赤い糸40,075km
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「うおおおおおおお?!!?!」
「うわっ、なに、うるさい」
休日。正真正銘、休日。
入院していた職員が復帰し、俺の負担はかなり減った。といってもまだバリバリ働かせる訳にもいかないし、この1ヶ月半の引き継ぎも色々あるから、ハイ広報部のお手伝いはお〜しまいっ♪とはならないんだけど、まぁそれでも、かなり楽になった。とりあえず週明けからは俺が広報部の新しい案件に関わることはない。まだ残業とかは続くだろうけど、今週はなんと、ひっっさびさの連休。土日休み。キターー!ってな訳でと出掛けようかと思ったけど、彼女が「まだ疲れが溜まってるだろうからゆっくりしよう」と言うので、今日もまたうちへ来てもらうことになった。ここ最近はずっと透香に来てもらうばっかりだったから、今日は駅まで迎えに行くと言って、遠慮は押し切って改札前で待つ。
そして、改札を抜けて現れた彼女は────
「かっ…!!かわっ…!えっ、かっっわ、えっ、か、かわ…」
「……?皮?…川?あ、革かな?」
結構伸びていた髪をバッサリ切り、ショートヘアになっていた。
えええ…可愛い。可愛い。やっぱ似合う。可愛い。マジで可愛い。ありがとう。
この前までの、透香にしてはちょっと長めの髪も可愛かったけど、やっぱこれだなって感じがするし、その丸いシルエットはもう、もう…、高校生の時のまんまじゃん。まるで、俺が青い春を捧げたあの子が目の前に居るみたいで、制御できないくらいにテンションが上がる。いや本人なんだけどさ。本人だからこそさ。うわ〜〜、かわい…うわ〜〜〜。
メロメロな俺をガン無視して「川釣りとか好きそうだよね」なんて言いながら歩き出す透香に遅れないように付いていく。うわぁ。後ろから見ても可愛い。すげぇ。…っと、鼻の下を伸ばしてばっかじゃ居られない。俺だって君の隣に相応しいデキる彼氏ってとこアピールさせてもらいますよ。
「何食いたいか決まった?」
「えっとねー、そろそろ秋だなぁと思ってね…」
言いながら、透香はスマホを操作してレシピの記事を見せてきた。内容は…おお。鮭ときのこのホイル焼きか。美味そうすぎじゃん。それなら似たようなの作ったことあるし、余裕だわ。「あとこれとかこれとか…」と次から次へ見せてくるものはどれも秋の献立のメインになるようなものばっかりだ。栗ご飯に、さつまいもの味噌汁、かぼちゃの煮物…。どれも結構腹に溜まるしなぁ…。まぁ透香ならペロッと食うんだろうけども。バランスというものがあってだな。本人としても一食で全部!ってつもりでは無かったらしいので、スーパーで値段とか見ながら考えるか。そう提案すると、久しぶりにキラキラと尊敬の眼差しを向けられ、簡単に気分がよくなる。…やっぱ全部作っちゃおっかな。
─────
結局、全ての材料を買い揃えてしまった。
本当は昼飯は適当に弁当でも買って、作るのは夕飯だけ…と思っていたけど、せっかく栗ご飯作んならできるだけ透香に食わしたいし、というかもう、キラキラに勝てなかった。勝つ気なかったわ。ちょこっと追加の一品用の惣菜だけ買って、あとはもう昼夜で分けて全部作ることにした。最近はずっと俺の都合で振り回してしまっていたし、これはそのささやかなお礼だ。
「さぁて?透香ちゃんは栗ご飯でも作ってみっか?」
「わー!作ってみます!」
俺の部屋に帰ってきたら、すぐに昼飯の準備を始める。栗は運良く冷凍のむき栗が売ってたから、包丁を使うこともないし、この人でも何ら問題なく作れるだろ。スマホのレシピページをちらちら眺めつつ、「まずは解凍だ!」という透香を適当に褒めて、俺も手を動かす。鮭は夜のメインディッシュにして、昼はもう栗ご飯がメイン。さつまいもの味噌汁もあるし、ボリュームは充分だろ。ホクホク&ホクホクの箸休めにと思って買ってきた棒棒鶏には、きゅうりを更に追加する。もう明後日には10月っつっても、まだまだ余裕で夏日なもんでね。さっぱりすんのもいいっしょ。ただきゅうりを千切りしてるだけなのにすごいすごいと賞賛されるのは、嬉しさ半分、恥ずかしさ半分だ。丁寧に米を研いだ透香を横目で盗み見ると、その後頭部の丸みと首の細さにグッときてしまう。…やっぱ嬉しさ全部だわ。
透香はソワソワ、俺はゴロゴロしながら炊き上がりを待って、味噌汁を温め直し、全てが食卓に揃った。待っている間、炊飯器の前で謎の栗ご飯の歌を歌う姿をソファから微笑まし〜く眺めていたのに、それがバレたらやめられてしまった。んでだよ。照れ屋さんめ。
「自分で作った栗ご飯はどう?」
「ほいひい!」
「そりゃ良かった」
いつもはあんまり任せられる作業がないから俺の作ったもんを食わせるだけになっちゃってたし、まぁ俺はそれでも全然いいんだけど、やっぱこの人は出来ることが増えた方が嬉しいんだろうな。いつもより花が舞ってるわ。ホクホクとシャキシャキ、あと中華クラゲのこりこりで、食感だけでもかなり大満足な献立になった。大盛りの栗ご飯を平らげた透香に合わせて、一緒に手を合わせる。はぁ幸せ。…なんだかいつの間にか、俺も食事から得られる幸福度が上がった気がする。こうしてこの先も、この人からたくさん影響を受けていくんだろうな。
食器を片付けて少しゆっくりすると、透香はカバンから何かを取り出した。歩いてる時もなんかガサガサ音がするなとは思ってたけど、彼女が取り出したそれは、どうやらジグソーパズルのようだ。箱に描かれた絵柄は…ブサにゃんず。意気込んだ様子の透香に「おぉ〜、ジグソーパズルいいね」と同調する。まぁ俺の部屋に居てもテレビ観るくらいしかすることないから、気を利かせて持って来てくれたんだろう。……ってのは…分かってるけど。
「……うちで作って…、えっと、どうする?完成したやつ」
「…?…………!!」
ガビーン。
完成した後のことを考えてなかったっぽい彼女は、見るからに絶望した。きっと自分の考えの至らなさとかに失望してるんだろうな、真面目ちゃんだから。アレだったらこの部屋に飾ってくれてもいいし。あとで額縁買いに行くか?ってかどうやって飾るんだ?額縁に入れただけで固定されんのかな?と、落ち込ませないためにつらつら喋ってみると、透香はほんの数秒、固まる。
─── ん?
ほんの少しだけ違和感を覚えたけど、「遊ぶだけ遊んで、またバラして持って帰る!」と気を取り直す彼女に、俺も「そっか」と笑い返す。まぁこういうのって完成系がほしいからやるんじゃなくて、パズル自体が楽しいからやるってのがほとんどだよな。箱の蓋を手に取って絵柄をしっかりと確認すると、シンプルが故に同じ色の範囲が広くて、パズルとしては結構難易度高が高そうだ。…まぁ娯楽だし、気楽にやるか。
「まずは外側からだな」
「直線があるピース集めよ!」
進め方としては一般的な、まず確定で端っこと分かるピースから繋げていく。……あ〜、なんか、いいかもこれ。二人での過ごし方として。映画とか観てると、俺はそれなりに茶々入れる方だけど、透香はしっかり集中したがるからあんまり会話はできないし、料理中は手が離せないことが多かったり、時間との勝負だったりすることもあるから、ゆっくりコミュニケーションは取れない。でもコレなら、時間にも追われず、手を止めたければ止めれるし、あーでもないこーでもないって話していられる。俺の愛しの透香ちゃんの選択、完璧すぎ。
「最近はさ、自分で撮った写真とかイラストとか、そういうのをパズルにできるサービスもあるよな」
「あるね〜」
「いつか俺らの写真…は、無理でも、一緒に旅行行った時の景色とかさ、そういうのパズルにして一緒に作って飾る…ってのも、あり寄りのありだな」
─── ん…?
彼女が「いいかもね」って言うまでの、ほんの数秒。それがやけに気になる。…なんだろう、いつもと会話のテンポが違う気がする。ちょっと疲れてる?…眠い?テーブルを挟んで向かいに座る透香の顔色を窺うと、俺の視線に気付いて少し不思議そうにしながらもニコリと微笑む。………自然……だよな…?何もおかしなところは…ない。今日の言動を全て細かく振り返ってみても……ない。うん。ってか、俺が相手の返事待てなさすぎるだけじゃね?不安になるスピード早すぎ。…うん、気にしすぎだな。
フレーム部分が完成したら、次はキャラクターの顔の辺りのピースを集める。箱からひと掴みしたピースを机に広げると、ジロ吉の鼻っぽいとこが見つかった。そうやって分かりやすいところから進めて、集中している内に二時間が経過した。パズルは3分の2くらい完成してるけど、こっからがキツい。絵柄として何の特徴もないところは、ピースの形からしか予測できないし、もう総当りで確かめなきゃいけない。
まぁ一旦休憩するか。
透香にも休憩を促すと、両手を上げてぐぐーーっと伸びをした。うんうん可愛い可愛い。
「お茶入れ直すな。…ってかいい加減コップくらい買わね?」
キッチンに移動して、昼飯の時にも使ったコップに再びお茶を注ぐ。俺は自分でいつも使ってるダブルウォールのグラスだけど、透香に使ってもらってるのは本当に有り合わせのやつだ。前にも食器とかうちに揃えないかって言ってみたけど、なんかやんわり断られたんだよな。勝手に買っちゃおうかなとも思ったけど、怒られそうなので我慢中。彼女からの返事は───やっぱりなんか、いつもより遅くないか?本当に俺の気のせいか?戻って机にコップを置くと、やっと透香が顔を上げる。その顔は、笑ってる。
「ありがと。私はそんなにこだわりないから…、飲めれば十分かなって思うよ」
「…そっか」
うーーーん……、何も変じゃないと言えば、変じゃない。…まぁまだ時間あるし、もうちょい様子見るか。
休憩だと言いつつ、茶を飲みながら結局すぐにパズルを再開する。茶トラと三毛のキャラはまだ多少柄があるから、コイツらから進めるかな。ジロ吉とツンちぃはもう1色だもの。ムズすぎだろ。気付けばまた集中していて、数十分後には茶トラのピースが全て埋まった。っあ゙〜〜……疲れた……。
「すごーい!」
「三毛の方はどう?」
「みっちぇるね。もうちょっと」
まだまだ楽しめてそうな透香を眺めつつ、俺は再び休憩。首や肩を回して、可愛いカノジョ見て、ハイHP回復。ずっと下向いて細かいもの見てたら、透香だって肩凝ったりしてるはずだよな。集中してるとそういうケア忘れそ、この人。軽〜く肩でも揉んであげようかなと思いつくけど、以前のことを思い出してすぐ自戒する。透香がマッサージしてくれた後、お返しにと同じことをしようとしたら、ちょっと首の近くに触れただけで「んっ」とか「ひゃっ」とか擽ったそうにされて、かなりクるものかあったので早々にやめた。駄目だありゃ。
……にしても、
「やっっぱショート似合うよな〜」
「髪?」
「そ。天才」
マジで最高。可愛い。一生見てられる。
外見を褒めても透香は基本そんなに喜ばないし、照れることはあっても……喜んだことないな、マジで。今も「ふぅん」と言って終わりだ。その淡白な感じも全部全部含めて可愛いっつってんだけどなこっちは。
………写真とか撮ったら怒るかな?
怒るかな?じゃない。絶対怒る。分かってる。分かってても、まぁ怒られんのも悪くないしな〜、そういうコミュニケーションっしょ、と自分を納得させて、床に置いていたスマホを手に取る。
「透香ちゃんこっち向いて〜」
カメラアプリを起動しながら声を掛けると、透香は顔を上げて、そして予想通りムッとする。ふふ、可愛い。「やだ!」って言われるのを待って、それになんて返そうかなと考える。……でも、「やだ!」は返ってこない。ムッとした表情もすぐに和らいで……いや、…え?なんか…おかしい。目が泳いでる。眉や口角も歪に笑おうとしたり、悲しそうになったり。
……やっぱり、なんかおかしいだろ、今日。
今までのも全部気のせいなんかじゃなかったんだ。
心臓がゾワゾワしてくる。
だってこんな、まるで、
俺とどう接すればいいのか迷ってる、みたいな、
「…透香?…どうした?」
怖い。
なんでだ。
どうして。
何があった。
頼むから、仕事で嫌なことがあったとか、そういうのにしてくれ。いや俺への不満でもいいよ。何だっていい。そんなものいくらでも吐き出してくれていい。泣き喚いたっていいし、だんまりで察してちゃんモードになってもいい。そんなの余裕で受け止める。
だから頼むから、
頼むから俺から離れる方向には進まないでくれ
彷徨っていた透香の瞳が、俺の視線と合う。
そこに色はない。
血が凍りついて、耳が遠くなる。
なんで
あの日、10年前、この人との連絡手段が途絶えた日。
あの日、調子に乗ったせいでこの人を傷付け、ジュエリーショップで一人取り残された日。
あの日、もう二度と会いたくないと、言外に告げられた日。
あの日の痛みや苦しみがフラッシュバックして、ぶわりと嫌な汗が噴き出す。
透香は我に返ったようにビクリと身体を震わせ、そして、意思の見えない表情のまま、仰け反るようにほんの少し距離を取ろうとする。そして、その視線がテーブルの脇に置かれたカバンに移った瞬間、世界のスピードが3倍速くらいになる。
バラバラと、パズルのピースが崩れて床に散らばる。俺が走り出そうとした時、咄嗟にテーブルに手をついて、台無しにしてしまった。
暴れる透香を逃がすまいと、必死に腕の中に閉じ込める。
目にも止まらぬ速さでカバンを引っ掴んだ彼女は、もう俺の方なんて見ず、背を向けて走り出した。考える暇なんて無かった。ただ追い掛けて、玄関先でどうにか捕まえて、力づくで拘束した。腕の中の彼女は諦めない。痛々しい嗚咽を漏らしながら、必死で俺から逃れようとしている。
もう訳が分からない。何が起こっているのか意味が分からない。もはや本能、それかトラウマ、無意識下にある何かが「まずい」「捕まえろ」「もう二度と会えなくなる」と言って俺の身体を突き動かした。そして今も、何も分からないまま、ただ腕を解くことができない。訳が分からなくて、痛くて、悲しくて、つらくて、訳が、分からなくて、
そうしている内に、透香は絶望したように抵抗をやめる。ずるずると崩れていくその身体と一緒に、俺も不格好に床に膝を着いた。
何も分からない。
ただ苦しそうに短く息を上げて泣く彼女を、ただ、離したくない。
今離したら、きっと、もう二度と
「………もう、捨ててほしい、」
大きな、大きな耳鳴りがする。
まるでもう何も聞きたくないとでも言うように。
腕からふっと力が抜けて、透香がこれ幸いにと抜け出そうとするのを感知した瞬間、また全力でしがみつく。
もう呼吸の仕方も、分からない。
…何を言われた?
…捨ててほしい…?
…俺が?透香を、捨てる?
それを、望まれてる?
じゃあ、俺が今死に物狂いで引き留めてるのは、彼女にとっては、苦しいことなのか?
俺と一緒に居るのが、苦しい?
いつからそう思ってた
なんで
あんまり会えてなかったから?
でも笑ってたのに
嘘だった?
どこから
いつから
腕の中で震えて泣いている彼女を、解放してあげるべきなんだろうか。好きだから一緒に居たいというのは俺だけのエゴで、俺のそばに居ない方が、この人は幸せなんだろうか。こんなに取り乱して、泣いて、言葉も選べないなんてよっぽどだ。よっぽど、追い込まれてたんだ。そのことに一切気付けなかった俺に、そばに居る資格はあるのか。離してあげるべきなのか。離してあげなきゃいけないのか。
「………嫌だ…」
「嫌だ……」
口から出るのは、結局エゴの塊だ。
もう死にそうなんだ。
これ以上は、耐えられない。
「ごめん…」と言うのは、彼女の希望には一切歩み寄れないことに対してと、こんなことになるまで、何も気付けなかったことに対して。そして、相手が苦しんでいるのが分かっているのに、自分が死にたくないからと、相手には引き続き苦しむことを強要している。
もう分からない。
付き合う前からも何度も擦れ違って、こんなに相性が悪いなら、離れるのがお互いのためなんじゃないかって、どっかに居る冷静な自分は言ってる。でも嫌だ。嫌だ。どうしても嫌だ。この人が居なくなったら、もう、生きてけないんだ、俺は。
大好きだと、言ってくれた時の顔が思い浮かぶ。柔らかく微笑みかけてくれたり、癒そうとして頑張ってくれたり、飯食ってこの上なく幸せそうにしてたり。
あれらは嘘じゃなかったはずで、でも、じゃあ、なんで。
二ヶ月ほど前もこの辺りで泣いた。でもその時の比じゃないほど、訳も分からず涙が出て来る。横隔膜が不規則に痙攣して、呼吸が苦しい。腕はもう感覚が無くなるくらいにガチガチに硬直していて、そこに、透香の手がそっと触れる。彼女も泣いている。肩を震わせて、俺と同じように苦しそうに短く息を上げている。それなのに。その手はゆっくりと、俺の腕を撫でた。
嗚呼、どうすりゃいいんだよ。
なんで。
こうやってこの人はずっと、自分を置き去りにしてまで俺に優しさを捧げてくれていたんだろうか。なんで、自分が錯乱してる時に俺を慰めようとするんだ。
丸い後頭部、サラサラだったショートヘア。
それが、俺の涙でぐしょぐしょに濡れていく。
──────────────
───────────
────
ずずっ、
ずび、
もはや鼻水を啜るのも難しいほどに泣き続け、疲れ果てた頃。
透香がもぞりと動き出し、俺はまたビクリと怯え、無意識に腕に力が入る。
「…あ、ちがう。てぃっしゅ、とりたくて、」
彼女が手を伸ばす方向は、部屋の中。
狭苦しい俺の腕の中でどうにか身を捩り、玄関へ背を向け、部屋の方へ、俺の方へ、顔を向ける。そして何も反応できない俺の背中をぽんぽんと撫でて、「ごめんね、全部話すよ」と鼻声で言う。その落ち着き払った様子に、やっぱり突発的なものではなかったんだと確信する。彼女の中ではずっと、ずっと何かが起こっていたんだ。それを俺は知らないまま……。
「鼻水が…ヤバいから…」と強引に部屋に戻ろうとする透香に、びったりとくっついたままゆっくり移動する。一体何を話されるというのか。それを聞いたら、俺は死ぬのかな。でもこの腕を離したら、この人は消えてしまう。それだけは無理だ。透香はパズルのために床に避けていたボックスティッシュを拾い上げ、ソファの前まで移動すると「す、座ります…」と言う。腕は離せない。でも少しだけズレて、一緒にソファに腰掛けた。
彼女の膝の上に置かれたティッシュを眺めて、俺も鼻をかみたいなと思うけど、腕が離せないから、もう仕方がない。ティッシュを二、三枚使ってそれなりにスッキリしたらしい透香は、「黒尾は大丈夫?」と言って顔を覗き込んでくる。今マジでぐちゃぐちゃだからあんま見ないでほしいけど、彼女の顔が見たくて目を合わせる。その瞳は泣き腫らして赤い。けれどやっぱり優しくて、そこに愛が籠っている、と思ってしまう。それなのになんで。また涙腺が開きそうになって、目を逸らしてぐっと堪える。
「逃げないよ」
極めて穏やかな声で言われたって、もう信じられる訳がない。ないけど、彼女はまたするりと俺の腕を撫でて、そして、俺の手に自分の手首を掴ませようとしてくる。もう一度同じセリフを言われて、ようやく、少しずつ、少しずつ拘束を解く。手首をぎゅうぎゅうと握り締めてしまう俺の手に、透香が反対の手を重ねた。
「今話す?今度にする?」
空いた方の手で俺も鼻をかんで、お互いに呼吸しやすくなると、彼女は様子を見計らって口を開いた。
なんでそんなに落ち着いてるんだ。
こっちはめちゃくちゃなのに。
その温度差だけでまた辛くなるし、今の俺に彼女の話を聞く余裕があるかと言われれば微妙だ。でも、“今度”なんて有る確証はどこにもない。それに、なんでこんなことになってるのか、何が起こっていたのか、理由があるんだったら、早く知りたい。それで俺が安心できるのであれば。思ったよりも上手く声が出せなくて、「いま」と伝えた音は、酷くひしゃげていた。それを聞いた透香は優しく「分かった」と言って、俺の手を握り直す。ああもう、優しくしないでくれよ、殺そうとしたくせに。
「……さっきの、本当にごめんね。黒尾が一番傷付く言葉だろうなって分かってて、言った。…ごめん。」
……さっきの…。
…ああ……。
もう思い出したくもない。
彼女の言う通り、あれ以上に言われたくない言葉なんて無い気がする。
透香の声は最初は穏やかだったのに、段々とそれは温度のないものになり、…ああ、この人もちゃんと壊れているんだな、と思うと、何故か安心してしまう。
「……私はさ、黒尾がびっくりして、うげぇ気持ち悪ぅって言って、ひっくり返っちゃうくらい、黒尾のことが好きだから、…だから、どうしても色々、思うところがあって、」
「………ねぇ、忘れられない人は、今どこに居るの?」
「黒尾が私を大切にしてくれてるのは分かってるの。ちゃんと伝わってる。でもっ、……、私は何も返せない。私には何も出来ない。でもどうしても、黒尾には幸せで居てほしい」
「私なんかに時間を使わないで」
「早く、本当に好きな人と、幸せになってよ」
話しながら、透香はまた泣きだす。
静かな部屋にはまた、啜り泣く音だけが切なく響く。
……言っている内容は、全然分からない。
何の話をしているのか、分からない。
俺の人生において、この人以上に俺を傷付けた人は居ない。
そんな人が、俺の幸せを願って泣いている。
忘れられない人。本当に好きな人。
そんなの、この人以外に該当する人物なんて居ない。
居るわけがない。
俺がどれだけ、どれだけ囚われてきたと思ってるんだ。
考えがまとまらず何も言えないで居ると、また彼女が喋りだしてしまう。
「……ごめん。できれば黒尾が満足するまで頑張るつもりだったのに、できなかった…、ごめん、」
「っあ、演技してたわけじゃない!そんな器用じゃないし、嘘も付いてない。騙してたわけじゃない!」
始めから、ずっと独り善がりだったのか、俺は。
失意の底に沈みそうになると、すかさず透香がフォローを入れてくる。大慌てで、必死に、不安そうに泣きながらも、真っ直ぐ目を見て伝えてくる。これは本当のやつ…なんだよな?信じていいんだよな?俺の見ていた透香は、ちゃんと透香だったんだよな?でも結局は、始めからズレてたってことだろ。俺はもう当たり前みたいに結婚までする気で居たのに、この人は“俺が満足するまで”と思っていて、しかも、他に好きな人が居ると思っていて……。……なんだよそれ、なんでそんなことになってんだよ。
「……本当に好きな人って、なに。何の話」
「え…、あ、えっと…、大阪で再会した日、言ってたから……。お、覚えてない…か…」
「俺が言ったの?」
本気で覚えてなくて、透香に説明してもらう。あの日はもう、俺にとって青天の霹靂で、ただこの人が目の前に居るってだけでパニックで、何を話したのかなんて一つも覚えてない。彼女が言うには、過去の恋愛の話なんかをやんわりしたらしい。…言われてみれば確かに、したかも知れない。そして、彼女の方から「忘れられない人でも居るのか」と聞かれて、俺はそれを肯定したらしい。……した。したな。思い出した。再会したばっかりなのに、簡単に核心を突かれたんだった。
「えっ、でもそれは、お前のことなのに…、なんで…」
「…………え…?」
「え…?え、だって、高校生の時からこの歳までずっと好きで……、他に居る訳ないだろ」
透香以外居ない。そんなの明白なのに、彼女はまるで理解できないとでも言うように硬直する。……え?…え?と、お互いに疑問符を投げ合う。
…え?
…え?
なんで伝わってないんだ?
え、え、もしかして
「……俺、言ってない……?」
こくり。
表情を変えないまま、透香が頷く。
あ あ あ あ
彼女の手首を必死に掴んでいた手を離し、両手で頭を抱える。
言ったつもりになっていた。
いや、言わなくても、伝わっていて当然と思っていた。
告白して、俺が透香を好きだということが確かに伝わって、それでもう全部、高校生の時のあからさまなアピールも全部そういうことだったんだと、伝わったと思っていた。だってあんなあからさまだったし……。いやでも、それを当時気付かなかった人だもんな、伝わらねぇか、そりゃ……そうか………。
でも、仮に忘れられない人が他の人を指していたとして、現在進行形だなんて言ってない。他に本当に好きな人が居るはず、なんて誤解してしまう時点で、やっぱり俺の気持ちは伝わってなかったってことなんじゃないのか。なんでだ。だってあんな、確認までしたのに。
「あのエクセルの…、アレに、結婚のこととかも書いてあったろ、俺はもうアレで、結婚を前提に考えてくれてんだ…って思ってたんだけど」
「えっ、えぇっ…?!アレは…、書いてあったそのままの意味で……」
「なんて書いてあったっけ?アレに俺がYESってしたのは…どういう意味だと思ってたの」
「え……、結婚とかはまだ考えてないから、私に時間を使っちゃっても大丈夫…ってことなのかな…って……」
「はぁ……?」
考えてるよ。
もはや考える必要とかないレベルで、俺がいつか結婚すんなら、相手はお前しか居ないんだから。
だけど伝わってなかった。
たくさんたくさん苦しんでやっと伝わったと思っていたものが、全く伝わってなかった。
かなりキツい。キツい……けど、それが原因だって言うなら、今、解決した。
「他に好きな人なんか居ない。俺がずっっと忘れられなかった人はお前しか居ない。…って言ったら、俺達は別れなくていい?やり直せる?」
自分でも呆れる。こう何度も心臓を切り刻まれておいて、相性の悪さを幾度となく実感して、それでもこの人を諦めたくないと思うのはなんでなんだ。もっと簡単に手に入る幸せもあるだろう。でもやっぱりそれじゃ意味がない。入手難易度が高いからと言って、欲しくなくなる訳じゃない。
俺とこの人の小指はまだ繋がっているのか。聞いてみると、透香は目を丸くする。そして、あんなに酷いことを言われたのに、傷付けられたのに、それでもまだそんなことを言うのかと問われる。言うよ。言う。俺達の間にあった誤解が、あんなことを言わせたんだ。それに傷付いたのはなにも俺だけじゃない。透香だって、苦しんでいたはずだ。俺が苦しめた。しかもそれに気付かず、馬鹿みたいに骨抜きにされていた。一方的に恨める立場じゃない。
「……透香は、今も、俺のこと好き?」
欲しいものは変わってない。
お前が好きだと言ってくれるなら、俺はそれだけでいいんだ。
たくさん泣かせてしまった。
俺もめちゃくちゃ泣いた。
だから、おあいこってことにできないだろうか。
「……だいすきだよ………、」
そう言ってくれる彼女の頬に伝う涙を指で拭う。その俺の手に頬を寄せてくれるから、抱き寄せて、抱き合って、また二人で泣いた。
──────────
「…ごめんな、パズル、ぐちゃぐちゃにしちゃって」
「ううん。………また気が向いたらさ、い、一緒にできるかな」
「できるよ。なんなら俺達のツーショもいつか作って飾る予定だから」
「それは嫌…」
「ふふ、」
バラバラに散らばってしまったピースを拾い集め、箱に戻していく。元々今日はバラして持って帰るということを決めた上で作り始めたものだから、今繋がってるところもバラして、全てを箱に収めて蓋をする。これはいつかまた、できれば近い内に作り直そう。その時には、飾り方もちゃんと調べよう。二人で。
気付けばもう夕飯を作るような時間になっていて、でもまだ完全に日常に戻れるほど切り替えできてないから、料理をするのがとても億劫に感じる。だけどこんな時だからこそちゃんとした飯を食うべきだし、食わしたい。この人との日常を、ちゃんと始め直したい。
「おっし……。飯作るか」
「つ、作るの?」
「作るの。透香ちゃんも手伝って」
ただ一緒にキッチンに立っててほしいだけなのに、透香は申し訳なさそうな顔をする。えっ。もしかして、料理できないことも、実はかなり気にしてんのか…?もうゆっくり様子を見る戦法はしない。今後はちゃんと本人に確認する。ってな訳で聞いてみると、ネットから得た情報では男性は恋人に料理スキルを求める傾向が非常に高いから、出来るようになるべきで、出来ない自分は価値が低い…と思っていたらしい。なんッッだよそのクソ情報。ネットは害悪。俺はそんなこと求めないし、なんなら良いとこ見せるチャンス貰えて大喜びしてるわとハッキリ伝えると、透香は疲れ切った目をぱちぱち瞬かせて「そうなんだ…」と呟いた。
「そーです。そんで今から透香ちゃんにお願いしたいのは、…俺が料理してる間、ずっと背中にくっついててくんない?…なんか今、あんま離れるとさ、寂しーからさ、」
ダッセ〜お願い事もハッキリ言う。俺がこの人にカッコつけようとして良い方向に進んだことがない。もういいんだ、これで。コクコクと一生懸命頷く透香の手を引いてキッチンに向かう。冷蔵庫からかぼちゃを取り出す俺のシャツが優しく引っ張られ、背中に彼女の頭がぐりぐりと押し付けられる。…うん。これなら見えてなくてもそこに居てくれてるのが分かるし、安心して作業できる。固いカボチャをカットしていると、すぐ背後から控えめに声を掛けられる。
「……質問…です」
「ハイどーぞ」
「……こういうの、今まではずっと低レベルな私に合わせて、黒尾が優しさで提案してくれてるものだと思ってたんだけど…、もしかして違う?」
「そんな風に思ってたの………。違うよ。いやまぁ優しくしたいから優しさで言ってることもあるだろーけど、普通に我儘言ってるだけだよ俺」
そして再び、彼女は「そうなんだ…」と呟く。というか今までの全部そんな風に思われてたのか。人と人とのコミュニケーションって難しい。言葉の受け取り方がこんなにも違うなら、それを擦り合わせないことには理解し合えない。…例えば、高校生の頃の俺のアピールは、この人にはどういう風に見えていたんだろう。それを聞いてみると、誰に対しても思わせぶりな感じの人なんだと思ってた、と衝撃の事実が語られる。うわぁ。傷付いた。18の俺がめちゃめちゃ傷付いた。そんな訳あるか。明らかに超、超、特別扱いだったでしょーが。バレー部の奴らはもちろん、クラスの奴らだって結構気付いてたわ。今度は透香にとって衝撃の事実だったらしく、背中から困惑が伝わってくる。そんな彼女を連れてコンロの前に数歩移動し、鍋に切ったかぼちゃを入れて、水、醤油、酒、みりん、砂糖を入れて煮込む。さて次はホイル焼きだな…。また二人でぴこぴこ歩いて、冷蔵庫と作業スペースを往復する。俺が食材を切り始めたタイミングで、後ろからおずおずと声が掛かる。
「……じゃあ、本当に、高校生の時好きだった…忘れられない人に、あんな酷いこと言われたんだ…。ごめんね」
「本当にな。…でももういいよ。分かってくれたんなら、いい」
というか高校生の時“から”ずっと好きな人な。と訂正すると、それはその期間に交際していた相手に失礼すぎると怒られた。仰る通りです。ぐうの音も出ません。
アルミホイルに食材をいい感じに盛って、端っこをクルクルして封をする。汁物はインスタントでいいや。だから後はこの二品に火が通るのを待つだけだ。使ったものをササッと洗って、くるりと透香の方へ向き直る。軽くシンクに腰掛けて腕を広げると、透香はまだちょっと躊躇いながらも身を寄せてくれる。優しく抱きしめて、彼女の後頭部の髪に触れる。…そこにはやっぱり、俺のせいでパリパリになっちゃってる束がある。…ごめんな。すっと離して顔を覗き込むと、透香はまだ何かを気にしているような、言いたそうな顔をしている。そりゃ、始めっからズレてたんだから、それが全てまるっと全部解決したとは思ってない。まだ今後もたくさん話し合わなきゃいけないことが出てくるだろう。まだ何か確認したいことがあるのか、それとも言いたいことがあるのか、どっちかと聞いてみれば、透香は眉を下げて「言いたいこと…」と言う。
「おっと…、何系の話?それによってはちょっとインターバルを貰います」
「……、私がどれだけ黒尾を好きかって話…」
「そぉぉおいうのはいつでもして?!!毎日して?!須らくして?!」
俺の圧に押されて仰け反った透香は、「でも…」と、まだ煮え切らない態度だ。え、なんでだよ。私はそこまで好きじゃない〜とか言われたら凹むけど、そうじゃなくて愛のデカさを話してくれるってターンなんじゃねぇの?それのどこに言いづらい要素があんだよ。つい詰めてしまうと、彼女は「だって気持ち悪いかも知れないし…」と自信なさげな声で言う。ハ??
「まだ俺の重さ伝わってねぇの?それとも舐めてる?」
「あぁ〜…、違うの、理由があるの、それを話した方がいいんだろうけど、ちょっと勇気が要るなっていうか…、いや、うん、言う、言います」
また詰めてしまった…。でも透香が言うと言ってくれたから、黙って待つ。どうにも俺の気持ちが伝わり切らない原因は、他に好きな人が居るっていう勘違いの他にも、まだ何かあるって言うのか。
「…私が黒尾を重いと思う日は来ないよ。だって私の方が圧倒的に重いから。それが覆る日はこの先も一生来ないから。」
「…………詳しく」
そういえば、透香がいつから俺のことを好きになってくれたのか、聞いたことないな。好きでいてくれてるのが伝わってたし、なんかもう本当に奇跡だったから、どうやってその奇跡を未来に繋げていくかってことばっかり考えてて、過去に目を向けてなかった。でもこの人って本当に恋愛?なにそれ美味しいの?な人だったし、最近の話なんじゃないのか?どこに重い要素があるのかサッパリ分からない。分からないから、やっぱり話してもらうしかない。透香は俺の目を見て一度頷いてから、「あれは私が高校一年生の頃…」と話し出す。えっ、回想?
「たまたまバレー部の練習を覗き見たことがあって、そこには先輩に扱かれてボロボロの一年生が居たの。もう汗ぐっしょりで、脚も痙攣してて、転んじゃって。もう見てるのも悪いなと思ったんだけど、その時、その人は笑ったんだよね。もう1本って言ってボールを追って、楽しそうにバレーしてた。それを見た時に、生まれて初めて、恋に落ちるってこういうことかって思ったの」
「それからは、その人のことを考えるだけで幸せだった。なのに同じクラスになったらなんか話し掛けてきて、マネージャーに誘ってきて、好きなのバレたらどうしようって、そればっかりでさ。その人は魅力的だから、好きな気持ちだけどんどん大きくなっちゃって、私だって大変だったんだよ、本当に」
「どうにか隠し通せて、その後は疎遠になって…。でも見掛けた時は、やっぱり好きだなって思ったし、好きな人が元気そうなの見て、勝手に原動力にしてた。何年か経って、うっかり再会しちゃって、私は相変わらずその人のことだけがずっと大好きだし、迷惑掛けたくないのに、結局たくさん迷惑掛けて、傷付けて、泣かせちゃった」
「……これが、私の人生における恋愛の全て。…怖いでしょ」
途中で、透香が言っている人物が自分だと確信して、つまり、俺よりずっと前から俺を好きで居てくれてて、音信不通の10年も、ずっと…。理解すると同時に、また涙が出てくる。くそ、一回壊れたからもう脆くなってやがる。でも透香が優しく拭ってくれるから、もういいんだ、泣いたって。
「なんで隠してたんだよ…、ってか…、それなら尚更、なんで…。両想いかもって思わなかったの…」
「うーん……、黒尾くんは雲の上の人だったから……そんな発想が無かったというか…」
「有れよ…、雲の下に居ただろ…、お前の隣を歩きたいだけの男だよ俺は、ずっと」
「そう…だったんだね」と小さく零す透香が切なくて、切ない?いやもう分かんないけど、とにかく強く抱き締める。…なんとなく、なんとなく腑に落ちた。この人から与えられるのはまるで無償の愛だなと思っていたけど、それは本当だったんだ。同じ場所に居なかった。ずっと、捧げられていたものだったんだ。ズレていたのは、本当に最初の最初から。俺がこの人に初めて声を掛ける、それよりも前から、この人は俺の事が好きで、それで、勝手に遠退けられていた。ってか俺も気付けよな。あんなにこの人ばっかり見てたのに、なんで分かんなかったんだよ。あの時こうしてくれていたら、ああしていれば。タラレバを言ったらキリがない。
もういいんだ。
今はこの人が腕の中に居て、俺の背に腕を回してくれる。
気付いたら透香もまた泣き出していて、その背中をゆっくり撫でると、彼女が俺のシャツをぎゅっと握ってしがみついてくれる。やっと見付けた。やっと心を預けてくれた。加熱時間の終了を報せるタイマーが鳴るけど、まだもうちょい大丈夫だろ、放っといても。俺はそう思って抱き締め直すけど、透香は顔を上げて「…いい匂いする…」と言ってお腹を鳴らす。
「っふ。…ふは、…はは、ははは…!はは…!……はぁ〜あ……。飯にするか」
「うん」
腹が減ってたら何もできないよな。ちょっと煮物は味濃くなっちゃってそうだけど、まぁご愛嬌ってことで。準備をするためにどちらともなく身体を離すけど、名残惜しくて最後にその丸い頭を包むように撫でる。
…うん、やっぱり。
短い髪が、よく似合っている。
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