約束
約束なんて、したことがあっただろうか。
ないな。黛も赤司も、改めて思い返し、ひとり頷く。
父に否定され、胸に鈍い痛みを覚え、闇雲に伸ばした手の先にいたのは黛千尋ただひとりだった。
それまでの自分なら、自身の精神状態と置かれた状況を冷静に客観視し、ひとりの力で粛々と目の前の壁を乗り越えただろう。
誰かに頼ろうなどと。ましてや助けてほしいなどと。
あの男になら、それも許されるだろうと。
自然とそんな風に考えた自分を、赤司は驚愕する思いで思い返していた。
卒業までそっとしておけ、という言葉に反論などなかったし、それもそうだろうと納得していたのに、あの時平気で彼の部屋のインターホンを鳴らした自分はどんな厚顔無恥だったのか。
思えば、引退式のあれが唯一の約束とも言えるやり取りだ。なのに自分はあっさりとそれを破ったことになる。一応自分の中で言い訳はあって、あくまで「人前では」そっとしておいたつもりなのだが、裏を返せば人目のない場所では好き放題していたということだ。どちらにしろ、自分本位なわがままには変わりない。
わかっているのに、彼の顔を見るたびにその反省がいつもゆるむ。呆れた顔してため息ついて、それでも玄関の鍵を開けてくれるのは彼だ。いやならいやって言えばいい。拒まれれば深追いなんてしやしないのに、拒まないから何もかも彼が悪いのだ。
赤司は眉を下げて小さく笑った。そんな理不尽なわがままを押し通せる気ままな自分を、愛おしくすら思う。
あと少し。
卒業まで、我慢して。
貴方を解放すると、約束するから。
それまでは、近くにいることを許して。
どうかあと少しだけ、そっとしておいてください。
あきらめて、期待も捨てて、ただひたすら自己満足でこんな身勝手を貫いてきたのに、今ではその日が来ることを息もできないほどに畏れている。
そんな日、来なければいい。卒業式なんて爆破してしまおう。卒業なんてしなくていいのに。黛さん、屋上に住んで。たくさんの時間を自分たちに割いてくれてありがとう。
もう少しでこの手を離すよ、千尋。
彼が洛山を卒業する日に、自分は彼を卒業するのだ。
そんな風に考えると少しだけ心の整理がつく気もして、赤司はまだ寒々しい枝が広がるばかりの桜の木を見上げ、冷たい息をふわりと吐き出す。
*
一度赤司に文句を言ったことがある。「卒業までそっとしとけっつったのに」。
すると赤司はにっこり笑ってこう言った。「では今からその通りにしましょうか?」。台所でお玉を握り、夕飯のシチューをかき混ぜながら。
その時黛の頭に浮かんだ言葉は、「手遅れ」の一言だった。何が、とかどこが、とか理屈じゃなく、ただスコーンとゲートボールの玉が頭に当たるように単純に理解した。手遅れだ。
何もかもあいつのせいだと決めつけて、現実から目を背けたかった。「手遅れ」になる前にストップをかけることができたのは、赤司ではなく自分だ。自分が本当に拒絶すれば、赤司は決して逆らわず引き下がることを知っていた。
屋上で勧誘されたあの時とは違う。上下関係もプライドも、利害も、今や何も強制される関係性ではない。嫌なら嫌で二度と来るなと追い出して部屋の鍵を開けなければ、赤司との付き合いはそこで終わっていたはずだ。
懐かれたのは、偶然。
だけどそれを利用したのは自分の意思。
あの小さな帝王への興味を捨てられなかった。
自分なんかに執着して、彼に利があるとは到底思えず、実際すでに不利益を生じていた。外泊という素行不良を繰り返すことで、大人たちへの信用を落とし、学校生活にまでその干渉が及ぼうとしている。それ以前に多忙な時間をがっつり割いてこの部屋を訪れている時点で、自分は赤司の私生活を圧迫しているのだ。
突き放すべきだったんだろうなと、今でも思うけれど。
それができればあいつの影などに収まってはいないし。
何よりも。
……最初から「終わること」を前提としている赤司に腹が立って。ガキのくせに妙に老成した表情が癇に障って。
あの手を、掴んだ。バスケットボールを操る神の手。だけどそれ以外では、小さく、繊細で、どこか頼りなくすら見える、ただの後輩の寂しい手を。
二月も終わる。薄曇りの空に揺れる、まだ芽吹きもしない寂しげな桜の枝を見上げ、黛は目を眇めた。
あいつの諦観が、静かに微笑んで訴える。
約束するから、と。
あと少しだから、と。
うるせぇよ。そんな約束知ったことか。オレとお前がそんなもので縛られる関係だった覚えは一度もない。
約束なんか必要ねぇよ。ただ自分の意思で、オレは。
お前の手を離さないだけだ。
ないな。黛も赤司も、改めて思い返し、ひとり頷く。
父に否定され、胸に鈍い痛みを覚え、闇雲に伸ばした手の先にいたのは黛千尋ただひとりだった。
それまでの自分なら、自身の精神状態と置かれた状況を冷静に客観視し、ひとりの力で粛々と目の前の壁を乗り越えただろう。
誰かに頼ろうなどと。ましてや助けてほしいなどと。
あの男になら、それも許されるだろうと。
自然とそんな風に考えた自分を、赤司は驚愕する思いで思い返していた。
卒業までそっとしておけ、という言葉に反論などなかったし、それもそうだろうと納得していたのに、あの時平気で彼の部屋のインターホンを鳴らした自分はどんな厚顔無恥だったのか。
思えば、引退式のあれが唯一の約束とも言えるやり取りだ。なのに自分はあっさりとそれを破ったことになる。一応自分の中で言い訳はあって、あくまで「人前では」そっとしておいたつもりなのだが、裏を返せば人目のない場所では好き放題していたということだ。どちらにしろ、自分本位なわがままには変わりない。
わかっているのに、彼の顔を見るたびにその反省がいつもゆるむ。呆れた顔してため息ついて、それでも玄関の鍵を開けてくれるのは彼だ。いやならいやって言えばいい。拒まれれば深追いなんてしやしないのに、拒まないから何もかも彼が悪いのだ。
赤司は眉を下げて小さく笑った。そんな理不尽なわがままを押し通せる気ままな自分を、愛おしくすら思う。
あと少し。
卒業まで、我慢して。
貴方を解放すると、約束するから。
それまでは、近くにいることを許して。
どうかあと少しだけ、そっとしておいてください。
あきらめて、期待も捨てて、ただひたすら自己満足でこんな身勝手を貫いてきたのに、今ではその日が来ることを息もできないほどに畏れている。
そんな日、来なければいい。卒業式なんて爆破してしまおう。卒業なんてしなくていいのに。黛さん、屋上に住んで。たくさんの時間を自分たちに割いてくれてありがとう。
もう少しでこの手を離すよ、千尋。
彼が洛山を卒業する日に、自分は彼を卒業するのだ。
そんな風に考えると少しだけ心の整理がつく気もして、赤司はまだ寒々しい枝が広がるばかりの桜の木を見上げ、冷たい息をふわりと吐き出す。
*
一度赤司に文句を言ったことがある。「卒業までそっとしとけっつったのに」。
すると赤司はにっこり笑ってこう言った。「では今からその通りにしましょうか?」。台所でお玉を握り、夕飯のシチューをかき混ぜながら。
その時黛の頭に浮かんだ言葉は、「手遅れ」の一言だった。何が、とかどこが、とか理屈じゃなく、ただスコーンとゲートボールの玉が頭に当たるように単純に理解した。手遅れだ。
何もかもあいつのせいだと決めつけて、現実から目を背けたかった。「手遅れ」になる前にストップをかけることができたのは、赤司ではなく自分だ。自分が本当に拒絶すれば、赤司は決して逆らわず引き下がることを知っていた。
屋上で勧誘されたあの時とは違う。上下関係もプライドも、利害も、今や何も強制される関係性ではない。嫌なら嫌で二度と来るなと追い出して部屋の鍵を開けなければ、赤司との付き合いはそこで終わっていたはずだ。
懐かれたのは、偶然。
だけどそれを利用したのは自分の意思。
あの小さな帝王への興味を捨てられなかった。
自分なんかに執着して、彼に利があるとは到底思えず、実際すでに不利益を生じていた。外泊という素行不良を繰り返すことで、大人たちへの信用を落とし、学校生活にまでその干渉が及ぼうとしている。それ以前に多忙な時間をがっつり割いてこの部屋を訪れている時点で、自分は赤司の私生活を圧迫しているのだ。
突き放すべきだったんだろうなと、今でも思うけれど。
それができればあいつの影などに収まってはいないし。
何よりも。
……最初から「終わること」を前提としている赤司に腹が立って。ガキのくせに妙に老成した表情が癇に障って。
あの手を、掴んだ。バスケットボールを操る神の手。だけどそれ以外では、小さく、繊細で、どこか頼りなくすら見える、ただの後輩の寂しい手を。
二月も終わる。薄曇りの空に揺れる、まだ芽吹きもしない寂しげな桜の枝を見上げ、黛は目を眇めた。
あいつの諦観が、静かに微笑んで訴える。
約束するから、と。
あと少しだから、と。
うるせぇよ。そんな約束知ったことか。オレとお前がそんなもので縛られる関係だった覚えは一度もない。
約束なんか必要ねぇよ。ただ自分の意思で、オレは。
お前の手を離さないだけだ。
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