卒業
美しく静謐な光景が目の前に広がっていた。
真っ青な空にちぎれた薄い雲が浮かぶ。見慣れた屋上のフェンス。胸のあたりまである柵を越えたその向こう、一メートルほど宙に突き出した吹きさらしのコンクリートの上に、ぽつんとひとり、赤司が立っていた。
青と、白と、赤。映画の一場面のように完璧なそのコントラスト。
赤司はオレを振り返り、穏やかに微笑んだ。
「千尋」
赤い髪が風に揺れる。オレは眉をひそめた。そこは危ない。いくらお前でも、落ちたら死ぬ。
赤司は笑い、首を振った。
「もういいんだ」
言い聞かせるように。
「この世界は終わったから」
空の支配者のように悠然と、赤司は両手を広げた。
雲が流れる。空に落ちるような錯覚。オレは既視感を覚える。あぁそうだ、これは『あの日』の屋上。オレがこいつと出逢った、世界のはじまりの日。使い古されたバスケットボールが跳ね、弧を描いて落ちていく。
赤司はもう一度、戯れのようにオレの名を呼んだ。オレはハッとしてフェンスに駆け寄った。全てから解放されたかのような赤司の笑みにオレは手を伸ばす。すり抜けていく。スローモーションで空に傾いでいく赤司の身体。ゆるやかに停止していく時の狭間。屋上から落ちれば、そこには次の世界が待っているのだろうか?
赤司の無邪気で柔らかい笑みが遠ざかっていく。こんな時になんだけど実はオレな、お前のその顔が一番気に入ってたんだよ。赤司。叫ぼうとしても声が出ない。なぁ赤司
あかし、
まて
あか
指先がチリと触れ合い、
そして離れた。
「さようなら、黛さん」
*
「――――ッッ!!」
ベッドの中で目を開く。
横向いて丸めていた身体がガチガチに緊張している。心臓がドクドクと大きく脈打ち、指先が凍ったように冷たい。
夢かよ。
夢だとわかった途端、身体から急速に力が抜けた。長い息を吐き出し、オレは自分自身に呆れたような気持ちになった。
……なんつー夢を。なんつー日に。
ベッドの下のスマホを掴んで時間を確認すると、目覚ましの鳴る時刻まであと30分もない。二度寝もできそうになく、横になったまま夢の断片を拾い集めようとしたが、細部はすでに曖昧になりつつあった。人間の記憶力なんていい加減なもんだ。
しかしまぁ…厨二全開も極まれり。冷静に思い返せば使い古されて出がらしになったラノベ展開にしか思えないのに、主演が赤司というだけでこのしっくり度合いには舌を巻く。そこはかとなく現実にあったようなリアルさだ。
屋上の空。赤司が落ちてゆく。オレはその手を掴めない。印象的なシーンのコマ送り。落ちていく赤司、あの時赤司はなんて言ったんだっけ……、
「……毒されすぎだろ」
呟き顔をこする。はー、とまたため息が出る。
こんな日に見る夢があいつの夢だなんて、もう言い訳できないレベルで末期だ。
他になんかないのか。色々あっただろ。多くはねぇけど気の合う友達はいたし楽しい思い出だってそれなりにあっただろ。あとほらあれだ、女子との交流とか青春とかリア充っぽいこととか、そういうのなんかねぇのかよ。自分で自分に突っ込んでみるがないものはないし、あったとしても完全に記憶の隅に追いやられているらしい。
確かにオレの高校生活の思い出は、最後の1年間怒涛のように襲いかかってきた峻烈な赤で占められてしまっていた。
人生のそれなりに大きな節目であるはずの今日という日でさえ、オレは赤司のことで頭がいっぱいなのだ。
あぁ、くそ。
カーテンから漏れる光に目を細める。
晴れた。特別強い思い入れがあるわけでもないが、鬱陶しい空よりは晴天の方が、やはり気分がいい。
壁にかけられた洛山の制服に目をやる。
今日は高校生活最後の日。卒業式だ。
***
昨日の夜から久しぶりに実家に帰ってきていた。
3年間基本は寮で、バスケ部引退後はさっさと一人暮らしを始めたものだから、親にしたら育て甲斐のない息子だと文句の一つも出るらしい。最後の日くらい玄関を出ていく姿を見送らせろと怒って見せた母親の感慨はよくわからないが、まぁそんなもんかと思った。玄関先で行ってきますと言ったオレに手を振り返した母親の表情を見て、それなりに思うところもあった。
淡白は淡白なりに、感慨というものがあるのだ。
オレは影が薄い自分が好きだ。他人に気を遣うのも遣われるのも面倒くさく、しゃべるのが苦手というよりはそういう上っ面のコミュニケーションがことごとく嫌いなたちだ。目立てば目立つほどそういったしがらみからは逃れにくくなるもので、余計な干渉も期待もされずにいられる天性の存在感を持って生まれて運がよかったと常々思っている。
余談だがそういう性分の人間はオレ以外にも実はそこそこ潜んでいて、同じ属性同士無意識に引き寄せられるらしい。だから誤解されがちだが、オレは友達は普通にいる。少なくともどこかのお坊ちゃんよりはいる。何度も言うが、普通に友達はいる。
ただ、群れることで安心感を得る同年代の連中に比べ、格段にひとりの時間を必要とする性格なだけで、オレがあの屋上を住処としていたのもそういうわけだ。
教室と、屋上と、体育館。その行き来を淡々と繰り返した3年間だった。
まさか最後の1年間に、存在の薄さそのものを取り沙汰され表舞台に引っ張り出されることになろうとは、夢にも妄想にも思っていなかったが。
オレは秘かに笑った。
バスケ部に出戻りし、隠し玉としてひたすらしごかれ、筋肉体力付けさせられ、その合間にわずかな癒しを求めて屋上に上がり、受験に備え勉強も手を抜けず、死にかけてはまた現実に引き戻され目の前のノルマをこなし続ける。つらいとかしんどいとか考える暇すらもない、嵐のような日々だった。
利己的、平和主義のオレがそんな渦中に身を置いて耐え抜けたのは、やっぱり赤司の存在があったからだと、今となっては思う。あいつがいないバスケ部だったなら、あんなにまで死力を削る理由がなかった。いい意味でも、悪い意味でも。
高校生活最後の一年は、オレの中ではすでに人生におけるレアイベントだったということになっている。
退部届け。屋上。赤司征十郎。地獄の日々。レギュラー入り。ユニフォーム。
5番。
初試合。初ゴール。公式戦。初勝利。ライト、歓声。
降って沸いた幸運というだけではなかった。そうなるための努力は血を吐くほどしたし、だから掴めた栄誉だったとの自負はあるが、それでもオレには未だに現実離れした思い出ばかりだ。あらゆる意味で、もう二度とあんな経験はできないだろう。
ひっそりと、静かに、平穏に。
流されるままに。受け入れるままに。
プライドに、火をつけられるままに。
オレなりに、オレらしく、過ごした3年間。
悪くなかったな。
やっぱり、そう思う。
思春期に後悔がないというのは、けっこうすごいことなんじゃないだろうか。まぁオレ基本的に激しい後悔とかあんましないけど。人生一度きりの高校生活、否応なしに全力で打ち込めるものがあって、今となっては幸運だったんだろう。
なぁ、悪くなかったぞ。
体育館の壇上で、厳粛に送辞を言祝ぐ赤司を見つめながら、オレは心の中で語りかけた。
その風格漂う立ち姿は、贔屓目なしに見てもやっぱり特別に綺麗だった。容姿の話だけではなく、存在自体が高潔であると思えた。今ここにいる在校生、卒業生、教師、来賓者、多くの人間がそう思っている。周囲は咳の音ひとつなく水を打ったように静まり返り、赤司の落ち着いた声だけが、だだっ広い体育館に凛と響き渡る。
赤司
なぁ、赤司
届くわけもないが、送辞自体はろくに聞く気もないオレは、暇にあかせて赤司に呼びかけ続ける。
オレは、オレ自身の高校生活に、後悔はねぇよ
でも、お前は?
お前はどうなんだ
オレは
後悔はねぇけど
心残りはある
このままお前をあの屋上にひとり残していくことに
自分でも笑っちまうほど、心残りがあるんだよ
――――赤司
ゆっくりと赤司が顔を上げ、まっすぐにオレの方を見た。遠すぎて目線なんか合うわけもないが、確実にあいつは今、オレを見つけていた。この大勢の卒業生の中からオレを労苦なく見つけられる人間なんて、母親かこいつくらいのもんだろう。
オレは赤司を見つめる。赤司も眩しいものを見るように目を眇め、オレから視線を外さなかった。
真っ青な空にちぎれた薄い雲が浮かぶ。見慣れた屋上のフェンス。胸のあたりまである柵を越えたその向こう、一メートルほど宙に突き出した吹きさらしのコンクリートの上に、ぽつんとひとり、赤司が立っていた。
青と、白と、赤。映画の一場面のように完璧なそのコントラスト。
赤司はオレを振り返り、穏やかに微笑んだ。
「千尋」
赤い髪が風に揺れる。オレは眉をひそめた。そこは危ない。いくらお前でも、落ちたら死ぬ。
赤司は笑い、首を振った。
「もういいんだ」
言い聞かせるように。
「この世界は終わったから」
空の支配者のように悠然と、赤司は両手を広げた。
雲が流れる。空に落ちるような錯覚。オレは既視感を覚える。あぁそうだ、これは『あの日』の屋上。オレがこいつと出逢った、世界のはじまりの日。使い古されたバスケットボールが跳ね、弧を描いて落ちていく。
赤司はもう一度、戯れのようにオレの名を呼んだ。オレはハッとしてフェンスに駆け寄った。全てから解放されたかのような赤司の笑みにオレは手を伸ばす。すり抜けていく。スローモーションで空に傾いでいく赤司の身体。ゆるやかに停止していく時の狭間。屋上から落ちれば、そこには次の世界が待っているのだろうか?
赤司の無邪気で柔らかい笑みが遠ざかっていく。こんな時になんだけど実はオレな、お前のその顔が一番気に入ってたんだよ。赤司。叫ぼうとしても声が出ない。なぁ赤司
あかし、
まて
あか
指先がチリと触れ合い、
そして離れた。
「さようなら、黛さん」
*
「――――ッッ!!」
ベッドの中で目を開く。
横向いて丸めていた身体がガチガチに緊張している。心臓がドクドクと大きく脈打ち、指先が凍ったように冷たい。
夢かよ。
夢だとわかった途端、身体から急速に力が抜けた。長い息を吐き出し、オレは自分自身に呆れたような気持ちになった。
……なんつー夢を。なんつー日に。
ベッドの下のスマホを掴んで時間を確認すると、目覚ましの鳴る時刻まであと30分もない。二度寝もできそうになく、横になったまま夢の断片を拾い集めようとしたが、細部はすでに曖昧になりつつあった。人間の記憶力なんていい加減なもんだ。
しかしまぁ…厨二全開も極まれり。冷静に思い返せば使い古されて出がらしになったラノベ展開にしか思えないのに、主演が赤司というだけでこのしっくり度合いには舌を巻く。そこはかとなく現実にあったようなリアルさだ。
屋上の空。赤司が落ちてゆく。オレはその手を掴めない。印象的なシーンのコマ送り。落ちていく赤司、あの時赤司はなんて言ったんだっけ……、
「……毒されすぎだろ」
呟き顔をこする。はー、とまたため息が出る。
こんな日に見る夢があいつの夢だなんて、もう言い訳できないレベルで末期だ。
他になんかないのか。色々あっただろ。多くはねぇけど気の合う友達はいたし楽しい思い出だってそれなりにあっただろ。あとほらあれだ、女子との交流とか青春とかリア充っぽいこととか、そういうのなんかねぇのかよ。自分で自分に突っ込んでみるがないものはないし、あったとしても完全に記憶の隅に追いやられているらしい。
確かにオレの高校生活の思い出は、最後の1年間怒涛のように襲いかかってきた峻烈な赤で占められてしまっていた。
人生のそれなりに大きな節目であるはずの今日という日でさえ、オレは赤司のことで頭がいっぱいなのだ。
あぁ、くそ。
カーテンから漏れる光に目を細める。
晴れた。特別強い思い入れがあるわけでもないが、鬱陶しい空よりは晴天の方が、やはり気分がいい。
壁にかけられた洛山の制服に目をやる。
今日は高校生活最後の日。卒業式だ。
***
昨日の夜から久しぶりに実家に帰ってきていた。
3年間基本は寮で、バスケ部引退後はさっさと一人暮らしを始めたものだから、親にしたら育て甲斐のない息子だと文句の一つも出るらしい。最後の日くらい玄関を出ていく姿を見送らせろと怒って見せた母親の感慨はよくわからないが、まぁそんなもんかと思った。玄関先で行ってきますと言ったオレに手を振り返した母親の表情を見て、それなりに思うところもあった。
淡白は淡白なりに、感慨というものがあるのだ。
オレは影が薄い自分が好きだ。他人に気を遣うのも遣われるのも面倒くさく、しゃべるのが苦手というよりはそういう上っ面のコミュニケーションがことごとく嫌いなたちだ。目立てば目立つほどそういったしがらみからは逃れにくくなるもので、余計な干渉も期待もされずにいられる天性の存在感を持って生まれて運がよかったと常々思っている。
余談だがそういう性分の人間はオレ以外にも実はそこそこ潜んでいて、同じ属性同士無意識に引き寄せられるらしい。だから誤解されがちだが、オレは友達は普通にいる。少なくともどこかのお坊ちゃんよりはいる。何度も言うが、普通に友達はいる。
ただ、群れることで安心感を得る同年代の連中に比べ、格段にひとりの時間を必要とする性格なだけで、オレがあの屋上を住処としていたのもそういうわけだ。
教室と、屋上と、体育館。その行き来を淡々と繰り返した3年間だった。
まさか最後の1年間に、存在の薄さそのものを取り沙汰され表舞台に引っ張り出されることになろうとは、夢にも妄想にも思っていなかったが。
オレは秘かに笑った。
バスケ部に出戻りし、隠し玉としてひたすらしごかれ、筋肉体力付けさせられ、その合間にわずかな癒しを求めて屋上に上がり、受験に備え勉強も手を抜けず、死にかけてはまた現実に引き戻され目の前のノルマをこなし続ける。つらいとかしんどいとか考える暇すらもない、嵐のような日々だった。
利己的、平和主義のオレがそんな渦中に身を置いて耐え抜けたのは、やっぱり赤司の存在があったからだと、今となっては思う。あいつがいないバスケ部だったなら、あんなにまで死力を削る理由がなかった。いい意味でも、悪い意味でも。
高校生活最後の一年は、オレの中ではすでに人生におけるレアイベントだったということになっている。
退部届け。屋上。赤司征十郎。地獄の日々。レギュラー入り。ユニフォーム。
5番。
初試合。初ゴール。公式戦。初勝利。ライト、歓声。
降って沸いた幸運というだけではなかった。そうなるための努力は血を吐くほどしたし、だから掴めた栄誉だったとの自負はあるが、それでもオレには未だに現実離れした思い出ばかりだ。あらゆる意味で、もう二度とあんな経験はできないだろう。
ひっそりと、静かに、平穏に。
流されるままに。受け入れるままに。
プライドに、火をつけられるままに。
オレなりに、オレらしく、過ごした3年間。
悪くなかったな。
やっぱり、そう思う。
思春期に後悔がないというのは、けっこうすごいことなんじゃないだろうか。まぁオレ基本的に激しい後悔とかあんましないけど。人生一度きりの高校生活、否応なしに全力で打ち込めるものがあって、今となっては幸運だったんだろう。
なぁ、悪くなかったぞ。
体育館の壇上で、厳粛に送辞を言祝ぐ赤司を見つめながら、オレは心の中で語りかけた。
その風格漂う立ち姿は、贔屓目なしに見てもやっぱり特別に綺麗だった。容姿の話だけではなく、存在自体が高潔であると思えた。今ここにいる在校生、卒業生、教師、来賓者、多くの人間がそう思っている。周囲は咳の音ひとつなく水を打ったように静まり返り、赤司の落ち着いた声だけが、だだっ広い体育館に凛と響き渡る。
赤司
なぁ、赤司
届くわけもないが、送辞自体はろくに聞く気もないオレは、暇にあかせて赤司に呼びかけ続ける。
オレは、オレ自身の高校生活に、後悔はねぇよ
でも、お前は?
お前はどうなんだ
オレは
後悔はねぇけど
心残りはある
このままお前をあの屋上にひとり残していくことに
自分でも笑っちまうほど、心残りがあるんだよ
――――赤司
ゆっくりと赤司が顔を上げ、まっすぐにオレの方を見た。遠すぎて目線なんか合うわけもないが、確実にあいつは今、オレを見つけていた。この大勢の卒業生の中からオレを労苦なく見つけられる人間なんて、母親かこいつくらいのもんだろう。
オレは赤司を見つめる。赤司も眩しいものを見るように目を眇め、オレから視線を外さなかった。
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