卒業
***
陽が落ちるのが遅くなったな、と実感する。少し前までこの時間帯なら、空は夕闇から夜の帳へとその様相を変え始めていた頃だ。まだ太陽はまっすぐ向けた目線の先に鎮座しており、遠く見渡す街並みにぼんやりと夕暮れの気配を漂わせている。
この景色も。ここから見る空も。冷たいフェンスも、コンクリも。季節によって様変わりする、校門から続く並木道も。
もう、見ることはないんだな。らしくもない、名残惜しむような感傷が湧いた。
「……不法侵入ですよ」
いつもの場所に赤司がいて、こちらを振り返りにやりと笑った。
なんだかもう当然のようにそこにいるこいつに、だからなんでいるんだよ、と今さらすぎるツッコミを入れたくなる。おかしいだろ常識的に考えて。そう思いながらここに来てる時点で、オレも充分おかしいんだけどな。
なんで卒業式のあとに、わざわざ屋上なんかにいるんだよ。オレもお前も。
「ロスタイムだろ。見逃せよ、生徒会長殿」
そっけなく言い返し、のんびりと赤司のそばまで歩いていく。
「数時間前まで在校生だったんだからな」
赤司はいたずらげに笑った。
本当に、オレたちはいつからこんな約束も交わさない逢瀬が当たり前になっていたんだろう。
この扉を開ければお前がいる。いないかもしれない。いなくてもいい。でもいたって別にかまわない。約束なんかしたことはない。ただ、この空間にオレとお前がいる光景が、いつしかお互い当たり前のものになっていた。
向かい合って、じっと見つめ合う。その目の奥に何かを探り、ほかの誰にもわからないだろう緊張感が二人の間に生まれる。
何かを終わらせなくてはいけなかった。ずっと逃げ続けてきた何かを。
本当に本当の最後だ。もう逃げ場はない。
式のあと、友達連中と集まって打ち上げ的なものをしてきた。つってもPC好きなやつの集団でどちらかと言えば寡黙な奴が多く、粛々とジュースでお疲れ様して、あとはいつも通り雑談して趣味の話ばっかしてたけど。
学生らしく大騒ぎできないのはまぁ多少の照れもあるんだろうが、やっぱり性格だよなとしみじみ思った。それよりもこうして気の合う少人数でまったりしていられる方が、どう考えても楽しいしラクだ。
今日は無礼講だとそのまま河原町あたりに繰り出す奴らもいたが、オレはもう引き揚げるわという体でそいつらに別れを告げ、その足で、さっき卒業したばかりの学校に出戻ってきたというわけだ。
午前中の華やかな喧騒が嘘のように学校全体が静まり返り、下駄箱から屋上に向かう間、誰にも会わなかったし人の気配すら感じなかった。
何やってんだろうな、と自分で自分に呆れる。卒業したのはほんの数時間前。ずっと言ってるように、後悔も未練もない。終わり方としては上々の方だろう。
なのに、オレの足は深く考えることもなく真っ直ぐに屋上 に向かっていて。
この場所にだけ、何か忘れ物をしたような、すっきりしない何かがまだ残っている気がして。
扉を開けて屋上に立つ赤司を見た瞬間、オレはオレの3年間の一部から、まだ卒業できていないことがわかった。
「―――お疲れ」
ふと思いついて口にすると、赤司は目を丸くしてからくすりと笑った。
「俺のセリフじゃないですか、それは」
「いや、生徒会の仕事色々あんだろ。よく知らねぇけど」
うちの生徒会はお飾りではないので、行事の日はそれはもう大人顔負けの多忙さで立ち回る。オレが1、2年の時もそうだったが、こいつが長を勤めてからはその有能っぷりに拍車がかかっていた。
改めて、ほんとにこいつはよくもまぁ、こんな顔してとんでもない量の仕事を自ら抱えたがるもんだ。そういう意味で、こいつに対する一年間お疲れさまという言葉もまったく間違いではない。
「そうですね。色々ありましたが、無事終了したところですよ」
赤司は緩やかな笑みを浮かべたまま、オレを真っ直ぐに見上げた。
「黛さん。ご卒業おめでとうございます」
「おう」
「今まで、お疲れ様でした」
どっかで聞いたなそのセリフ。口角を微かに上げて改めて向き合う。赤司の手がオレの方に伸び、抱きついてくるのかとバカみたいに考えたとき、肩のあたりに一瞬の負荷を感じた。
次の瞬間、オレは座り込んだコンクリから赤司を見上げていた。
……転ばされた。なんだいきなり。今そういう雰囲気だったか?
ぽかんと見上げた先に灼熱と黄金の瞳が悠然とオレを見下ろしていて、あぁ、と思った。
なるほど。
「――――ご苦労だったね。黛千尋」
口の端が引き攣る。これほどいたわりが感じられない労いもそうそうない。
「この3年間の、洛山バスケ部に対する貢献。特に最後の1年間、お前は賞賛に値する働きを見せてくれた。文句も多く随分と手間もかかったが、結果的にお前は僕の期待に十二分に応えてくれた、申し分のない『影』に成長した。主将として、非常に満足しているよ」
「……そりゃどうも」
「我々の間にすでに従属関係はなく、お前の影としての責務は全うされたと考えるべきだ。従って今日という華々しい人生の門出に、僕はお前を解放することにした。―――卒業おめでとう。千尋」
自信に満ちた高慢な笑みが、してやったりとばかりにオレを見下ろす。
それはまるで用意されていた台本を読むように淀みなく並べ立てられた、赤司征十郎が送るもうひとつの「送辞」だった。
オレは尻餅ついたまま、ぼんやりと赤司を見上げた。
こんな風に、さも当然の顔で下賜と見せかけた断絶を言い渡されたら、それが受け容れるべき世界の真実なのだ、と。
まぁ、思うだろうな、普通。
普通はな。
でも。
「………っは」
オレは俯いて吹き出した。不愉快そうに眉をひそめる赤司の表情が、見なくても手に取るようにわかる。
お前の奮う独裁体制も支配体系も大したもんだ。こんな高一見たことねぇよ。そこいらの人間なら簡単に丸め込まれるに決まってる。あぁ、お前のことを何も知らない普通の人間ならな。
……でもこいつ、この期に及んでなんでそれがオレに通用すると思い込んでんだ?
バカだ。
こみ上げる笑いを抑えきれない。
バカだな、こいつ。天才のくせに。
大バカだ。
オレは爆笑したいのを噛み殺しながら顔を上げた。
「そういう茶番、もういらねぇから」
それは虚勢ではなかった。オレの優位を悟った赤司が敏感に警戒を示す。
あぁそうだ。これはこいつがオレから逃げるために、周到に用意してきた陳腐なお芝居に過ぎない。
膝に手を乗せ、苦笑に口を歪ませながら、はー、とため息をつきよいしょと立ち上がる。再び目線が上からになったオレを見て、赤司はキツく眉根を絞った。
「お前、頭がたか―――」
「なぁ赤司」
遮って手を伸ばすと、見開いた猫目が反射的に身を引いた。
「オレはな、今ならよくわかるんだよ。オレが旧型に負けた理由」
「……っ」
なぜ今それを、と赤司はオレを睨み上げた。全てが好転したように見える今でも、敗北の傷は鮮やかだ。知っているからこそ、あの日からずっと考え続けていたことを、今ここでオレは赤司に伝えなければならない。
「オレには影としての自覚が足りなかった。その通りだ。オレは、洛山 の為の影になろうとしたことは、一度もなかった」
伸ばした手を下ろし、赤司の目を見据える。
「最初から今までずっと、オレは―――赤司征十郎 の影で在りたかった」
赤司の瞳が怯えるように見開かれた。
「その為になら自我も殺せた。だけどな、『お前の影になりたい』というそれが、すでに強烈な自我なんだ。欲望なんだよ。オレの欲はチームを勝たせる方向には働かなかった。だから旧型には勝てなかった。それだけだ」
黒子テツヤはきっと、はじめから影だったんだろう。
だが、オレは影になりたかった 。それも人一倍貪欲に。自分でも気付かないほどオレはその場所に執着していた。赤司の影であることを切望し、赤司に求められる影という自分にこの上ない価値と優越を覚え、そのプライドが、どんな状況下に置かれようともオレをコートに立たせ続けた。
それは紛れもない欲望 だ。自己の主張だ。そんなものを振りかざして新型だのなんだの、今思えば滑稽でしかない。
オレの存在意義ははじめから違ったのだ。チームなんてどうでもよかった。赤司征十郎に選ばれた、赤司征十郎にとっての、唯一の影であれればよかったのだ。
「お前、引退式の日言ったよな。もうオレたちはただの先輩と後輩ですって。自分で言っといてなんでわかんねぇの? オレは今さらお前に何かを強制された覚えもねぇし、従わされた覚えも一切ねぇよ。そんな義務も、オレが我慢する必要も、もうどこにもないんだからな」
赤司の表情は変わらない。だがその内心には確かな衝動が生まれていて、おっかない無表情の下でそれを押し隠そうとしているのがオレにはわかる。
「……捕まえたと、思ってたんだろ。オレも思ってたよ。捕まっちまったってな」
こいつは、引退式後のオレが、「嫌々ながら自分と交流し続けていた」と思っている。ただオレが善意でこいつの手を握ってやっていたのだと。
「でも、お前がオレを捕まえられる距離に居るなら、オレもお前を捕まえられるんだぜ」
嗤いが漏れた。んなわけあるか。お前の中でオレはどんな紳士キャラなんだ。そうやってひと舐めてるから痛い目に遭うんだよ。こんな風に。
一歩踏み出す。視線を逸らせない赤司の目に、はっきりとした焦燥が現れた。この屋上という名の閉じられた空間で、逃げ場はないと知りつつも、赤司の身体はオレから逃げ出そうとしている。今さら逃がすわけがない。
屈辱を滲ませて見上げてきた赤司の手首を、躊躇なく捕える。いくらでも逃げられるだろうに、それをしない時点でもうお前の負けだよ、赤司。
「……わかるか」
オレは口元に笑みすら浮かべ、赤司を見下ろした。
「解放するも何もない。オレは最初から最後まで自分の意志でしか動いてない。洛山の幻の六人目になった時も、うちに転がり込んできたお坊ちゃんと過ごしたままごとみたいな時間もな。オレがなりたくてなったんだよ、お前の影に。影 に囚われたのはお前だ。赤司」
「―――ッ、ま…っ」
引き寄せようとした手を咄嗟に拒み、赤司は背を丸めてオレから距離を取ろうとした。
「待ってください」
「もう遅ぇよ」
「だめです、それは、ちがう、それは、あなたの理屈だ」
赤司は渾身の馬鹿力で掴まれた手首をギギギと引きながら、必死で、必死で劣勢を立て直そうとしている。
「俺は、今日――今日までだと決めてきたんです。貴方を独り占めできるのは、貴方がここ からいなくなる今日までだと…っ」
「だろうな。それがあれか、オトウサマに差し出した条件か。黛千尋 が卒業したらもう会わないからそれまで好きにさせてください、その代わりそのあとは言う通りにしますからってか。……お前なぁ、ホントいい加減にしろよクッソ腹立つ!」
ずっと気付いていないフリをして沸々と煮えたぎっていた苛立ちの根源が、ついに留め金を外されて爆発した。「解放してやる」なんて下手くそな建前でオレから逃げようとしたお前に、オレの怒りを思い知らせてやりたかった。驚きに息を詰まらせる赤司の胸ぐらを掴み、背中をフェンスに押し付ける。
「当事者無視して勝手なことしてんじゃねぇよ。悲劇のヒロインぶるな。お前の都合なんか知ったことか」
「うるさい、貴方にはわからない…ッ!」
赤司が追い詰められたように叫ぶ。
「俺には責任があるんです、赤司の名を背負う者としての責任が。己の利得を優先して大義を投げ出すなんて真似できるわけがない」
「誰が投げ出せつった。お前そんなしょぼいヤツだったかよ。欲しいんなら、必要なら両方手にして諦める必要ねぇだろ」
赤司が絶望とも希望とも取れる表情でオレを見上げた。
そうだろうが。お前は、赤司征十郎はそうだった。ずっとそういう奴だっただろ。だからお前はオレを手に入れた。俺が部に戻ると頷くまでしつこくこの場所に足を運んで、諦める気なんか毛頭なかったくせに。
なんでそんなとこだけ潔いんだよ。そんなに親父が怖いのか。オレはお前の家の事情には介入できない。オレ達の間にある目に見えない壁を思い知らされるようで奥歯を噛み締める。
「黛さん」
赤司がぐっと顔を歪ませ、オレを見上げた。
「―――この世界は終わったんです」
目眩がするような既視感に、思わず苦々しく舌打ちした。
「ここ は俺の幸福を閉じ込めた世界として、今この瞬間に終わる。明日からここは立ち入り禁止にします。もう誰も、俺と黛さんがここで過ごした思い出は穢せない。この場所は『聖域』になるんです。俺の大切な思い出として、鍵をかけ、永遠に世界を閉じる」
異世界へと通じる扉を閉め、現実世界に還る。お前は還っていく。オレの残骸をここに閉じ込めたまま。
「だから勝手に過去形にすんな。まだなんも終わってねぇよ」
再び乱暴に腕を掴んで引き寄せると、赤司は嫌だ嫌だと首を振る。
弱々しく、脆い。あれほど気高く何者をも寄せ付けなかった天帝の姿はどこにもなかった。捕まえた身体は今にも崩れ落ちそうだ。ちいせぇ。ちがうこんなんじゃない。オレの一年間を支配した赤司征十郎はこんなんじゃなかった。今オレの目の前にいるのは、失うことに怯えるただの子ども。それがお前だ。寂しくて、孤独で愛しい。
愛しいんだよ。赤司。お前が。
「オレは、未だにお前がオレの何をお気に召したのか全然わかんねぇよ。いつ飽きられても、呆れられても仕方ねぇって思いながら、そのくせ引退したくせに身分も弁えず、ダラダラとお前のそばに居続けた。オレがいたかったからだ。捨てられる覚悟なら最初からできてる、それこそ出逢った時からな。でも」
零れそうな大きな瞳が、恐怖と諦観の混濁した色をもってオレを凝視した。
「でも、オレからお前の手を離すつもりは今も昔も一切ねぇんだよ。これからも」
「―――…!」
勢いに任せ、隙だらけの口唇に噛み付いた。触れ合った薄い皮膚から赤司の身体が大きく戦慄くのが伝わる。
見開かれた猫の目を至近距離で睨みつけ口唇を離し、もう一度顔を近付けると、ようやく赤司は思い出したようにオレの胸を押し返した。顔を背け、効率悪くもがく、力のない抵抗は牽制にもなっていない。
「ッ、ま」
赤司の明晰な頭脳はしっかり我が身に起きた事態を把握しているし、心のどこかで覚悟もあったかもしれない。だが、把握はしていても感情が追いつかず、照れる以前にパニクっている。赤司は声も出せず、その場しのぎのように腕で顔を隠した。
オレ自身、よくよく我を失っていると頭のどこかで自覚はあったが、自制しようという気はまったく起きなかった。
顔を隠すこいつに苛立ち、手首を掴み上げ、恫喝するように耳元で囁く。
「オイ。赤司」
必死になって身を縮こませる赤司を強引に抱き寄せる。はっきりと体温が伝わり身体が密着すると、完全に怖気づいた表情がこちらを見上げ、その瞬間オレはやっと、赤司を本当の意味で捕まえることができたと思った。
「お前がオレなんか簡単に拒絶できるのは知ってるよ。でもな」
「や」
「オレが好きなら抵抗するな」
「――――ッ、ん、ぅ」
何か言いかけた言葉ごと。
再び口唇で塞いで、赤司のすべてを飲み込んだ。
陽が落ちるのが遅くなったな、と実感する。少し前までこの時間帯なら、空は夕闇から夜の帳へとその様相を変え始めていた頃だ。まだ太陽はまっすぐ向けた目線の先に鎮座しており、遠く見渡す街並みにぼんやりと夕暮れの気配を漂わせている。
この景色も。ここから見る空も。冷たいフェンスも、コンクリも。季節によって様変わりする、校門から続く並木道も。
もう、見ることはないんだな。らしくもない、名残惜しむような感傷が湧いた。
「……不法侵入ですよ」
いつもの場所に赤司がいて、こちらを振り返りにやりと笑った。
なんだかもう当然のようにそこにいるこいつに、だからなんでいるんだよ、と今さらすぎるツッコミを入れたくなる。おかしいだろ常識的に考えて。そう思いながらここに来てる時点で、オレも充分おかしいんだけどな。
なんで卒業式のあとに、わざわざ屋上なんかにいるんだよ。オレもお前も。
「ロスタイムだろ。見逃せよ、生徒会長殿」
そっけなく言い返し、のんびりと赤司のそばまで歩いていく。
「数時間前まで在校生だったんだからな」
赤司はいたずらげに笑った。
本当に、オレたちはいつからこんな約束も交わさない逢瀬が当たり前になっていたんだろう。
この扉を開ければお前がいる。いないかもしれない。いなくてもいい。でもいたって別にかまわない。約束なんかしたことはない。ただ、この空間にオレとお前がいる光景が、いつしかお互い当たり前のものになっていた。
向かい合って、じっと見つめ合う。その目の奥に何かを探り、ほかの誰にもわからないだろう緊張感が二人の間に生まれる。
何かを終わらせなくてはいけなかった。ずっと逃げ続けてきた何かを。
本当に本当の最後だ。もう逃げ場はない。
式のあと、友達連中と集まって打ち上げ的なものをしてきた。つってもPC好きなやつの集団でどちらかと言えば寡黙な奴が多く、粛々とジュースでお疲れ様して、あとはいつも通り雑談して趣味の話ばっかしてたけど。
学生らしく大騒ぎできないのはまぁ多少の照れもあるんだろうが、やっぱり性格だよなとしみじみ思った。それよりもこうして気の合う少人数でまったりしていられる方が、どう考えても楽しいしラクだ。
今日は無礼講だとそのまま河原町あたりに繰り出す奴らもいたが、オレはもう引き揚げるわという体でそいつらに別れを告げ、その足で、さっき卒業したばかりの学校に出戻ってきたというわけだ。
午前中の華やかな喧騒が嘘のように学校全体が静まり返り、下駄箱から屋上に向かう間、誰にも会わなかったし人の気配すら感じなかった。
何やってんだろうな、と自分で自分に呆れる。卒業したのはほんの数時間前。ずっと言ってるように、後悔も未練もない。終わり方としては上々の方だろう。
なのに、オレの足は深く考えることもなく真っ直ぐに
この場所にだけ、何か忘れ物をしたような、すっきりしない何かがまだ残っている気がして。
扉を開けて屋上に立つ赤司を見た瞬間、オレはオレの3年間の一部から、まだ卒業できていないことがわかった。
「―――お疲れ」
ふと思いついて口にすると、赤司は目を丸くしてからくすりと笑った。
「俺のセリフじゃないですか、それは」
「いや、生徒会の仕事色々あんだろ。よく知らねぇけど」
うちの生徒会はお飾りではないので、行事の日はそれはもう大人顔負けの多忙さで立ち回る。オレが1、2年の時もそうだったが、こいつが長を勤めてからはその有能っぷりに拍車がかかっていた。
改めて、ほんとにこいつはよくもまぁ、こんな顔してとんでもない量の仕事を自ら抱えたがるもんだ。そういう意味で、こいつに対する一年間お疲れさまという言葉もまったく間違いではない。
「そうですね。色々ありましたが、無事終了したところですよ」
赤司は緩やかな笑みを浮かべたまま、オレを真っ直ぐに見上げた。
「黛さん。ご卒業おめでとうございます」
「おう」
「今まで、お疲れ様でした」
どっかで聞いたなそのセリフ。口角を微かに上げて改めて向き合う。赤司の手がオレの方に伸び、抱きついてくるのかとバカみたいに考えたとき、肩のあたりに一瞬の負荷を感じた。
次の瞬間、オレは座り込んだコンクリから赤司を見上げていた。
……転ばされた。なんだいきなり。今そういう雰囲気だったか?
ぽかんと見上げた先に灼熱と黄金の瞳が悠然とオレを見下ろしていて、あぁ、と思った。
なるほど。
「――――ご苦労だったね。黛千尋」
口の端が引き攣る。これほどいたわりが感じられない労いもそうそうない。
「この3年間の、洛山バスケ部に対する貢献。特に最後の1年間、お前は賞賛に値する働きを見せてくれた。文句も多く随分と手間もかかったが、結果的にお前は僕の期待に十二分に応えてくれた、申し分のない『影』に成長した。主将として、非常に満足しているよ」
「……そりゃどうも」
「我々の間にすでに従属関係はなく、お前の影としての責務は全うされたと考えるべきだ。従って今日という華々しい人生の門出に、僕はお前を解放することにした。―――卒業おめでとう。千尋」
自信に満ちた高慢な笑みが、してやったりとばかりにオレを見下ろす。
それはまるで用意されていた台本を読むように淀みなく並べ立てられた、赤司征十郎が送るもうひとつの「送辞」だった。
オレは尻餅ついたまま、ぼんやりと赤司を見上げた。
こんな風に、さも当然の顔で下賜と見せかけた断絶を言い渡されたら、それが受け容れるべき世界の真実なのだ、と。
まぁ、思うだろうな、普通。
普通はな。
でも。
「………っは」
オレは俯いて吹き出した。不愉快そうに眉をひそめる赤司の表情が、見なくても手に取るようにわかる。
お前の奮う独裁体制も支配体系も大したもんだ。こんな高一見たことねぇよ。そこいらの人間なら簡単に丸め込まれるに決まってる。あぁ、お前のことを何も知らない普通の人間ならな。
……でもこいつ、この期に及んでなんでそれがオレに通用すると思い込んでんだ?
バカだ。
こみ上げる笑いを抑えきれない。
バカだな、こいつ。天才のくせに。
大バカだ。
オレは爆笑したいのを噛み殺しながら顔を上げた。
「そういう茶番、もういらねぇから」
それは虚勢ではなかった。オレの優位を悟った赤司が敏感に警戒を示す。
あぁそうだ。これはこいつがオレから逃げるために、周到に用意してきた陳腐なお芝居に過ぎない。
膝に手を乗せ、苦笑に口を歪ませながら、はー、とため息をつきよいしょと立ち上がる。再び目線が上からになったオレを見て、赤司はキツく眉根を絞った。
「お前、頭がたか―――」
「なぁ赤司」
遮って手を伸ばすと、見開いた猫目が反射的に身を引いた。
「オレはな、今ならよくわかるんだよ。オレが旧型に負けた理由」
「……っ」
なぜ今それを、と赤司はオレを睨み上げた。全てが好転したように見える今でも、敗北の傷は鮮やかだ。知っているからこそ、あの日からずっと考え続けていたことを、今ここでオレは赤司に伝えなければならない。
「オレには影としての自覚が足りなかった。その通りだ。オレは、
伸ばした手を下ろし、赤司の目を見据える。
「最初から今までずっと、オレは―――
赤司の瞳が怯えるように見開かれた。
「その為になら自我も殺せた。だけどな、『お前の影になりたい』というそれが、すでに強烈な自我なんだ。欲望なんだよ。オレの欲はチームを勝たせる方向には働かなかった。だから旧型には勝てなかった。それだけだ」
黒子テツヤはきっと、はじめから影だったんだろう。
だが、オレは影に
それは紛れもない
オレの存在意義ははじめから違ったのだ。チームなんてどうでもよかった。赤司征十郎に選ばれた、赤司征十郎にとっての、唯一の影であれればよかったのだ。
「お前、引退式の日言ったよな。もうオレたちはただの先輩と後輩ですって。自分で言っといてなんでわかんねぇの? オレは今さらお前に何かを強制された覚えもねぇし、従わされた覚えも一切ねぇよ。そんな義務も、オレが我慢する必要も、もうどこにもないんだからな」
赤司の表情は変わらない。だがその内心には確かな衝動が生まれていて、おっかない無表情の下でそれを押し隠そうとしているのがオレにはわかる。
「……捕まえたと、思ってたんだろ。オレも思ってたよ。捕まっちまったってな」
こいつは、引退式後のオレが、「嫌々ながら自分と交流し続けていた」と思っている。ただオレが善意でこいつの手を握ってやっていたのだと。
「でも、お前がオレを捕まえられる距離に居るなら、オレもお前を捕まえられるんだぜ」
嗤いが漏れた。んなわけあるか。お前の中でオレはどんな紳士キャラなんだ。そうやってひと舐めてるから痛い目に遭うんだよ。こんな風に。
一歩踏み出す。視線を逸らせない赤司の目に、はっきりとした焦燥が現れた。この屋上という名の閉じられた空間で、逃げ場はないと知りつつも、赤司の身体はオレから逃げ出そうとしている。今さら逃がすわけがない。
屈辱を滲ませて見上げてきた赤司の手首を、躊躇なく捕える。いくらでも逃げられるだろうに、それをしない時点でもうお前の負けだよ、赤司。
「……わかるか」
オレは口元に笑みすら浮かべ、赤司を見下ろした。
「解放するも何もない。オレは最初から最後まで自分の意志でしか動いてない。洛山の幻の六人目になった時も、うちに転がり込んできたお坊ちゃんと過ごしたままごとみたいな時間もな。オレがなりたくてなったんだよ、お前の影に。
「―――ッ、ま…っ」
引き寄せようとした手を咄嗟に拒み、赤司は背を丸めてオレから距離を取ろうとした。
「待ってください」
「もう遅ぇよ」
「だめです、それは、ちがう、それは、あなたの理屈だ」
赤司は渾身の馬鹿力で掴まれた手首をギギギと引きながら、必死で、必死で劣勢を立て直そうとしている。
「俺は、今日――今日までだと決めてきたんです。貴方を独り占めできるのは、貴方が
「だろうな。それがあれか、オトウサマに差し出した条件か。
ずっと気付いていないフリをして沸々と煮えたぎっていた苛立ちの根源が、ついに留め金を外されて爆発した。「解放してやる」なんて下手くそな建前でオレから逃げようとしたお前に、オレの怒りを思い知らせてやりたかった。驚きに息を詰まらせる赤司の胸ぐらを掴み、背中をフェンスに押し付ける。
「当事者無視して勝手なことしてんじゃねぇよ。悲劇のヒロインぶるな。お前の都合なんか知ったことか」
「うるさい、貴方にはわからない…ッ!」
赤司が追い詰められたように叫ぶ。
「俺には責任があるんです、赤司の名を背負う者としての責任が。己の利得を優先して大義を投げ出すなんて真似できるわけがない」
「誰が投げ出せつった。お前そんなしょぼいヤツだったかよ。欲しいんなら、必要なら両方手にして諦める必要ねぇだろ」
赤司が絶望とも希望とも取れる表情でオレを見上げた。
そうだろうが。お前は、赤司征十郎はそうだった。ずっとそういう奴だっただろ。だからお前はオレを手に入れた。俺が部に戻ると頷くまでしつこくこの場所に足を運んで、諦める気なんか毛頭なかったくせに。
なんでそんなとこだけ潔いんだよ。そんなに親父が怖いのか。オレはお前の家の事情には介入できない。オレ達の間にある目に見えない壁を思い知らされるようで奥歯を噛み締める。
「黛さん」
赤司がぐっと顔を歪ませ、オレを見上げた。
「―――この世界は終わったんです」
目眩がするような既視感に、思わず苦々しく舌打ちした。
「
異世界へと通じる扉を閉め、現実世界に還る。お前は還っていく。オレの残骸をここに閉じ込めたまま。
「だから勝手に過去形にすんな。まだなんも終わってねぇよ」
再び乱暴に腕を掴んで引き寄せると、赤司は嫌だ嫌だと首を振る。
弱々しく、脆い。あれほど気高く何者をも寄せ付けなかった天帝の姿はどこにもなかった。捕まえた身体は今にも崩れ落ちそうだ。ちいせぇ。ちがうこんなんじゃない。オレの一年間を支配した赤司征十郎はこんなんじゃなかった。今オレの目の前にいるのは、失うことに怯えるただの子ども。それがお前だ。寂しくて、孤独で愛しい。
愛しいんだよ。赤司。お前が。
「オレは、未だにお前がオレの何をお気に召したのか全然わかんねぇよ。いつ飽きられても、呆れられても仕方ねぇって思いながら、そのくせ引退したくせに身分も弁えず、ダラダラとお前のそばに居続けた。オレがいたかったからだ。捨てられる覚悟なら最初からできてる、それこそ出逢った時からな。でも」
零れそうな大きな瞳が、恐怖と諦観の混濁した色をもってオレを凝視した。
「でも、オレからお前の手を離すつもりは今も昔も一切ねぇんだよ。これからも」
「―――…!」
勢いに任せ、隙だらけの口唇に噛み付いた。触れ合った薄い皮膚から赤司の身体が大きく戦慄くのが伝わる。
見開かれた猫の目を至近距離で睨みつけ口唇を離し、もう一度顔を近付けると、ようやく赤司は思い出したようにオレの胸を押し返した。顔を背け、効率悪くもがく、力のない抵抗は牽制にもなっていない。
「ッ、ま」
赤司の明晰な頭脳はしっかり我が身に起きた事態を把握しているし、心のどこかで覚悟もあったかもしれない。だが、把握はしていても感情が追いつかず、照れる以前にパニクっている。赤司は声も出せず、その場しのぎのように腕で顔を隠した。
オレ自身、よくよく我を失っていると頭のどこかで自覚はあったが、自制しようという気はまったく起きなかった。
顔を隠すこいつに苛立ち、手首を掴み上げ、恫喝するように耳元で囁く。
「オイ。赤司」
必死になって身を縮こませる赤司を強引に抱き寄せる。はっきりと体温が伝わり身体が密着すると、完全に怖気づいた表情がこちらを見上げ、その瞬間オレはやっと、赤司を本当の意味で捕まえることができたと思った。
「お前がオレなんか簡単に拒絶できるのは知ってるよ。でもな」
「や」
「オレが好きなら抵抗するな」
「――――ッ、ん、ぅ」
何か言いかけた言葉ごと。
再び口唇で塞いで、赤司のすべてを飲み込んだ。