理性とワンルーム
さすがに、うんざりする。めんどくさい。黛は内心で舌打ちする。
天才のくせに、お前はなんでオレに対してだけそんな無防備さらすんだ。オレのどこを見たらそんな根拠のない信頼が抱けるんだ?
オレのことなんか本当は見てないんじゃないのか。お前はお前にとって「都合のいい人間」の幻想を、たまたまそこにいたオレに重ねているだけなんじゃないのか?
限界だった。おそらく最初から少しずつ積もり続けていた鬱憤が、限界を越えて静かにその留め金を外した。
「―――じゃあ今すぐここで脚開けって言ったら、お前その通りにするのか?」
え? と紅い瞳が大きく見開かれる。
「オレの性欲発散させるために奉仕しろって言われたら従うんだよな」
「……黛さん?」
「そういうことだぞ。ホントにわかってんのかお坊ちゃん」
唐突な侮辱とも言える言い草に眉をひそめた赤司は、身を乗り出した黛に肩を押され、そのままカーペットに背をつけた。
濁った男の視線が蛇のように全身に絡みつく。
「――――ぅ」
噛み付くようなキスに呼吸を奪われても抵抗できないのは、確かに思考停止しているからなのだと、その時赤司は始めて気付いた。
赤司の中には、黛千尋に対する絶対的な安心感がある。
黛は絶対に自分を傷付けない、自分の嫌がることは決してしないという、一方的な信頼がいつの頃からか存在している。
赤司がそうと言葉にしたことはない。だが、押し付けられている黛本人からすれば嫌になるほど明白だった。本人も無意識だから質 が悪い。
この数ヶ月の間、布団の上で肌に痕を残されても、耳を噛まれなぶられても、赤司は最後の最後まで警戒心を抱かなかった。
リラックスしきっている飼い猫のような赤司征十郎を何度も独占していれば、さすがにむず痒い喜びを感じたこともある。だがその優越は、わりと早い段階で苛立ちへと変わった。
勝手にオレをお前の思い込みに落とし込むな。お前がオレの何を知ってる? オレがお前を傷付けないといつ言った?
それは健全な青年が抱いて然るべき苛立ちだったはずだ。
お前にとってオレはなんだ。あぁそうだ、掃きだめだったよな。お前に興味を持たず、かといって拒絶もできず、バスケの話も、ラノベの話も、適当に付き合える「都合のいい男」。時には足りないぬくもりを補え、かつて恋焦がれた年上の男の代わりにもできる。飼い馴らされ牙の抜けた従者 は、主人 にとってそりゃあ使い勝手が良かったことだろう。
ずっと、その迷惑な信頼関係に焦れていた。いつかその信頼を引き裂き、裏切ってやりたくて仕方なかった。自分に向けられるあの透き通った微笑みが衝撃に歪む様を間近で観察してやりたいと、そんな暴力的な気持ちさえ何度も抱いた。
オレだってそれなりに男だ。さすがにもう、この期に及んで後戻りはできない。じゃれ合いのままでこれからもずっとなんて、いられるわけがない。獲物は今この瞬間にだって、目の前に白い首筋をさらけ出しているのに。
抱き続けてきた苛立ちは、今やはっきり焦燥へと変わっていた。
黛は一度口唇を離し、赤司の下口唇に親指を押し当てた。見上げる赤司がヒクリと身を竦める。
易々と男を煽って、本当に自覚がないのか?
お好きに、と言いやがった。よくも言えたもんだなと思う。こんな無垢な、子どもみたいな顔をして。
お前の目の前にいるのは部下でも従者でもない。肉食獣だ。
しかも飢えてる。お前がずっと、空腹のまま放置してきたから。
「まゅ……」
黛が再び口付けてきたその時に、赤司はようやく危険を感じて相手の肩に手をやった。
今さらすぎる。対応が遅れた。黛の纏う空気が違う。目の色が違う。彼の背後に沸き立つような何かが見える。動揺を堪えようと務めている間に両手首を床に押し付けられて、気付けば思うように動けなくなっていた。
「まってくださ」
せめて言葉だけでもと上げた拒絶の声はすぐさま呑まれた。
黛から向けられる鈍く重い視線に胃の奥が引き絞られるように収縮し、赤司の首筋にふわりと鳥肌が立つ。
なんだこれは。今感じているのは畏怖の感情なのか。この僕が。赤司征十郎が。千尋に? ばかな。
「ま、っ……ん! んん」
無意識に縮こませていた舌を乱暴に掬い上げられ赤司は目を見開く。口唇以上に敏感で濡れたその感触はよりいっそう生々しく、あからさまに性的な匂いがする。
熱くて、ぬめっていて。ぐちゃりと、水音、が。
「んぅ…ッ!」
ずっと抑え込んでいた羞恥心がついに赤司の全身を雷のように貫いた。もう自分を誤魔化せない。どう考えても、これは。
これは性行為の一端だ。
こんな、こんな、これほどに耐え切れないものなのか。赤司は自分に失望すら覚えた。手玉に取って仕返しの一つもしてやりたいと自身のプライドが悔しがるのに、実際はされるがままに翻弄されて思考すら鈍り始めている。口の中で水音がするたび死にたくなるほどの羞恥が湧いて、溢れそうな唾液をのどを鳴らして飲みこむ。これは黛の唾液だろうかと考えた時、頭のどこかで赤い火花が弾けた気がした。
舌を噛まれ痛いくらいに吸われて、腰が震えた。ぞくぞくする。黛の伸ばされた舌が獣のようだ。灰色の狼。ならば自分はおとぎ話の赤ずきんのようにこのまま食べられてしまうのだろうと、ぼやける視界の中で考える。あぁこんな顔をするんだ。あんなに無気力で無駄な熱量は使いたくないと公言して憚らない人なのに、荒い息を隠そうともせず全身で劣情をぶつけてくる。そうかと思い至った。この人も本能に身を委ねるのだ。性欲は当然あり、それを発散するためなら容赦なく獲物を捕らえ喉元に牙を突き立てる。当たり前じゃないか。どうして彼なら自分を傷付けることはないと思っていたのだろう。征服欲なら自分にも痛いほどわかる。なぜなら男だからだ。黛千尋は性別のない影ではない。れっきとした雄で、今まさに捕えた自分を喰らおうとしている。
ヒエラルキーの崩壊
突如赤司の脳内にその文字列が浮かび上がり、ぞく、と妙な疼きを覚えた。逃げなければと思ったのは本心だろうか、本能だろうか。
強く鎖骨を噛まれ身体がビクつく。甘い痛みは疼くような快感に繋がり、いやだと首を振っても黛は離してくれずに、また赤司の頭の奥で火花が散った。
さっきから呼吸が浅く、身体が熱い。二人とも勃起していたしお互いとっくにわかっていた。身体が欲しがっている。自らはやめられない。どちらかが歯止めを聞かせなければ、いけないのに。黛が指を絡めてきて、たまらずぎゅうと強く握り返す。
「ん、ぅ、ま、ゆずみ、さ」
真っ赤になりながら必死に呼ぶと、吐息を漏らすような微かな声が、あかし、と囁いた。
赤司はひとつの臨界点に達しようとしていた。もうだめだ。そんな惰性的な諦観など自分には許されないもののはずなのに、飽和した感情は抱えきれず持て余され、赤司のキャパシティは完全に崩壊しようとしていた。
もうすべて投げ出してしまいたい。心からそう思った時。
ふいに身体から力が抜け、赤司はぼんやりと黛を見上げた。
彼から湯気のように匂い立つそれが色香だと気付き、濡れた口唇から、あぁ、と声が漏れた。
鈍色の瞳の奥にある劣情を直視する。もう退路は断たれてしまった。突如こみ上げてきた寒気のような感覚に、赤司は全身を震わせた。
「……ぁ、……ッ」
咄嗟に顔を背け、腕で顔を隠す。
「……赤司?」
気付いた黛がそっと様子を伺う。不自然に詰まる呼吸に不審をいだき、腕を退けて赤司の顔を覗くと、一筋の涙が紅潮した頬を伝い落ちていった。
黛は親指でそれを拭う。
「……怖いか?」
荒い吐息を整えながら、黛が気遣わしげに尋ねた。ぽろりぽろりと流れる涙。赤司は何か答えようとして、小さくのどを引き攣らせる。
心も、身体も、自分で自分がまるで制御できない現実に、赤司はひどい衝撃を受けていた。どんなに抑えようとしても身体が震え闇雲に叫び出したくなる。だけどわかってしまった。怖いわけじゃない。逃げ出したくなる衝動の裏にあるのは恐怖ではない。
興奮だ。
期待していたのだ、本当はずっと。この部屋に入った時から自分たちは、涼しい顔の下でずっといやらしい期待しかしていなかった。
生きてきて感じたことのないほどの性的興奮が赤司の脳をどろどろに塗りつぶしていく。抗えず、けれどあまりに耐え難い。目の奥がますます熱くなり雫が頬を伝う。屈辱とも取れる苦悩に赤司は歯を食いしばった。
苦しい。みっともない。この僕が。こんなのいやだ。でも、
「……っ、ち、ひろ」
「ああ」
「――――すき」
捕らえた小動物の、最期の一鳴きのようだった。
黛は応えるように、赤司に口付けた。
やってしまった、と黛も内心で激しく苦悩していた。
赤司の混乱は黛にもよく伝わっていた。やっぱり泣かせた。だから隙を見せるなと言ったのに、ここまでくればもはやどうしたって悪者はこっちだ。手を出した方が悪いと言われればその通りとしか言えないし、そのうえ怖がらせ、泣かせたのでは、言い訳の余地なんかあるわけない。
身を起こし、抱き寄せて「悪かった」と背中を撫でる。
「もういいから。力抜け」
「ちひろ…っ」
「もうなんもしねぇから」
「で、も」
「今日は終わりだ」
赤司が鼻をすすりながら戸惑いの表情で見上げてきて、これからはこんな据え膳を前にして己の自制心を総動員しなければならないのか、とさらに頭を痛めた。
「わかったか?なんでお前がオレの性的対象になるのか」
「……よくわかりました。黛さんも、俺の性的対象でした」
真っ赤な目でこくりと頷くその様子があまりにも幼気(いたいけ)で、思わず黛はズルンとずっこけそうになった。
「めでたくホモだな…」
「やはりそういうことなんですか?」
「さぁ」
黛に抱きしめられながら、赤司は表情を暗くする。
「……自分自身も、何より貴方に対して、俺はあまりに自覚が足りなかったようです。…わざとそうしていたのかもしれない。今まで不快な思いをさせていたなら申し訳ありませんでした」
「させてたよ、めちゃくちゃ。オレはお前の父親でも兄貴でもないし、忠誠を誓う犬でもねぇよ」
そう言って前触れなく赤司の首筋に、がち、と歯を立てる。
「いつでも噛み付くからな。嫌なら本気で逃げろ」
「………はい」
くすぐったさにゾクッとし、同時にあれ? と気付く。今まで何度もこんな風に噛まれたのに、急に肌感覚が鋭敏になったようだ。咄嗟に身体が逃げそうになるほどくすぐったい。やめて欲しいと思うのに、決して嫌いではなんておかしい。
もしかして、こんなのがこれから当たり前になっていくんだろうか。俺とこの人の関係性はこんな風に変わってゆくのか。
エンペラーアイがゆらりと揺れた。未来の想像図は視えない。推測が及ばない。何もかもが未知数だ。
怖い、と確かに感じている。だが同時に、心躍らせている自分もいる。
予想のつかない未来は面白い。掴めない未来だからこそ、獲得のし甲斐がある。
その未来こそ、この男そのものなのだと赤司は思った。
「黛さん。俺は」
赤司は真剣な眼差しで黛を見上げた。
「これまでに自分が同性愛者だと思ったことはなかったし、正直に言うと今も実感はありません。だけど性的嗜好以前に、他人に対して、『どうされてもいい』と思ったことなんて生まれてはじめてです。そんな妄信的な乞い方が普通なのかどうかすらよくわからない。だから、貴方に対するこの気持ちが正確にどういった内訳なのか、未だに分析できていません」
「おう。オレもずっと次元問わず天然清楚系・妹派だったし、それは現在進行形で変わりない」
ツンデレお嬢サマもアリだし無垢で無口な謎っ子もアリだけどどっちにしろ美少女限定な、と淀みなく語る黛に苦笑する。
「……大好きですよ。触れられるのだってなんにもいやじゃない。優越感もあるし、独占欲もある。嫉妬だってしてます」
黛が無言で眉を上げると、赤司は長い睫毛を伏せた。
「貴方に向けられるこれらの感情は、やっぱり総括して恋愛感情のたぐいだと思うのですが」
「ですが?」
「ですが、この気持ちは、執着、でもある気がして」
一個人の嗜好は元より、性別という生き物の本能まで凌駕するような強烈な思慕の念は、恋だの愛だのというキラキラした宝石箱に収まるようなものではない気が、赤司にはするのだ。
これはもっと深いところに根付いている。自分が黛千尋を求める理由。その手を離せなかった理由。執着なら四月のあの日からとうにしている。だからこれはきっとその先にある、
「これは十中八九―――――依存です」
「……知ってるけど、別にどうでもいい」
赤司は「は?」と怪訝な顔を上げた。
そこそこの勇気を出して言ったのに、一秒で一蹴された。
「知ってるとは…?」
「なんとなくそんな感じだろうなと。じゃなかったらお前みたいな奴がわざわざオレにこだわる理由ねぇし」
目を丸くしている赤司に、黛は言葉の通り本当にどうでもよさげに続けた。
「執着、な。したいならしとけよ。別にオレは何も変わらねぇからどうでもいい」
「………」
「つーかお前みたいな情緒不安定、依存のひとつもしやすい性質なんじゃねぇの? よく知らねぇけど。オレ以外のやつに執着なり依存なりしねぇならなんでもいいよ」
「………」
「まぁ言っても、今のお前なら大丈夫だろ。別にオレは心配してないし。ぐだぐだ考えてねぇで、お前のやりたいようにやればいい」
そこまで言って黛は、唖然としている赤司にニヤリと笑った。
「どうぞお好きに 。赤司サマ」
天才のくせに、お前はなんでオレに対してだけそんな無防備さらすんだ。オレのどこを見たらそんな根拠のない信頼が抱けるんだ?
オレのことなんか本当は見てないんじゃないのか。お前はお前にとって「都合のいい人間」の幻想を、たまたまそこにいたオレに重ねているだけなんじゃないのか?
限界だった。おそらく最初から少しずつ積もり続けていた鬱憤が、限界を越えて静かにその留め金を外した。
「―――じゃあ今すぐここで脚開けって言ったら、お前その通りにするのか?」
え? と紅い瞳が大きく見開かれる。
「オレの性欲発散させるために奉仕しろって言われたら従うんだよな」
「……黛さん?」
「そういうことだぞ。ホントにわかってんのかお坊ちゃん」
唐突な侮辱とも言える言い草に眉をひそめた赤司は、身を乗り出した黛に肩を押され、そのままカーペットに背をつけた。
濁った男の視線が蛇のように全身に絡みつく。
「――――ぅ」
噛み付くようなキスに呼吸を奪われても抵抗できないのは、確かに思考停止しているからなのだと、その時赤司は始めて気付いた。
赤司の中には、黛千尋に対する絶対的な安心感がある。
黛は絶対に自分を傷付けない、自分の嫌がることは決してしないという、一方的な信頼がいつの頃からか存在している。
赤司がそうと言葉にしたことはない。だが、押し付けられている黛本人からすれば嫌になるほど明白だった。本人も無意識だから
この数ヶ月の間、布団の上で肌に痕を残されても、耳を噛まれなぶられても、赤司は最後の最後まで警戒心を抱かなかった。
リラックスしきっている飼い猫のような赤司征十郎を何度も独占していれば、さすがにむず痒い喜びを感じたこともある。だがその優越は、わりと早い段階で苛立ちへと変わった。
勝手にオレをお前の思い込みに落とし込むな。お前がオレの何を知ってる? オレがお前を傷付けないといつ言った?
それは健全な青年が抱いて然るべき苛立ちだったはずだ。
お前にとってオレはなんだ。あぁそうだ、掃きだめだったよな。お前に興味を持たず、かといって拒絶もできず、バスケの話も、ラノベの話も、適当に付き合える「都合のいい男」。時には足りないぬくもりを補え、かつて恋焦がれた年上の男の代わりにもできる。飼い馴らされ牙の抜けた
ずっと、その迷惑な信頼関係に焦れていた。いつかその信頼を引き裂き、裏切ってやりたくて仕方なかった。自分に向けられるあの透き通った微笑みが衝撃に歪む様を間近で観察してやりたいと、そんな暴力的な気持ちさえ何度も抱いた。
オレだってそれなりに男だ。さすがにもう、この期に及んで後戻りはできない。じゃれ合いのままでこれからもずっとなんて、いられるわけがない。獲物は今この瞬間にだって、目の前に白い首筋をさらけ出しているのに。
抱き続けてきた苛立ちは、今やはっきり焦燥へと変わっていた。
黛は一度口唇を離し、赤司の下口唇に親指を押し当てた。見上げる赤司がヒクリと身を竦める。
易々と男を煽って、本当に自覚がないのか?
お好きに、と言いやがった。よくも言えたもんだなと思う。こんな無垢な、子どもみたいな顔をして。
お前の目の前にいるのは部下でも従者でもない。肉食獣だ。
しかも飢えてる。お前がずっと、空腹のまま放置してきたから。
「まゅ……」
黛が再び口付けてきたその時に、赤司はようやく危険を感じて相手の肩に手をやった。
今さらすぎる。対応が遅れた。黛の纏う空気が違う。目の色が違う。彼の背後に沸き立つような何かが見える。動揺を堪えようと務めている間に両手首を床に押し付けられて、気付けば思うように動けなくなっていた。
「まってくださ」
せめて言葉だけでもと上げた拒絶の声はすぐさま呑まれた。
黛から向けられる鈍く重い視線に胃の奥が引き絞られるように収縮し、赤司の首筋にふわりと鳥肌が立つ。
なんだこれは。今感じているのは畏怖の感情なのか。この僕が。赤司征十郎が。千尋に? ばかな。
「ま、っ……ん! んん」
無意識に縮こませていた舌を乱暴に掬い上げられ赤司は目を見開く。口唇以上に敏感で濡れたその感触はよりいっそう生々しく、あからさまに性的な匂いがする。
熱くて、ぬめっていて。ぐちゃりと、水音、が。
「んぅ…ッ!」
ずっと抑え込んでいた羞恥心がついに赤司の全身を雷のように貫いた。もう自分を誤魔化せない。どう考えても、これは。
これは性行為の一端だ。
こんな、こんな、これほどに耐え切れないものなのか。赤司は自分に失望すら覚えた。手玉に取って仕返しの一つもしてやりたいと自身のプライドが悔しがるのに、実際はされるがままに翻弄されて思考すら鈍り始めている。口の中で水音がするたび死にたくなるほどの羞恥が湧いて、溢れそうな唾液をのどを鳴らして飲みこむ。これは黛の唾液だろうかと考えた時、頭のどこかで赤い火花が弾けた気がした。
舌を噛まれ痛いくらいに吸われて、腰が震えた。ぞくぞくする。黛の伸ばされた舌が獣のようだ。灰色の狼。ならば自分はおとぎ話の赤ずきんのようにこのまま食べられてしまうのだろうと、ぼやける視界の中で考える。あぁこんな顔をするんだ。あんなに無気力で無駄な熱量は使いたくないと公言して憚らない人なのに、荒い息を隠そうともせず全身で劣情をぶつけてくる。そうかと思い至った。この人も本能に身を委ねるのだ。性欲は当然あり、それを発散するためなら容赦なく獲物を捕らえ喉元に牙を突き立てる。当たり前じゃないか。どうして彼なら自分を傷付けることはないと思っていたのだろう。征服欲なら自分にも痛いほどわかる。なぜなら男だからだ。黛千尋は性別のない影ではない。れっきとした雄で、今まさに捕えた自分を喰らおうとしている。
ヒエラルキーの崩壊
突如赤司の脳内にその文字列が浮かび上がり、ぞく、と妙な疼きを覚えた。逃げなければと思ったのは本心だろうか、本能だろうか。
強く鎖骨を噛まれ身体がビクつく。甘い痛みは疼くような快感に繋がり、いやだと首を振っても黛は離してくれずに、また赤司の頭の奥で火花が散った。
さっきから呼吸が浅く、身体が熱い。二人とも勃起していたしお互いとっくにわかっていた。身体が欲しがっている。自らはやめられない。どちらかが歯止めを聞かせなければ、いけないのに。黛が指を絡めてきて、たまらずぎゅうと強く握り返す。
「ん、ぅ、ま、ゆずみ、さ」
真っ赤になりながら必死に呼ぶと、吐息を漏らすような微かな声が、あかし、と囁いた。
赤司はひとつの臨界点に達しようとしていた。もうだめだ。そんな惰性的な諦観など自分には許されないもののはずなのに、飽和した感情は抱えきれず持て余され、赤司のキャパシティは完全に崩壊しようとしていた。
もうすべて投げ出してしまいたい。心からそう思った時。
ふいに身体から力が抜け、赤司はぼんやりと黛を見上げた。
彼から湯気のように匂い立つそれが色香だと気付き、濡れた口唇から、あぁ、と声が漏れた。
鈍色の瞳の奥にある劣情を直視する。もう退路は断たれてしまった。突如こみ上げてきた寒気のような感覚に、赤司は全身を震わせた。
「……ぁ、……ッ」
咄嗟に顔を背け、腕で顔を隠す。
「……赤司?」
気付いた黛がそっと様子を伺う。不自然に詰まる呼吸に不審をいだき、腕を退けて赤司の顔を覗くと、一筋の涙が紅潮した頬を伝い落ちていった。
黛は親指でそれを拭う。
「……怖いか?」
荒い吐息を整えながら、黛が気遣わしげに尋ねた。ぽろりぽろりと流れる涙。赤司は何か答えようとして、小さくのどを引き攣らせる。
心も、身体も、自分で自分がまるで制御できない現実に、赤司はひどい衝撃を受けていた。どんなに抑えようとしても身体が震え闇雲に叫び出したくなる。だけどわかってしまった。怖いわけじゃない。逃げ出したくなる衝動の裏にあるのは恐怖ではない。
興奮だ。
期待していたのだ、本当はずっと。この部屋に入った時から自分たちは、涼しい顔の下でずっといやらしい期待しかしていなかった。
生きてきて感じたことのないほどの性的興奮が赤司の脳をどろどろに塗りつぶしていく。抗えず、けれどあまりに耐え難い。目の奥がますます熱くなり雫が頬を伝う。屈辱とも取れる苦悩に赤司は歯を食いしばった。
苦しい。みっともない。この僕が。こんなのいやだ。でも、
「……っ、ち、ひろ」
「ああ」
「――――すき」
捕らえた小動物の、最期の一鳴きのようだった。
黛は応えるように、赤司に口付けた。
やってしまった、と黛も内心で激しく苦悩していた。
赤司の混乱は黛にもよく伝わっていた。やっぱり泣かせた。だから隙を見せるなと言ったのに、ここまでくればもはやどうしたって悪者はこっちだ。手を出した方が悪いと言われればその通りとしか言えないし、そのうえ怖がらせ、泣かせたのでは、言い訳の余地なんかあるわけない。
身を起こし、抱き寄せて「悪かった」と背中を撫でる。
「もういいから。力抜け」
「ちひろ…っ」
「もうなんもしねぇから」
「で、も」
「今日は終わりだ」
赤司が鼻をすすりながら戸惑いの表情で見上げてきて、これからはこんな据え膳を前にして己の自制心を総動員しなければならないのか、とさらに頭を痛めた。
「わかったか?なんでお前がオレの性的対象になるのか」
「……よくわかりました。黛さんも、俺の性的対象でした」
真っ赤な目でこくりと頷くその様子があまりにも幼気(いたいけ)で、思わず黛はズルンとずっこけそうになった。
「めでたくホモだな…」
「やはりそういうことなんですか?」
「さぁ」
黛に抱きしめられながら、赤司は表情を暗くする。
「……自分自身も、何より貴方に対して、俺はあまりに自覚が足りなかったようです。…わざとそうしていたのかもしれない。今まで不快な思いをさせていたなら申し訳ありませんでした」
「させてたよ、めちゃくちゃ。オレはお前の父親でも兄貴でもないし、忠誠を誓う犬でもねぇよ」
そう言って前触れなく赤司の首筋に、がち、と歯を立てる。
「いつでも噛み付くからな。嫌なら本気で逃げろ」
「………はい」
くすぐったさにゾクッとし、同時にあれ? と気付く。今まで何度もこんな風に噛まれたのに、急に肌感覚が鋭敏になったようだ。咄嗟に身体が逃げそうになるほどくすぐったい。やめて欲しいと思うのに、決して嫌いではなんておかしい。
もしかして、こんなのがこれから当たり前になっていくんだろうか。俺とこの人の関係性はこんな風に変わってゆくのか。
エンペラーアイがゆらりと揺れた。未来の想像図は視えない。推測が及ばない。何もかもが未知数だ。
怖い、と確かに感じている。だが同時に、心躍らせている自分もいる。
予想のつかない未来は面白い。掴めない未来だからこそ、獲得のし甲斐がある。
その未来こそ、この男そのものなのだと赤司は思った。
「黛さん。俺は」
赤司は真剣な眼差しで黛を見上げた。
「これまでに自分が同性愛者だと思ったことはなかったし、正直に言うと今も実感はありません。だけど性的嗜好以前に、他人に対して、『どうされてもいい』と思ったことなんて生まれてはじめてです。そんな妄信的な乞い方が普通なのかどうかすらよくわからない。だから、貴方に対するこの気持ちが正確にどういった内訳なのか、未だに分析できていません」
「おう。オレもずっと次元問わず天然清楚系・妹派だったし、それは現在進行形で変わりない」
ツンデレお嬢サマもアリだし無垢で無口な謎っ子もアリだけどどっちにしろ美少女限定な、と淀みなく語る黛に苦笑する。
「……大好きですよ。触れられるのだってなんにもいやじゃない。優越感もあるし、独占欲もある。嫉妬だってしてます」
黛が無言で眉を上げると、赤司は長い睫毛を伏せた。
「貴方に向けられるこれらの感情は、やっぱり総括して恋愛感情のたぐいだと思うのですが」
「ですが?」
「ですが、この気持ちは、執着、でもある気がして」
一個人の嗜好は元より、性別という生き物の本能まで凌駕するような強烈な思慕の念は、恋だの愛だのというキラキラした宝石箱に収まるようなものではない気が、赤司にはするのだ。
これはもっと深いところに根付いている。自分が黛千尋を求める理由。その手を離せなかった理由。執着なら四月のあの日からとうにしている。だからこれはきっとその先にある、
「これは十中八九―――――依存です」
「……知ってるけど、別にどうでもいい」
赤司は「は?」と怪訝な顔を上げた。
そこそこの勇気を出して言ったのに、一秒で一蹴された。
「知ってるとは…?」
「なんとなくそんな感じだろうなと。じゃなかったらお前みたいな奴がわざわざオレにこだわる理由ねぇし」
目を丸くしている赤司に、黛は言葉の通り本当にどうでもよさげに続けた。
「執着、な。したいならしとけよ。別にオレは何も変わらねぇからどうでもいい」
「………」
「つーかお前みたいな情緒不安定、依存のひとつもしやすい性質なんじゃねぇの? よく知らねぇけど。オレ以外のやつに執着なり依存なりしねぇならなんでもいいよ」
「………」
「まぁ言っても、今のお前なら大丈夫だろ。別にオレは心配してないし。ぐだぐだ考えてねぇで、お前のやりたいようにやればいい」
そこまで言って黛は、唖然としている赤司にニヤリと笑った。
「