まず誰か仲介人になってくれる奴を見繕うことにした。いきなりのアポなし突撃は危険だ。オレが突然赤司に会いに行ったとして顔見た瞬間逃げられるのはほぼ確実。本気ダッシュのアイツをオレが捕まえるとか無理に決まっている。そんなもん根性でどうにかなるものではない。
オレと赤司の共通の知り合い、かつ事の次第を把握して、事情を汲み取ってくれる奴。
思い浮かんだのは実渕怜央しかいなかった。
洛山を卒業し今は東京の大学に通っている実渕に赤司と連絡が取れない旨を話すと、実渕はまず赤司と話してみると言った。仲介をするもしないも、話はそれからだと。

「……赤司、なんだって」
焦りを堪えてなるべくポーカーフェイスで促すと、実渕からは氷柱のごとき一刺しが返ってきた。
『それは黛さんに教えなきゃいけないことなのかしら』
は?
『アタシに言わせれば、アナタに征ちゃんのことを知る資格はもうないと思うのだけど』
は?
……いやいやいや、それはお前が決めることかよ調子乗んな…いやいやいや。出かけた言葉を寸前で飲み込む。落ち着け、この反応も想定内だ。今煽られるままに言い返せば実渕はオレになんの情報も与えず即着拒するだろう、今は完全に立場が弱い…自業自得?うるせぇ。だからこうしてクソ重い腰上げてんだろうが。
「…自分の非はわかってる。あいつがどこまで話したかは知らねぇけどオレは…」
『非はわかってる?だったらさっさと別れなさいよ』
キッツ…てっめ…くっそ心に突き刺さる…。思わず心が折れそうになった。軽蔑混じりの突き放し方に、実渕の中でオレに対する情状酌量の余地が一切ないことを悟る。
『アナタがあの子に何をしたかは全部聞いたわ。あの子に任せておいたら埒が明かないから無理やり聞いた。あり得ないわよ。ねぇアナタ、あの子に何を言ったか・・・・・・ホントにわかってるの?わかってるならどうしてまだヨリが戻せると思ってるの。悪いけどアタシは今日アナタとあの子の橋渡しをするためにこうして電話をかけたんじゃないわ。非難されても当然だってわかってるのよね?だったら何度でも言う。別れて。アタシはアナタを許せないから』
「………」
おい。やばい。
返す言葉が出てこない。
正直オレは、この時点で完全にカウンターを喰らっていた。それはつまり、全てわかったような顔をしているオレの中に見ないフリをしている本心がまだあって、恐らく実渕はそれを見抜いているということだった。

『……ずっと前。まだアナタが洛山を卒業する前よ。今みたいに、征ちゃんの話をしたの、覚えてる?』
オレが洛山を卒業する前―――つまりオレと赤司が今の関係になる前。あぁ覚えてる。女子っぽい喫茶店に連れて行かれて狭いテーブルでこいつと赤司の話をした。
『あの時別れ際に、黛さんに言おうとしたことがあったの。でも、黛さんはそれをアタシに言わせなかった。本当はずっと引っ掛かってたけど、征ちゃんが幸せならアタシが口を出すことじゃないんだわってずっと自分に言い聞かせてた。今、ものすごく後悔してるのよ。あの時アナタにちゃんと言っておけばよかったって』
「………」
赤司征十郎あの子を本気で引き受ける気がないなら、今ここで突き放してあげてって』
下手に依存させて、無責任に放り出すくらいなら、どうか深入りしないであげてって、ちゃんと言えばよかった。
歯ぎしりするような実渕の非難には痛いほどの心当たりしかなくて、オレは一種諦めたような気持ちになった。こいつは誰よりも真剣に赤司のことを考えている。自分勝手なオレなんかよりよほど本気で、だ。勝てる気がしない。
『…最近のバスケ界隈の盛り上がりで、キセキや、征ちゃんの顔も、びっくりするような場面で見ることが増えたわよね。アナタが突然不安定になったのはそういうことでしょ?今さら何よ。あの子が手の届かないような存在だなんて最初からわかってたことでしょ。今さらそんなことでビビってんじゃないわよ』
仰る通りだよ、クソ。
『別れようって、あいつから言ってくれればいいのにって思ってるんでしょ。そうすれば大義名分が出来るのにって。ほらな、全部赤司の気まぐれだったんだって、自分だけが被害者面して、最初からオレの意思なんか関係なかったんだって。そうすれば自分は傷付かないで済むものね。惨めな思いをしないで済むもの。自分に自信がないから、でもそれを認めるのが怖いから、『黛千尋は赤司征十郎にふさわしくない』って、あの子の口から・・・・・・・言わせたいんでしょう?』
思わずやめろと出かけた声が、声にならずに掠れて舌打ちした。容赦がなさすぎて足場も逃げ場もどんどんなくなっていく。
『本当にあの子のためを思うなら自分から別れようって言えるでしょう。そんな勇気もないくせに。ひどいこと言って。思い切り傷付けて。それでも離れられないあの子の気持ちを試すような真似して。ふざけんじゃないわよ。自分のことしか考えてないじゃないの』
馬鹿、とハッキリ断罪される。
ひとを傷付ければ信頼は失うのよ。当然でしょ。
どんなに恋してたって、好きの気持ちだけじゃそれは簡単に取り戻せないのよ。
あの子はアナタに傷付けられて、アナタのことが信じられなくなって、そのことが苦しいの。
大好きなアナタのことを信じることができない自分を責めて、そんな自分にまた傷付いてるのよ。
最後はもはや訴えるような声で、実渕はもうそれ以上言うことはないとばかりに電話口で沈黙した。

しばらくして。
なんとか強烈なカウンターと終わりの見えない追撃のショックから立ち直ったオレは、はぁ、と大きなため息を吐き出した。自分自身に対しての呆れと、鼓舞のためのそれだった。
「…異論はねぇよ。面倒かけて悪かったな」
第三者にここまで言わせて、もうこれ以上格好のつかないこともないだろう。あとは地べたに額擦りつけてでもどうにかして赤司と会うしかない。
…実渕に責められながら、なんとなく、思い返していた。赤司と出逢ったあの日のこと。こいつらとボール追いかけた地獄のような毎日。部員全員で赤司を信じ、主将のためなら何だって出来るような気がしてたこと。
洛山が負けて、赤司が負けて、心に穴が開いたようなあの日から、それでもなんだかんだで毎日は普通に進んで行ったこと。
日々の中で、クソ忙しいあいつがオレの部屋に入り浸るようになっても、オレは何も変わらなかった。あいつも何も変わらなかった。
何か劇的な変化があったわけじゃない。別にあいつが異次元にすごいヤツだったからじゃない。ただオレと赤司は、成るようにしてそう成っただけだ。
「――――オレがあいつと居てもいいと思ったのは、ただ単に、…気が合ったから、みたいなもんで」
あいつの影でいられる自分がわりと好きで。あいつといると退屈も退屈に感じなくて。自然で、ラクで、それだけで。
「…何も大層なこと考えて捕まえたわけじゃない」
自分の手のひらを広げ、それを見つめた。
「でも、オレ見て笑うあいつの顔が嫌いじゃなかったから」
ちひろ、って呼びつける顔。まゆずみさん、って呼びかける顔。オレが振り向くと、嬉しそうに、あの気の強い猫目が、ゆっくり溶けて、オレを見上げて
「それのためになら多少は頑張ってやってもいいかと思ったんだよ」
動機なんて、それだけだった。
オレに向けられるあいつの笑顔が、なんにも持ってない、空っぽのオレのすべてだった。
受話器の向こうでバカね、と呟くような声が聞こえて、ほんとだよなとオレはかすかに自嘲の笑みを浮かべた。
「頼む、実渕」
これが最後だと、オレはスマホを握り、本気で頭を下げた。数秒の無言のあと、これみよがしな、だけどどこか吹っ切れたようなため息が聞こえた。
『二度目はないわよ』



その後、実渕が俺との通話を切り、オレたちの間を取り持つべく赤司に電話をした直後のことだ。
取って返すように実渕から顔面蒼白の電話がかかってきて、何事かとすぐに通話を繋ぐと。
『黛さん大変、いま征ちゃんが――――!』
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