空っぽの恋
*****
「……っふ」
赤司が枕に横顔を埋め、煮詰まった息を吐き出した。
「は、ぁっ」
後ろから横向けに抱きしめ、持ち上げていた太ももを放す。解放されたことに安堵したのか、赤司は止めていた呼吸を思い出し、はあっはあっと胸を波打たせて酸素を求めた。
オレも息を吐き、赤司の上にのしかかるように脱力した。赤司の中は、まだゴムを被ったままのオレが柔らかく狭い穴を拡げている。
しばらくそうして息を整え、汗が引き始めた。
風邪ひかせるかな。だったらもう一度汗をかかせてもいいんだけど。でも別にそこまでしたいわけでもないな。
頭がずっと、セックスとは別のことを考えている。
赤司が、目元の赤い視線をオレに向けた。
そうだな。身体に直接それを叩き込まれる側にすれば、如実にわかるよな。ましてお前だったら、尚のこと。
はっきりと何か酷いことをしたり、させたりしたわけではないが、いつもの行為に、いつもの手順に、わずかずつ自分勝手なやり方を交えて、違和感を覚えさせたはずだ。
上澄みを一枚一枚重ねるように、「いつもと違う」と、赤司は感じ取ったはずだ。
「……千尋?」
どこか機嫌を窺うような声音に、オレは返事はせず、最後まで脱がせなかった赤司のTシャツの襟ぐりを引っ張って白い肩に噛み付いた。痛いやめろと訴える声の頼りなさが信じられない。
これが天帝。何ものをも寄せ付けぬ、孤高の王だった、はずの。
「やめろ、―――残る」
赤司はようやく身を捻って肘でオレを押し返した。ずり上がろうとした下半身から萎えたオレが半分抜けて、ふっ、と赤司は乱れた息を飲み込む。なんとなく惰性でもう一度ぬるぬると中に入れ戻すと、赤司は頬を赤らめてキツくオレを睨んだ。
急激につまらなくなり、さっさとそれを引き抜いて適当に処理する。
赤司を正面向けて足を開かせると、ローションやらなんやらが腿と性器の狭間を煽情的に濡らしている。赤司は黙って顔を背け、腕で目を隠した。歯を食いしばるほど嫌なくせに、オレの下卑た視線を許容しようと必死に耐えている。
ついさっきまでオレが入っていた穴の窄まりに親指を這わすと、そこはまだ柔らかくて、傷も付いてはいないようだった。
けっこう乱暴にしたのに。どんどん女みたいになってってるのかな。こいつの身体。
ずし、と心臓の重りが増した気がした。
セックスを覚えたばかりのオレたちは、初めての夜から何回やりまくったことだろう。気持ちを確かめ合うとか素肌で触れ合う安心感とか、よくある綺麗ごとは二の次だった。オレたちはただ快楽の上限を知りたくて、ひたすらに身体を重ねた。要するに、猿だった。
赤司の身体は、当然だが、手付かずで。
下衆な言い方をすれば、処女だった。
本来なら男を飲み込む場所でない場所で男を飲み込み、快感を覚える必要のないところで快感を覚えた、赤司の身体は、オレが、そんな風にした。
容姿にも才能にも恵まれ、人望を纏い、日本有数の名家に生まれた、誰もが称える宝物のような御曹司は、オレが、この手で、
「――――千尋」
気付くと赤司が身を起こし、オレを下から覗き込んでいた。大きな瞳は静かにオレを気遣っている。
オレは目を合わせていられず、顔を背け、お前、と呟いた。
「なんでオレとこんなことしてんの」
泣きそうな声だなと笑いそうになった。赤司は顔色も変えず、ただ黙ってオレを見つめている。
ベッドを降り、服を着直して冷蔵庫から水を取り出し煽る。水を持ったままベッドに腰かけると赤司は無言でそれを奪い、ごくごくと音を立てて飲んだ。白い喉に雫が垂れる。赤い痕がはっきり残っている。
「…どうした?」
赤司は腰まで布団を引き上げ、ベッドの上に座り込み、落ち着いた声音でそう尋ねた。オレは別に、と投げやりにこぼす。
「改めて普通じゃねぇなって思っただけだ」
「今さらだな」
小さく笑うのに、オレも笑う。
そう、今さらだ。ずっと忘れてただけで。
感覚が麻痺してたんだ。この部屋にいる時のお前はあまりにただの16歳のガキでしかないから。
この部屋から出た時のお前が、世間から見た赤司征十郎がどんな存在なのかなんて、もうずいぶん長いこと忘れてた。
「お前なんでこんなことしてんだ。頭大丈夫か」
「問題ないよ。千尋から見て僕は狂人に見えるのかい」
わからない。多分頭がおかしいのはオレだ。
「普通じゃねぇんだよ」
「そうだね。僕は赤司征十郎だ。『普通』などという枠に収まりきる人間ではないことはお前が一番わかっているだろう」
「じゃあなんで赤司征十郎 が普通 を選んだんだよ」
激情、が、もう少しで口から弾けそうになって、堪えた。赤司がまた、黙ってオレを見つめた。そのなんでも見通せるすげぇ目で、オレなんかに絆されればいつか致命的な歪みが発生するって、わからなかったのか。
「千尋」
「なんでオレなんかとヤってんだ」
「僕になんと答えて欲しいのか、もうお前の中では決まっているだろう」
「言ってみろよ」
「黛千尋が好きだから」
ふざけんな
咄嗟に胸倉を掴み、殴ろうとしたができなかった。デカい目だな。オレが何を考えてるかわかってんだろ?お前のその目が死ぬほど嫌いなんだよ。押し倒したまま振り上げた拳を枕に叩きつけ、オレは最高にカッコ悪い笑みを浮かべた。
「そんなに突っ込まれるのがお好みだったかよ、天帝サマ」
見開かれた赤い目に、オレは尖った刃を突き刺した。
「だったら一度他の男とヤってみろ。どうせオレなんかじゃなくても満足できるんだろうが」
あ。
口走った瞬間
あの日からずっと握り続けていた手の中のぬくもりが、唐突になくなった。
するりと、力を失い、落ちて、オレの手の中から、消えた気がした
「…………」
表情一つ動かさない赤司が、きょとんとしたまま、一度パク、と小さく口を開いて、何も言わず、また、閉じた。
赤い目はただの透明なガラス玉で、そこに移っているはずの男の姿が見えない。
また、赤司が何か言おうとして、ちら、と神経質に一瞬視線が泳ぐ。何も言えないまま、また口を閉じる。
長い間沈黙が落ちた。実際は数秒のことだったのかもしれない。
「…………本気で言ってるのか」
やがてようやく問いかけてきた赤司の声も、それは完全に、空虚だった。何を口に出したのか、いま自分が何と言ったのか、赤司も何もわかっていなかった。感情じゃない。繋がってない。口が勝手にそう動いただけだ。全部わかるお前のことならぜんぶ。
オレたちはずっとこの部屋で過ごしてきたのに。ずっと、わずかな時間を、なんでもない日常を、ほんの時折共に過ごせるだけで良かったのに。
オレたちは、ちゃんと付き合っていた―――はずだった、のに。
本気なわけねぇだろ。バカか。頭使って考えろよ。いつもいつもわかってるような目でオレを見やがって。なんにもわかってねぇんだよ。だからお前なんか嫌いなんだよ。本気なわけねぇだろうが!!
オレは何も言わず、シャツを羽織ってジーパンを履き直し、スマホを握ると振り返らずに部屋を出た。
鍵をかけ、もたれた扉に思い切り拳を打ち付ける。バァン!という空っぽな音が深夜の廊下に虚しく響いた。
***
半年ほど前。2月の頭くらい。
同じようなケンカをした。
あの時は赤司の方が平静を失いアホだろとしか言えない発言をかまして、オレがブチギレて、あいつを殴って、その勢いで今日と同じように部屋を飛び出した。
あの時もオレは一晩中近くのコンビニをはしごし、公園のベンチに座って何時間もぼーっとして、家に帰りたくないサラリーマンみたいで全く笑えねーな、って1人で笑ってた。
別れるのかな、とかぼーっと考えてた。あいつの発言があまりにあまりだったから。なんというかオレも一気に疲れてしまって、関係修復に自ら動き出す気概なんざ起きなくて、なんにも考えないでぼーっとしてたら、明け方に赤司から「ありがとうございました」って最後通告 が来た。
マンションに戻り、ドアを開いた時の、あの空虚感。
赤く大きく美しい華が、唐突に欠落したような違和感。
この部屋にあるべきものが、そこにはすでになかった。赤以外の色がすべて灰色に見えた、あの一種の混乱状態。
あの時の絶望に近い虚しさは、情けないことに若干のトラウマとなってオレの奥深くに残っている。
あの日、「ありがとうございました」を最後に一切の交流なく、多分形式上の自然消滅みたいな感じで、あっという間に一ヶ月経って。
いつも通りに過ごす日常の中で、ふと思った。
もう、あいつとは会わないのかな、と。
もう二度とあいつを怒らせることも笑わせることも、冷たい手を握ってやることも、キスすることも抱くことも、あいつの料理を食べることも、
あの柔らかい髪を撫でてやることもできなくなるんだろうか、と。
考えた途端に全身が凍り付いた気がした。無意識に考えないようにしてた。「付き合っていた同士が別れる」というのがどういうことか、バカなことにこの時オレは始めて気付いたのだった。
いつの間にかオレはこんなにも赤司を失って生きていく人生が怖くなっていた。普通に生きてはいける、別に死ぬわけじゃない。今まで通り普通に、平和に、退屈に、オレらしい人生に戻って淡々とやっていくだけだ。屋上であいつと出逢ったあの日の前に、ただ戻るだけだ…。
多分オレは、その時はじめて、本当の意味で、「自分は赤司が好きなんだ」と気付いた。
信じられないことに本気で恋なり愛なりと言った甘い情をあの赤司征十郎に抱き、別れる、フラれる、という事実に恐れ慄いたのだ。
絶対に嫌だと思った。赤司がオレのものでなくなるなんて絶対に嫌だと思った。オレがいなくなればあいつは必ず誰かのものになる。すぐに誰かと婚約し、結婚し、オレの関係ないところでオレの心をずっと支配し続ける。あいつはずっとそういう奴だった、いつだってオレの意思は関係なかった、影は光に寄り添い従う。それだけで何もかも許されてたのに。
オレはオレの意思で、絶対に 嫌だと思った。
だから、あの日オレは、もう一度赤司を捕まえた。
もう一度抱いて、抱いて、耳元で好きだと言い続けた。赤司が泣きながらわかったと頷くまで何度も、何度も。
今だからわかるが、オレは赤司にこの部屋を出て行かれるのが怖かったんだ。あいつの背中が扉の向こうに消えるという断絶を見てしまうのが怖かった。だからあの時も、今日も、早い者勝ちだろって、先に部屋を出た。だけど結局今日だって帰ればもうあいつはいないのだろう。史上最低最悪なことを口にした。今すぐ戻って弁解する勇気のないオレは本当にクズだ。
――――これって。
夜中のコンビニのイートインスペースでコーヒーを啜りながら、横の壁に頭をごつ、とぶつける。
あの時以上に、取り返しのつかない事態なんじゃないのか。
死ねよオレ。
死ねるなら死にたい。
「……っふ」
赤司が枕に横顔を埋め、煮詰まった息を吐き出した。
「は、ぁっ」
後ろから横向けに抱きしめ、持ち上げていた太ももを放す。解放されたことに安堵したのか、赤司は止めていた呼吸を思い出し、はあっはあっと胸を波打たせて酸素を求めた。
オレも息を吐き、赤司の上にのしかかるように脱力した。赤司の中は、まだゴムを被ったままのオレが柔らかく狭い穴を拡げている。
しばらくそうして息を整え、汗が引き始めた。
風邪ひかせるかな。だったらもう一度汗をかかせてもいいんだけど。でも別にそこまでしたいわけでもないな。
頭がずっと、セックスとは別のことを考えている。
赤司が、目元の赤い視線をオレに向けた。
そうだな。身体に直接それを叩き込まれる側にすれば、如実にわかるよな。ましてお前だったら、尚のこと。
はっきりと何か酷いことをしたり、させたりしたわけではないが、いつもの行為に、いつもの手順に、わずかずつ自分勝手なやり方を交えて、違和感を覚えさせたはずだ。
上澄みを一枚一枚重ねるように、「いつもと違う」と、赤司は感じ取ったはずだ。
「……千尋?」
どこか機嫌を窺うような声音に、オレは返事はせず、最後まで脱がせなかった赤司のTシャツの襟ぐりを引っ張って白い肩に噛み付いた。痛いやめろと訴える声の頼りなさが信じられない。
これが天帝。何ものをも寄せ付けぬ、孤高の王だった、はずの。
「やめろ、―――残る」
赤司はようやく身を捻って肘でオレを押し返した。ずり上がろうとした下半身から萎えたオレが半分抜けて、ふっ、と赤司は乱れた息を飲み込む。なんとなく惰性でもう一度ぬるぬると中に入れ戻すと、赤司は頬を赤らめてキツくオレを睨んだ。
急激につまらなくなり、さっさとそれを引き抜いて適当に処理する。
赤司を正面向けて足を開かせると、ローションやらなんやらが腿と性器の狭間を煽情的に濡らしている。赤司は黙って顔を背け、腕で目を隠した。歯を食いしばるほど嫌なくせに、オレの下卑た視線を許容しようと必死に耐えている。
ついさっきまでオレが入っていた穴の窄まりに親指を這わすと、そこはまだ柔らかくて、傷も付いてはいないようだった。
けっこう乱暴にしたのに。どんどん女みたいになってってるのかな。こいつの身体。
ずし、と心臓の重りが増した気がした。
セックスを覚えたばかりのオレたちは、初めての夜から何回やりまくったことだろう。気持ちを確かめ合うとか素肌で触れ合う安心感とか、よくある綺麗ごとは二の次だった。オレたちはただ快楽の上限を知りたくて、ひたすらに身体を重ねた。要するに、猿だった。
赤司の身体は、当然だが、手付かずで。
下衆な言い方をすれば、処女だった。
本来なら男を飲み込む場所でない場所で男を飲み込み、快感を覚える必要のないところで快感を覚えた、赤司の身体は、オレが、そんな風にした。
容姿にも才能にも恵まれ、人望を纏い、日本有数の名家に生まれた、誰もが称える宝物のような御曹司は、オレが、この手で、
「――――千尋」
気付くと赤司が身を起こし、オレを下から覗き込んでいた。大きな瞳は静かにオレを気遣っている。
オレは目を合わせていられず、顔を背け、お前、と呟いた。
「なんでオレとこんなことしてんの」
泣きそうな声だなと笑いそうになった。赤司は顔色も変えず、ただ黙ってオレを見つめている。
ベッドを降り、服を着直して冷蔵庫から水を取り出し煽る。水を持ったままベッドに腰かけると赤司は無言でそれを奪い、ごくごくと音を立てて飲んだ。白い喉に雫が垂れる。赤い痕がはっきり残っている。
「…どうした?」
赤司は腰まで布団を引き上げ、ベッドの上に座り込み、落ち着いた声音でそう尋ねた。オレは別に、と投げやりにこぼす。
「改めて普通じゃねぇなって思っただけだ」
「今さらだな」
小さく笑うのに、オレも笑う。
そう、今さらだ。ずっと忘れてただけで。
感覚が麻痺してたんだ。この部屋にいる時のお前はあまりにただの16歳のガキでしかないから。
この部屋から出た時のお前が、世間から見た赤司征十郎がどんな存在なのかなんて、もうずいぶん長いこと忘れてた。
「お前なんでこんなことしてんだ。頭大丈夫か」
「問題ないよ。千尋から見て僕は狂人に見えるのかい」
わからない。多分頭がおかしいのはオレだ。
「普通じゃねぇんだよ」
「そうだね。僕は赤司征十郎だ。『普通』などという枠に収まりきる人間ではないことはお前が一番わかっているだろう」
「じゃあなんで
激情、が、もう少しで口から弾けそうになって、堪えた。赤司がまた、黙ってオレを見つめた。そのなんでも見通せるすげぇ目で、オレなんかに絆されればいつか致命的な歪みが発生するって、わからなかったのか。
「千尋」
「なんでオレなんかとヤってんだ」
「僕になんと答えて欲しいのか、もうお前の中では決まっているだろう」
「言ってみろよ」
「黛千尋が好きだから」
ふざけんな
咄嗟に胸倉を掴み、殴ろうとしたができなかった。デカい目だな。オレが何を考えてるかわかってんだろ?お前のその目が死ぬほど嫌いなんだよ。押し倒したまま振り上げた拳を枕に叩きつけ、オレは最高にカッコ悪い笑みを浮かべた。
「そんなに突っ込まれるのがお好みだったかよ、天帝サマ」
見開かれた赤い目に、オレは尖った刃を突き刺した。
「だったら一度他の男とヤってみろ。どうせオレなんかじゃなくても満足できるんだろうが」
あ。
口走った瞬間
あの日からずっと握り続けていた手の中のぬくもりが、唐突になくなった。
するりと、力を失い、落ちて、オレの手の中から、消えた気がした
「…………」
表情一つ動かさない赤司が、きょとんとしたまま、一度パク、と小さく口を開いて、何も言わず、また、閉じた。
赤い目はただの透明なガラス玉で、そこに移っているはずの男の姿が見えない。
また、赤司が何か言おうとして、ちら、と神経質に一瞬視線が泳ぐ。何も言えないまま、また口を閉じる。
長い間沈黙が落ちた。実際は数秒のことだったのかもしれない。
「…………本気で言ってるのか」
やがてようやく問いかけてきた赤司の声も、それは完全に、空虚だった。何を口に出したのか、いま自分が何と言ったのか、赤司も何もわかっていなかった。感情じゃない。繋がってない。口が勝手にそう動いただけだ。全部わかるお前のことならぜんぶ。
オレたちはずっとこの部屋で過ごしてきたのに。ずっと、わずかな時間を、なんでもない日常を、ほんの時折共に過ごせるだけで良かったのに。
オレたちは、ちゃんと付き合っていた―――はずだった、のに。
本気なわけねぇだろ。バカか。頭使って考えろよ。いつもいつもわかってるような目でオレを見やがって。なんにもわかってねぇんだよ。だからお前なんか嫌いなんだよ。本気なわけねぇだろうが!!
オレは何も言わず、シャツを羽織ってジーパンを履き直し、スマホを握ると振り返らずに部屋を出た。
鍵をかけ、もたれた扉に思い切り拳を打ち付ける。バァン!という空っぽな音が深夜の廊下に虚しく響いた。
***
半年ほど前。2月の頭くらい。
同じようなケンカをした。
あの時は赤司の方が平静を失いアホだろとしか言えない発言をかまして、オレがブチギレて、あいつを殴って、その勢いで今日と同じように部屋を飛び出した。
あの時もオレは一晩中近くのコンビニをはしごし、公園のベンチに座って何時間もぼーっとして、家に帰りたくないサラリーマンみたいで全く笑えねーな、って1人で笑ってた。
別れるのかな、とかぼーっと考えてた。あいつの発言があまりにあまりだったから。なんというかオレも一気に疲れてしまって、関係修復に自ら動き出す気概なんざ起きなくて、なんにも考えないでぼーっとしてたら、明け方に赤司から「ありがとうございました」って
マンションに戻り、ドアを開いた時の、あの空虚感。
赤く大きく美しい華が、唐突に欠落したような違和感。
この部屋にあるべきものが、そこにはすでになかった。赤以外の色がすべて灰色に見えた、あの一種の混乱状態。
あの時の絶望に近い虚しさは、情けないことに若干のトラウマとなってオレの奥深くに残っている。
あの日、「ありがとうございました」を最後に一切の交流なく、多分形式上の自然消滅みたいな感じで、あっという間に一ヶ月経って。
いつも通りに過ごす日常の中で、ふと思った。
もう、あいつとは会わないのかな、と。
もう二度とあいつを怒らせることも笑わせることも、冷たい手を握ってやることも、キスすることも抱くことも、あいつの料理を食べることも、
あの柔らかい髪を撫でてやることもできなくなるんだろうか、と。
考えた途端に全身が凍り付いた気がした。無意識に考えないようにしてた。「付き合っていた同士が別れる」というのがどういうことか、バカなことにこの時オレは始めて気付いたのだった。
いつの間にかオレはこんなにも赤司を失って生きていく人生が怖くなっていた。普通に生きてはいける、別に死ぬわけじゃない。今まで通り普通に、平和に、退屈に、オレらしい人生に戻って淡々とやっていくだけだ。屋上であいつと出逢ったあの日の前に、ただ戻るだけだ…。
多分オレは、その時はじめて、本当の意味で、「自分は赤司が好きなんだ」と気付いた。
信じられないことに本気で恋なり愛なりと言った甘い情をあの赤司征十郎に抱き、別れる、フラれる、という事実に恐れ慄いたのだ。
絶対に嫌だと思った。赤司がオレのものでなくなるなんて絶対に嫌だと思った。オレがいなくなればあいつは必ず誰かのものになる。すぐに誰かと婚約し、結婚し、オレの関係ないところでオレの心をずっと支配し続ける。あいつはずっとそういう奴だった、いつだってオレの意思は関係なかった、影は光に寄り添い従う。それだけで何もかも許されてたのに。
オレはオレの意思で、
だから、あの日オレは、もう一度赤司を捕まえた。
もう一度抱いて、抱いて、耳元で好きだと言い続けた。赤司が泣きながらわかったと頷くまで何度も、何度も。
今だからわかるが、オレは赤司にこの部屋を出て行かれるのが怖かったんだ。あいつの背中が扉の向こうに消えるという断絶を見てしまうのが怖かった。だからあの時も、今日も、早い者勝ちだろって、先に部屋を出た。だけど結局今日だって帰ればもうあいつはいないのだろう。史上最低最悪なことを口にした。今すぐ戻って弁解する勇気のないオレは本当にクズだ。
――――これって。
夜中のコンビニのイートインスペースでコーヒーを啜りながら、横の壁に頭をごつ、とぶつける。
あの時以上に、取り返しのつかない事態なんじゃないのか。
死ねよオレ。
死ねるなら死にたい。