赤い糸40,075km
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あの日から、ずっと迷っている。
俺の生活は変わったようで変わっていない。癒しを失ったって人は生きていけるし、一人でだって食事をすることはできる。朝もどうにか起きることができるし、外に出れば季節だって感じる。
隣にあの人が居なくなっても、世界は思ったほど変わらなかった。
少しだけ薄暗く感じる自宅に、細い通知音が鳴る。
◯< 3人で飯行ったりするか?
◯<てか鍵は預かっちゃってていいの
二人が付き合ってから、黒尾さんはこうして何度かフォローの連絡をくれている。相変わらずマメな人だ。俺はそれを有り難いとも迷惑だとも思わない。ただ、断り続けている。どうするべきかずっと迷っていて、答えが出ない。
あの日。
二人から付き合い始めたことを報告された日、俺は多分間違えた。それまでずっと、何年も、境界線が曖昧になるほど近くで支えておきながら、突然その手を離した。あんなに不安そうな、あんなに悲しそうな顔をさせるつもりはなかった。動揺した。きっと、人生で最も動揺した。それほどに、視野が狭くなっていた。
黒尾さんが居るなら俺はお役御免、なんて、どうして思ったんだろう。久世さんにとって、俺と黒尾さんとじゃまるで違う存在だというのに。付き合った後も、きっと彼女はたくさん迷ったり変な方向へ突っ走ったりするであろうことは分かりきっていたのに。……いや、でも。やっぱりそれを導くのは黒尾さんであるべきだ。だから俺の役目は……。
久世さんの部屋の鍵を返却した時の、彼女の顔が忘れられない。
あんな顔をさせてしまったのは初めてで、強い後悔とともに、彼女が俺に寄せていた想いの大きさを目の当たりにしたようで、どこかで、確かに歓喜した。
───────────
「今日の取材の内容、まとめて共有するの明日になってもいいですか」
「全然いいですけど…珍しいですね、この後なんか予定あるんですか?」
「今は無いんですけど…、なんとなく」
今後の物語で登場する施設に赴き、写真を撮ったり、リアルな情報を取材したりして、担当作家と昼食を摂って帰って来た。相変わらず休日という概念はなく、本来なら今日もこの後事務所に戻り、様々な作業をするつもりだったが、…なんとなく、何かが引っかかる。
作家とは「じゃあお疲れ様でした」と駅で別れ、そこから自宅の最寄り駅まで電車で向かう。杞憂ならそれでいいんだ。その方がいい。でも久世さんと会わなくなってからずっとソワソワしていた脳の裏が、もう堪らなく痒い。
いつからか俺に搭載されたこのセンサーは、なかなかに精度が高い。大学生の時にはすでにこのセンサーはあって、ストーカー事件の時にもよく役に立った。それからも、なんとなく彼女に危険が迫っているのでは?と思うことが度々あり、連絡してみると会社の飲み会で酔い潰れていたりして、もし俺が迎えに行っていなかったら、あの時隣に居た男に連れ帰られていたかも知れない。そんなセンサーが、最近はもうずっと反応している。でも今俺から連絡するのは躊躇われる。別に誰に咎められる訳でもないことは分かっていても、自分から線引きをしてしまった手前、なかなか難しい。…それに、俺から接触して、もし久世さんに気まずそうにされた場合、俺は死ぬ。間違いなく死ぬ。愛想笑いなんて向けられたら耐えられない。
だから、一応、なんとなく。
センサーの導くままに行動してみるけど、もし何もなければ、そのまま帰る。
車内から見えてはいたものの、最寄り駅から出ると思っていたよりしっかりと雨が降っていた。嫌な予感がまた膨らんで、首筋から後頭部にゾワゾワと耐え難い感覚が走る。…でも、こんなところに彼女が居るはずがなくないか?傘を広げ、なんとなく周囲に目をやりながら歩き出すけど、久世さんがこの辺に来る理由なんて、今は無いはずだ。前はよく俺の部屋に来てくれたり、この辺りの飲食店は制覇するレベルであちこち食事に行っていたけど、それももう数ヶ月前の話。この公園の中も、よく二人で通り抜けたな。フェンスの向こう側をやんわり眺めて、正面に戻した視線をまた向ける。
人が居る。
彼女はこんな雨の中傘も刺さずに公園のベンチに座っているような人じゃない。服装だって、彼女が好んで選ぶようなものじゃない。久世さんはそこまで服に頓着がないけど、だからこそ、ああいう属性値の振り切ったような服装を選ぶことはない。そこに彼女の意思を感じない。あれは違う。別人だ。
でも俺のセンサーは久世さんだと言う。
考えるまでもなく足は進行方向を変えて、公園の入口へと向かっていく。そして、何にも隔たれずにその姿を確認する。…久世さんだ。
どうしてこんなところに。
どうして雨に打たれたまま。
水溜まりに踏み込み、足がぐしょぐしょに濡れるのも厭わず、ただ真っ直ぐその背中を目指す。彼女の背中はこんなにも小さかっただろうか。こんなにも頼りなく、脆く儚い人だっただろうか。
大きめの傘を持っていて良かった。
背後から傘を差し出すと、座る彼女の膝先まで保護することができた。
「風邪引くよ」
いや風邪がどうこうってレベルじゃないだろ。とは思いつつ、そんな言葉しか出てこない。彼女からはすぐに返事は返ってこないけど、項垂れる頭と細かく震える肩を見れば、泣いているんだと分かる。何があったんだと、何故泣いているのかと問うことはできない。したくない。きっと久世さんは俺に助けを求めてここに来てくれたんだ。欲しいものは上辺の言葉ではないはず。──彼女の中には、彼女自身を肯定したり赦したりする機能がろくに備わっていない。それを、俺が担っていた。だから、多くを語る必要はない。こんなところにまで来てしまった彼女を、俺はただ受け入れるだけだ。
「………赤葦くん…」
「うん」
「赤葦くん、」
「うん」
大丈夫、ここに居るよ。
迷子になって不安で泣いている子供のような声に、可能な限り柔らかく返事をする。
その痛々しさに俺の胸も酷く痛む…けど、浅ましくてごめんね。やっぱり、強く求められていることに、どうしても喜んでしまう。
─────
お湯が沸いて、ココアの粉を入れたマグカップにそれを注ぐ。
以前、久世さんがこの部屋によく来ていた頃、彼女のためにと買ってあったものがまだ残っていた。さっき浴室のドアが開閉される音がしたし、きっと今は俺の貸したジャージに着替えていて、そろそろ戻って来る頃合だろう。………俺も、ココアを飲もうかな。甘い飲み物は特別好んで飲まない。…でも、もう取っておいても仕方ないと思っていた物だ。このタイミングで消費してしまおう。そして、彼女と同じものを飲んで、一緒にゆっくりしよう。
予想通りのタイミングで所在無さげに戻ってきた彼女に「ココア飲む?」と聞くと、眉を下げたまま頷いてくれた。テーブルを挟んで座り、それぞれの前にマグカップを置く。
「…ありがとう」
「うん」
「赤葦くんはすごいね」
「そう?」
聞き返すと、いつもタイミング良く助けてくれるから…と彼女が言う。ああ、それはね、神様が特殊能力を与えてくれたからだよ。俺のスピ発言にキョトンとする女神に、微笑んで見せる。俺の女神が、俺に授けたセンサー。これのおかげで、俺は貴女を護ってこれた。今日もこうして、貴女のSOSを受信できた。
……さて、どうしたものかな。
彼女の服が乾くまでの時間、どうやって過ごしてもらおう。話してくれるなら勿論聞く。でもこういう時は、話し出しやすいようにこちらから誘導するべきか?それは彼女の心に土足で踏み込むことにならないだろうか。俺が十数年大切にしてきたその聖域。久世さんという人の核であり、最も美しいところの一つ。そこにやっと触れることが許されたのは黒尾さんだけだ。……でも、そうか。きっとそうだな。彼女としても十数年ずっと内側で守り抜いてきたその聖域。それは他の誰でもなく、黒尾さんによって暴かれた。そしてこの数ヶ月、ずっと外気に曝されていたんだ。それだけで久世さんは傷んでしまう。黒尾さんが無闇に荒らしたとは考えにくい。あの人は俺なんかよりよっぽどその辺の感覚が冴えているし、繊細な人だ。何かに傷付けられた訳じゃない。果物が酸化して傷むように、傷んだだけ。……いや、もしかしたら、自分で傷付けてしまったのかも知れない。
「何か俺にしてほしいことはある?」
結局、真っ直ぐに問う。
俺と久世さんのコミュニケーションはずっとこうだったから。聞きたいことは勝手に探らず直接聞く。相手が言葉にしたものだけを信じる。信じられる。言わなくても伝わりそうなことだって、不安が生まれるくらいならはっきり言葉にする。そういう、信頼と思いやりを持った上での、ある種ビジネスのようなコミュニケーション。それがずっと心地良かったし、彼女もそう思っていてくれたはずだ。
久世さんは一度俺の方を見て、また両手で持ったマグカップへ視線を落とす。ゆっくりでいいよ。支離滅裂でも、大丈夫だからね。圧をかけないために俺もマグカップを持って、ゆっくりとココアをすする。…今日は雨で気温が低いとはいえ、まだこの時期のココアはちょっと早かったか。暑いな。俺と同じようにゆっくりココアを飲んだ彼女は、少し指先を遊ばせながら、必死に言葉を選んで話し始める。
「……慣れないことを、頑張って、みてて……」
「うん」
「上手くいかなくて。…それが正しい努力なのかも、分かんなくなっちゃって、何を頑張ればいいのか……、そもそも自分は頑張れてたのか…、なんも、分かんなくなっちゃって…」
話しながら、その頬にパラパラと涙が降る。素早く箱ティッシュを差し出すと、彼女は「ありがど〜…」と言ってふんふん鼻をかんだ。
慣れないことを頑張っていた。
そうだろうな。
俺はこの人をずっと見てきたから知っている。どれだけ黒尾さんのことを想っているのか、それがどれだけ無償のものであるのか。彼女が黒尾さんに見返りを求めたことなど一度も無かったし、黒尾さんに何かを求めることも、求められることも、これまで一切想定していなかったはずだ。…そりゃ、混乱するよな。
俺だったら、久世さんのそんな特性も理解できるのに。
……いや、張り合ったって仕方がない。意味がない。
彼女が黒尾さんと向き合うことで大きく揺れることなんて二人が付き合う前から分かっていたことで、それでも俺は、その障壁の向こう側に彼女の幸せがあるのだと思っていた。今も、思っている。だけどもし、貴女が逃げたいと言うのであれば、俺が連れて行く。もう二度と心が揺れなくて済むような、貴女の好きな人が広げる波紋が届かないところまで。
でも、きっとまだ諦めてないよね。
彼女のSOSは、もう逃げてしまいたいという意思表示と捉えることもできるし、実際そんな心境もあるにはあるんだろう。でも今ここで「貴女はもう十分頑張った。もう俺と逃げよう」と言ったところで、彼女は納得できるだろうか?何より大切に想う相手に不義理を働いてしまったと、きっと彼女はこの先ずっと気にする。もし俺と平穏に暮らせたとしても、ずっとしこりが残ってしまう。───だけどもう、頑張れは言いたくない。
「久世さん、俺はね」
「もう頑張らないでほしいって思うよ」
まだ、決めるには早い。
でも、これ以上は壊れてしまう。
本当は久世さんが頑張らなきゃいけないことなんか何一つないんだ。…いや、何も頑張らなくても好きな人の隣に居ていいと、そのことを受け入れる努力以外は、する必要はない。彼女は俺の目に向けていた視線をゆるりと下げ、眉を下げて弱々しく笑う。
「……そっか…。赤葦くんから見て、私はもう限界そう…?」
「……、俺としては、そもそも限界を迎えてほしくないかな。…人は、どれだけ全力で頑張ろうとしたって、基本的には7割8割くらいの力しか出せないようになってるらしいよ。そうじゃないと、どっかにガタが来ちゃったりするからね。その自己防衛本能のリミッターを超えることが美談にされることもあるけど…、大切な人には、無理してほしくないって思うよ」
彼女を励ます言葉はこれで合っているだろうか。お互いにココアに息を吹きかけて、冷ましてからまた飲む。やっぱり暑いね、ごめん。久世さんは視線を下げたまま「ありがとう」と言うけど、…この人のことだ、きっと、やっぱりリミッターを超えるまで頑張りたいとかって考えているんだろう。そこまでしなきゃいけないんだろうか。そこまでしなきゃ、女神は幸せに辿り着けない?俺はこれを見過ごすべきなのか?
幸せになってほしいし、壊れないでほしい。これは俺の願いだ。そして彼女の意思も尊重するのであれば……そうだな、
「何か区切りを決める?」
「区切り?」
「そう。期限とか…何か、目標とか。ここまで頑張ってみたら一旦振り返る…みたいな、区切り」
このまま闇雲に走らせることだけはしたくない。絶対に壊れてしまう。それだけは許せないし、彼女がこうして俺のところに来てくれたということは、そのくらいのエゴの押し付けは許されるはずだ。
久世さんは瞬きを繰り返しながら、俺の提案について自分なりに考えいるようだ。その表情は少しづつ晴れていき、「そっか、そうすればいいんだ」と呟く。
「ありがとう!とりあえず今月いっぱいはこれまで通りやってみることにする」
「そっか」
「それでもし、やっぱり駄目だったら、………助けてほしい」
声が震えて、そしてまた、彼女の頬に涙が伝う。
基本的に全て、自分の力だけでどうにかしようとしてしまう人だ。自ら望んで人に力を借りようとはしない。そんな人が、「助けて」と口にした。彼女が日々どんなことを頑張っていて、どう追い込まれているのかは具体的には分からない。でも、俺の想定よりもずっと弱っているみたいだ。…黒尾さんは気付いてないのか?また久世さんが徹底的に隠してしまっているんだろうか。彼女の言うようになってしまったなら当然助ける。それは俺がずっと迷っていた女神の幸せの所在、その選択肢のひとつだ。俺を拠り所にしてくれていい。でもあのポンコツ恋敵はもう恋敵じゃないんだ。正式に、選ばれた。期限は今月中。……必ず気付けよ。
「頼まれなくても助けるけど…、でも、言ってくれてありがとう」
彼女はまたティッシュで鼻をかみながら、「本当はもう赤葦くん離れしなきゃ駄目だよね〜」なんて笑う。そうかも知れないね。俺も、久世さんが居なくても、ちゃんと食事が美味しいと思えるようにならなきゃいけないね。
───────
久世さんは「もう暗い話は終わりだ!」と言わんばかりに、数ヶ月前までと同じように話し始めた。仕事で憧れの選手に会ったこととか、最近読んだ小説の話とか。俺にも最近面白い本があったかとか、仕事の調子はどうかとか聞いてくれて、本当に久々に、この部屋が明るく思えた。
乾燥機が完了を報せる音が鳴って、そんな時間に終止符が打たれる。元々着ていた服に着替え直した彼女は、シルエットがもう見慣れなすぎて、やっぱり彼女らしくない。
「赤葦くん的に、この服どー思う?」
「……。久世さんが気に入って着ているのであれば魅力的なだけだけど…、多分違うから、俺にとっては微妙かな」
「あはは!ありがとう。私にとってもビミョー」
女性の服装を微妙だと言ったのに、彼女は嬉しそうに笑って同意した。そして、らしくないことはもう止めようと、晴れやかな顔で言う。
玄関ドアを開けると、外は思ったより明るかった。傘を貸す必要があるかと思ったけど、雨は止んだようだ。
以前までなら、当たり前のように駅まで送っていた。彼女がNOと言う時もあったけど、それ以外は、俺の送って行きたいという意思を尊重してくれることが多かった。…今日は、どうしよう。俺がほんの少し迷っている内に、靴を履いて外に出た久世さんが俺と向き合うように振り返る。…ああ、ここまでか。
「ありがとう赤葦くん。またね」
また。
次に会う時には、俺達はどうなっているんだろう。女神の幸せの所在が俺の元にあれば、と、未だにどうしても期待してしまうのは仕方がない。でももう、そんなに強い気持ちでもないんだ。久世さんはどうしようもなく一途に黒尾さんのことが好きな人だから、ちゃんとあの人に、ぶちまけてほしい。そして黒尾さんも、必ず気付いて、必ず受け止めて、必ず繋ぎ止めろ。俺はそれが正解だと思う。もう彼女が俺を必要としなくなるくらい、黒尾さんが全てを担えばいい。そしていつかまた、曇りなく笑う久世さんに会わせてくれ。
「うん、またね、久世さん」
微笑んで手を振り、そして歩き出す彼女の背中を、ほんの数メートル分だけ見送る。貴女が好きな人の隣で貴女らしく居られるように、願ってるよ。
部屋に戻ると、なんとなくまたお湯をお沸かして、ココアをおかわりする。机の上にはマグカップ、ボイスレコーダー、ノートPC。今日の取材内容を再生して、要点をまとめていく。作家に伝わりやすいように、どう要約しようかな…と考える片手間で、マグカップを手に取り、何度か息を吹きかけて冷ましてから飲む。…うん、やっぱり、9月はまだ暑いな。