「ゆ」

電車が遅れたり、出先で細かいトラブルがあったり、実家の用事が時間通りに進まなかったりと、本当に人生というのはままならない。端的に言えばクソである。
赤司からは帰りの電車の中で連絡があった。
『そろそろ帰ります。お邪魔しました。』
引き留めるわけにもいかず、返事を打つ間も惜しく駅についたオレは猛ダッシュで家に向かった。
『鍵はポストに戻しておきました。やはり不用心なので、今後はこういったやり方は禁止にします。』
お前が決めるのかよ。いいけど。家主の居ない家に入り込むのは、こいつの性格的に落ち着かなかったんだろうな。
『落ち着いて、集中して、本番に挑んでください。』
赤司らしい励ましに、なぜか胸がぎゅっとなる。
『応援しています。』
 
ドアを勢いよく開けると、部屋の中は真っ暗だった。
荒い息を大きく吐き出す。わかってたけど。帰るって連絡来てたんだし。まだいる方がおかしいし。もしかしたらなぜか赤司がまだ帰ってなくて、「よかった、会えた」と笑いかけてくれるかもなんて、お花畑な期待が頭の片隅にあったなんて、本当にバカだ。
ドアを閉めて、はぁ、と扉にもたれた。はいはい。妄想終わり。赤司がいなくても別に問題はねぇよ。元々そうだったんだ。いつも通り淡々と毎日をくり返して、平和に平凡に堅実にオレの人生は過ぎていくんだよ。それでいいんだ。

靴を脱いで部屋に上がったところで、いい匂いが鼻腔をくすぐってあれ? と我に返った。
めちゃくちゃいい匂い。腹ごしらえを一切しないまま急いで帰ってきたので今さらあり得ないほど腹が減ってきた。死ぬ。腹がぺたんこになって死ぬ。
腹を抑えながらふらふらと台所に近付くと、コンロには鍋が置かれていて、蓋を開けるとカレーがたっぷりと作られていた。隣の小鍋には味噌汁。具は豆腐、ネギ、しめじ。まだほんのりあったかい。
ぎゅるると腹が鳴る。よだれ出そう。もちろん炊飯器にはツヤツヤの白米が炊かれているし、なんかもう涙が出そうになった。赤司サマありがとう。神。
実家に寄ったオレが夕飯は食べずに帰るからと言ったら母親は驚きと落胆を見せたが、「誰か作って待っててくれてるの? 」と聞かれて返事をしなかったら、一転してニヤニヤされた。違うから。そういうんじゃねーから。

そそくさと皿を用意していると、狭いシンクの隅にラップのかかった小皿があるのを見つけた。
トンカツだ。皿の下にメモがある。
『カツと勝つの語呂合わせを知っていますか? 縁起がいいので乗せて召しあがってください。赤司』
メモを読んだオレは、ガン! と壁に頭をぶつけた。
はーー? 嘘だろ。クッッソ。なにそれかわいい。
知っていますか? ってドヤってんのか? 誰でも知ってるよ。知らなかったのお前だけだよ。
冷蔵庫には大容量のサラダと、ちゃんと福神漬けまで買ってあって、マジで拝みそうになってしまった。ありがたすぎる。
サラダと福神漬けを出し、カレーを温め直し、米をよそってカツを乗せ、ルーをかけ、温めた味噌汁をテーブルに並べる。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出そうとして、ふと扉にある卵に目を遣った。丸い穴に入ってる3つの卵に、サインペンで何かが書いてある。
右から「ゆ」「半」「生」。
ゆで卵、半熟卵、なま卵、の意味だろう。
扉の前に膝を立てて座り込んだまま、オレは今度こそ立てなくなるくらい脱力した。なんなんだあいつ。やってることが天帝サマじゃねぇぞ。
「ゆ」を割って真っ二つにしてサラダに乗せ、改めて手を合わすと、皮肉も何もない、心からの感謝の言葉が溢れ出た。
「……いただきます」
1/1ページ