卒業
あの日、この場所で、オレの世界の色は一瞬にして塗り替えられた。薄墨をぼかしたような灰色の世界から、息を呑むほど鮮烈で美しい赤へと。
その衝撃は、1年経った今でもまったく色褪せることなくオレの中に在り続けている。勝手に過去の遺物にされ、思い出なんて綺麗事で終わらせられるのは不愉快だった。
そう簡単に忘れられるような出逢いだったなら、オレたちは今ここでこんなことしてない。オレだって散々抗ったよ。でもな、手放せなかったんだからもうしょうがねぇだろ。どうせあきらめるなら、お前もそういう意味であきらめをつけろ。
「……っん、ん……、ぅ」
わずかな隙間に苦しい、と赤司が零したので、口唇を離しその目を覗き込む。
「抵抗しねぇのかよ」
途端、射殺されんばかりの鋭さで睨まれた。
「……卑怯もの…っ!」
今さらながらに赤司の頬が染まり、耳の先までみるみる真っ赤になっていく。オレはニヤリと目を眇めた。
「お前みたいな体力チートに手ぇ出そうってんだからな。多少頭使わねぇとダメだろ」
「オレが好きなら」という試すような脅し文句に、律儀に翻弄されている天帝サマの間抜けっぷりが愉快で仕方ない。
オレの胸元に拳をドンと押し付け、もう片方の手の甲で口唇を拭おうとした顎をすかさず持ち上げ、ビクリと息を飲んだ口唇をまた塞ぐ。すると今度はすぐに首を振って逃げられた。
「――~~~ッしつこい!!」
「っは」
おかしくておかしくて、しつこいと言われたそばからまた追いかけて口唇を喰む。赤司の口唇は小さくて腹が立つほどお上品で、オレが大きく口を開けて覆うと丸ごと食べ尽くしてしまいそうだ。ようやくオレにも味わうほどの余裕が出てきて、柔らかい口唇を甘噛みして舌でべろりと舐め上げると、ビビって毛を逆立てているのが本当におかしい。
「やめ、―――ゃ、ん」
何度も角度を変えて貪るのを止められない。言葉とは裏腹に赤司はすっかりされるがままだ。上気した顔を薄目で見下ろし、うっすらと開かれた無防備な口唇に、誘われるまま舌を差し込んだ。跳ねる身体を押さえ赤司の舌にぬるりと絡めたら、「!?」とドン引きに近い色をした両目に間近で凝視されて、思わず吹き出しそうになった。
ああ、面白ぇ面白ぇ。くそ、こいつホント面白ぇ。
どうしてくれる。かわいくて、仕方ない。
「……っふ、はっ…、もう、だ、…だめです、黛さん。ほんとうに」
一ミリでもオレから距離を取ろうと深く俯いて、赤司は心底切羽詰まった声を出した。相変わらず耳まで赤く、呼吸が乱れている。はーっ、はーっというか細い吐息が妙に扇情的に聞こえる。もう無理だ、と赤司は聞いたことのない声で泣き言を零した。
「…まって…まって、ください」
「処理能力超えたか? 安心しろオレも超えてる」
こう見えてけっこう前から正気は飛んでたりする。
「おれは、……、……」
赤司は手の甲で目を隠し、言葉を続けることもできずに萎縮していた。その様子を見て、オレは赤司の身体から手を離した。
衝撃に、屈辱に、襲い来る未知の感情と体感に、怯えている。そんな様子を見て正直に嗜虐欲を覚えながらも、一方でオレは冷静に問いかけていた。
「嫌か?」
「………」
「嫌ならそう言えよ。我慢しろって言った覚えはねぇから」
「………」
やがて赤司は大きく息を吸い込み。
ゆっくりと、長い息を吐き出した。
身に纏っていた不安と昏迷を含んだ空気が、わずかにその色を緩和させる。
伏せられたまつ毛がゆっくりと持ち上げられ、透き通る赤い瞳が真っ直ぐにオレを見つめた。
頬はまだわずかに赤い。しかしその顔に動揺らしい動揺はもうほとんどなくなっていた。こいつの土壇場の精神力は本当に尊敬に値する。オレが黙って見つめ返すと、赤司は「黛さん」と静かに名を呼んだ。
「……抱きしめてください」
何かを決意した力強さと、何かを諦めて覚悟した悲壮さが複雑に入り混じる表情を浮かべながら、赤司はしかし王者の気配を纏わせ、はっきりとそう命じた。
一歩分の距離を置いたまま、赤司は動こうとはしない。
オレから近付いて腕を伸ばし、躊躇もなく抱きすくめた瞬間、融解するように赤司はオレにすがりついた。
しがみついてくる子どもみたいな体温。あぁそうだったと思い出す。こいつは何よりも、こうされるのが好きなんだった。抱きしめられるぬくもりに、飢えているだけの、
「………っ」
感極まったようにオレの胸に顔を擦り付け、ぎゅうぎゅうと爪を立てて抱きついてくる。無意識なんだろうが仕草が本物の猫のようで、愛しくてたまらなくなる。
人差し指の関節で頬をすりと撫で上げ、見上げてきた素顔は随分落ち着いていた。かわいい。綺麗で、やっぱりかわいい。
「……なぁ、赤司」
「はい」
「オレ、お前にずっと、言おう言おうと思ってたことがあんだよ」
「なんでしょう」
「大したことじゃねーけど」
不思議そうな目。。意外と緊張している自分に気付き、髪をぐしゃりと掻く。
オレは一度目を閉じてから、すぅ、と軽く息を吸い込んだ。
この想いが伝わるように。
慎重に、誠実に、口を開く。
「オレをバスケ部に連れ戻してくれて、ありがとうな」
ふっ、と、赤司が息を飲んだ。
見たことのない漣が、赤いガラス玉の瞳で揺れたように見えた。
「別に、今だってオレは分を弁えてるし、自分を過大評価してるつもりもねぇよ。お前のせいでエライ目にあったあの一年間を経験したところで、結局オレはオレだ。肝心なところは何も変わらない」
オレはお前の影で、主人公にはなれない。そんなことは知っている。
「……でもま、よくわかったよ。嫌でも実感させられたっつーか。大して上手くもねぇけど…オレ、やっぱバスケ自体は普通に好きだったんだよな。まぁじゃなかったら丸々二年も在籍してなかったし」
小っ恥ずかしい気がしていたが、いざ口に出してみると大したことはなかった。「オレはラノベが好き」発言と同等だ。好きだと思う。やってて楽しいと思える。他のスポーツと比較した時、自分の中の爽快感がちがう。それだけだ。
「よりによって洛山のバスケ部なんかに入っちまったから、完全に卑屈になって忘れてたけど。お前のおかげで思い出せた。引退式で言ったのは嘘じゃないぜ。この一年、悪くなかった。おかげさんでな」
固まってしまった赤司の頬を撫でる。
「……お前らとバスケできて、まぁ、楽しかった」
そうして赤司の目を見つめ、あ、と思った。
あ、あ、まじか。思う間に大きな瞳の淵に透明な雫が盛り上がり、あっという間に一筋、白い頬を流れ落ちた。
苦笑して、手のひらで拭う。
「……もうちょっとくらい、一緒にプレイしたかったよな」
言い終わる前に引き歪んだ赤司の瞳からぼろぼろと涙が溢れ出る。
あぁ、こんな顔は始めて見た。こいつは泣いても綺麗なんだな。それとも欲目だろうか。でもやっぱり普通に可愛い。やっと見れた。こんな顔、自分以外の誰にも見せたくないな。死んでも。
赤司はオレに抱きつき、胸に顔を押し付け声を殺して泣いた。
オレの心臓までもがぎゅうと収縮して痛む。つらい痛みではなかった。小さな頭を抱き込み身体ごと強く抱きしめると、柔らかい言葉がまた自然と口をついた。
「―――ありがとな、赤司」
「……っ、ちひろ…ッ」
「赤司」
「ち、ひろ」
オレを千尋と呼ぶ声は震えてかすれ、庇護欲に似たどうしようもない愛しさがこみ上げる。潰してしまいそうなほど腕に力を込めると、赤司はもっと強い力でオレにしがみついてきた。
「赤司」
「……ッち、ひ」
「好きだ」
夕暮れの赤 に、折り重なった薄墨 が滲み、溶け合ってゆく空を見上げる。
最後の空だ。
この場所 でオレとお前が過ごす、これが最後。
本当に、悪くなかった。今オレの胸の中を占めるのは、そんなしみじみとした充足感だけだった。
その衝撃は、1年経った今でもまったく色褪せることなくオレの中に在り続けている。勝手に過去の遺物にされ、思い出なんて綺麗事で終わらせられるのは不愉快だった。
そう簡単に忘れられるような出逢いだったなら、オレたちは今ここでこんなことしてない。オレだって散々抗ったよ。でもな、手放せなかったんだからもうしょうがねぇだろ。どうせあきらめるなら、お前もそういう意味であきらめをつけろ。
「……っん、ん……、ぅ」
わずかな隙間に苦しい、と赤司が零したので、口唇を離しその目を覗き込む。
「抵抗しねぇのかよ」
途端、射殺されんばかりの鋭さで睨まれた。
「……卑怯もの…っ!」
今さらながらに赤司の頬が染まり、耳の先までみるみる真っ赤になっていく。オレはニヤリと目を眇めた。
「お前みたいな体力チートに手ぇ出そうってんだからな。多少頭使わねぇとダメだろ」
「オレが好きなら」という試すような脅し文句に、律儀に翻弄されている天帝サマの間抜けっぷりが愉快で仕方ない。
オレの胸元に拳をドンと押し付け、もう片方の手の甲で口唇を拭おうとした顎をすかさず持ち上げ、ビクリと息を飲んだ口唇をまた塞ぐ。すると今度はすぐに首を振って逃げられた。
「――~~~ッしつこい!!」
「っは」
おかしくておかしくて、しつこいと言われたそばからまた追いかけて口唇を喰む。赤司の口唇は小さくて腹が立つほどお上品で、オレが大きく口を開けて覆うと丸ごと食べ尽くしてしまいそうだ。ようやくオレにも味わうほどの余裕が出てきて、柔らかい口唇を甘噛みして舌でべろりと舐め上げると、ビビって毛を逆立てているのが本当におかしい。
「やめ、―――ゃ、ん」
何度も角度を変えて貪るのを止められない。言葉とは裏腹に赤司はすっかりされるがままだ。上気した顔を薄目で見下ろし、うっすらと開かれた無防備な口唇に、誘われるまま舌を差し込んだ。跳ねる身体を押さえ赤司の舌にぬるりと絡めたら、「!?」とドン引きに近い色をした両目に間近で凝視されて、思わず吹き出しそうになった。
ああ、面白ぇ面白ぇ。くそ、こいつホント面白ぇ。
どうしてくれる。かわいくて、仕方ない。
「……っふ、はっ…、もう、だ、…だめです、黛さん。ほんとうに」
一ミリでもオレから距離を取ろうと深く俯いて、赤司は心底切羽詰まった声を出した。相変わらず耳まで赤く、呼吸が乱れている。はーっ、はーっというか細い吐息が妙に扇情的に聞こえる。もう無理だ、と赤司は聞いたことのない声で泣き言を零した。
「…まって…まって、ください」
「処理能力超えたか? 安心しろオレも超えてる」
こう見えてけっこう前から正気は飛んでたりする。
「おれは、……、……」
赤司は手の甲で目を隠し、言葉を続けることもできずに萎縮していた。その様子を見て、オレは赤司の身体から手を離した。
衝撃に、屈辱に、襲い来る未知の感情と体感に、怯えている。そんな様子を見て正直に嗜虐欲を覚えながらも、一方でオレは冷静に問いかけていた。
「嫌か?」
「………」
「嫌ならそう言えよ。我慢しろって言った覚えはねぇから」
「………」
やがて赤司は大きく息を吸い込み。
ゆっくりと、長い息を吐き出した。
身に纏っていた不安と昏迷を含んだ空気が、わずかにその色を緩和させる。
伏せられたまつ毛がゆっくりと持ち上げられ、透き通る赤い瞳が真っ直ぐにオレを見つめた。
頬はまだわずかに赤い。しかしその顔に動揺らしい動揺はもうほとんどなくなっていた。こいつの土壇場の精神力は本当に尊敬に値する。オレが黙って見つめ返すと、赤司は「黛さん」と静かに名を呼んだ。
「……抱きしめてください」
何かを決意した力強さと、何かを諦めて覚悟した悲壮さが複雑に入り混じる表情を浮かべながら、赤司はしかし王者の気配を纏わせ、はっきりとそう命じた。
一歩分の距離を置いたまま、赤司は動こうとはしない。
オレから近付いて腕を伸ばし、躊躇もなく抱きすくめた瞬間、融解するように赤司はオレにすがりついた。
しがみついてくる子どもみたいな体温。あぁそうだったと思い出す。こいつは何よりも、こうされるのが好きなんだった。抱きしめられるぬくもりに、飢えているだけの、
「………っ」
感極まったようにオレの胸に顔を擦り付け、ぎゅうぎゅうと爪を立てて抱きついてくる。無意識なんだろうが仕草が本物の猫のようで、愛しくてたまらなくなる。
人差し指の関節で頬をすりと撫で上げ、見上げてきた素顔は随分落ち着いていた。かわいい。綺麗で、やっぱりかわいい。
「……なぁ、赤司」
「はい」
「オレ、お前にずっと、言おう言おうと思ってたことがあんだよ」
「なんでしょう」
「大したことじゃねーけど」
不思議そうな目。。意外と緊張している自分に気付き、髪をぐしゃりと掻く。
オレは一度目を閉じてから、すぅ、と軽く息を吸い込んだ。
この想いが伝わるように。
慎重に、誠実に、口を開く。
「オレをバスケ部に連れ戻してくれて、ありがとうな」
ふっ、と、赤司が息を飲んだ。
見たことのない漣が、赤いガラス玉の瞳で揺れたように見えた。
「別に、今だってオレは分を弁えてるし、自分を過大評価してるつもりもねぇよ。お前のせいでエライ目にあったあの一年間を経験したところで、結局オレはオレだ。肝心なところは何も変わらない」
オレはお前の影で、主人公にはなれない。そんなことは知っている。
「……でもま、よくわかったよ。嫌でも実感させられたっつーか。大して上手くもねぇけど…オレ、やっぱバスケ自体は普通に好きだったんだよな。まぁじゃなかったら丸々二年も在籍してなかったし」
小っ恥ずかしい気がしていたが、いざ口に出してみると大したことはなかった。「オレはラノベが好き」発言と同等だ。好きだと思う。やってて楽しいと思える。他のスポーツと比較した時、自分の中の爽快感がちがう。それだけだ。
「よりによって洛山のバスケ部なんかに入っちまったから、完全に卑屈になって忘れてたけど。お前のおかげで思い出せた。引退式で言ったのは嘘じゃないぜ。この一年、悪くなかった。おかげさんでな」
固まってしまった赤司の頬を撫でる。
「……お前らとバスケできて、まぁ、楽しかった」
そうして赤司の目を見つめ、あ、と思った。
あ、あ、まじか。思う間に大きな瞳の淵に透明な雫が盛り上がり、あっという間に一筋、白い頬を流れ落ちた。
苦笑して、手のひらで拭う。
「……もうちょっとくらい、一緒にプレイしたかったよな」
言い終わる前に引き歪んだ赤司の瞳からぼろぼろと涙が溢れ出る。
あぁ、こんな顔は始めて見た。こいつは泣いても綺麗なんだな。それとも欲目だろうか。でもやっぱり普通に可愛い。やっと見れた。こんな顔、自分以外の誰にも見せたくないな。死んでも。
赤司はオレに抱きつき、胸に顔を押し付け声を殺して泣いた。
オレの心臓までもがぎゅうと収縮して痛む。つらい痛みではなかった。小さな頭を抱き込み身体ごと強く抱きしめると、柔らかい言葉がまた自然と口をついた。
「―――ありがとな、赤司」
「……っ、ちひろ…ッ」
「赤司」
「ち、ひろ」
オレを千尋と呼ぶ声は震えてかすれ、庇護欲に似たどうしようもない愛しさがこみ上げる。潰してしまいそうなほど腕に力を込めると、赤司はもっと強い力でオレにしがみついてきた。
「赤司」
「……ッち、ひ」
「好きだ」
夕暮れの
最後の空だ。
本当に、悪くなかった。今オレの胸の中を占めるのは、そんなしみじみとした充足感だけだった。