赤い糸40,075km
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なんでこんなことしなきゃいけないの。
脳裏に浮かんだ言葉を即座に否定する。
強く、否定する。
これは自ら進んでやっていること。
この超超初心者用シリコンスティックとキモキモ潤滑剤が届いてから一ヶ月経った。毎夜トライし続けているものの、まだ成果は上がっていない。ボディメイクの方はそれなりに順調で、肌はびっくりするほどふわもちになったし、スタイルもそこそこいい感じに引き締まってきた。まだまだやれることはあるけど、羞恥心の軽減にはかなり効果的な気がしている。料理はやっぱり下手くそのままだけど、極力包丁を使わないレシピなんかを調べたりして、ほんの少しづつ、できることは増えてきた。
だから本当に進展がないのは、これだけ。
ベッドの上、ぬぴぴ…と潤滑剤を手のひらに出す。気持ち悪い。胃に穴が空くほど気持ち悪い。でも最近やっと慣れて来て、すぐに手を洗わなくても大丈夫になってきた。そして手のひらの上の最悪ぬとぬとキモキモ液体を、にゅじ、と棒に擦り付ける。
あああああああ
ううううううう
気持ち悪い
やだ
意味分かんない
なんでこんなこと
否定して、深呼吸する。
大丈夫。必要なこと。意味のあること。自分のために、自分で望んでやっていること。
昨日までは、この時点でリタイアしていた。でもさすがに進捗が悪すぎる。目標はこれをぶっ刺すことで、しかもそれははじめの一歩に過ぎないというのに、一ヶ月かけてまだローションにも慣れないなんて本当に笑えない。とにかくゆっくりと呼吸をして、嫌に早まる心臓を落ち着かせようとする。私は頭で考えてばかりなのが駄目。行動するんだ。行動。ベタベタしてない方の手で、パジャマのズボンとパンツを膝上までぐいっと下ろす。
行動を。行動を。
数十分後。
日付が変わり、また成果無しの愚図が出来上がる。洗面台で棒と手を洗って、ふと鏡を見上げると、なんとも冴えない顔が映っていた。…そういえば、髪、結構伸びてきたな。前に美容室を予約しようとした時、篠崎さんの綺麗な長髪が思い浮かんで、なんとなく止めてしまった。黒尾もロングヘアが好きだって、高校生の時風の噂で聞いた気がするし……。なんて、そんな10年以上も前のことを今でも覚えてるの、気持ち悪いな。…長い髪も、似合ってない。…いや、見慣れないだけ?こっちの方がいい?マシになる?……そもそも、何のために伸ばしてるの?頭の中がぐちゃぐちゃで、虚ろな目をした自分から逃げるように寝室へ戻る。
これじゃ駄目だと分かってる。社会人としても身体は資本だから、睡眠の質は下げたくないし時間も減らしたくない。だから0時には切り上げるという自分ルールを作っているけど、成果は上がらないし、睡眠の質は下がる一方だ。じゃあどうしたら、と、何度考えても、分からない。でも、元々“努力することで安心したいだけ”という浅はかな動機から始めたことだ。だから、成果が出なくっても、努力はしてるから、努力だけは続けるから、それでどうか、自分を許してしまいたい。
────────────
「いらっしゃ〜ぁい。ハグOK?」
「オ、オフコース…」
玄関先で軽く腕を回し合って、背中をぽんぽんする。
今日はお互い休日…ではあるんだけど、黒尾は午後から打ち合わせに行かなきゃいけなくて、そのまま飲みに連れ回されるらしい。今は午前10時。黒尾の部屋でちょっとゆっくりして、お昼ご飯を食べたら解散だ。
ハグが解除されたので、靴を脱いで上がらせてもらおうとするけど、黒尾が仁王立ちしていてそれは叶わない。えっ…邪魔……。何を思って仁王立ちしていのか窺うために顔を見上げてみると、何故か不満気な目でこちらをジロジロと見ている。
「……な、なに」
「今日はその格好でどこ行くの?」
「えっ、…ここ…」
じぃと細めた目で見下ろされて居心地が悪くなる。…今日は、新しく買った服を着てきた。“彼氏が喜ぶデート服”なるものを調査し、店員さんにも相談させていただいて買った薄手のニットワンピース。結構タイトなのでボディラインが出て非常に恥ずかしい…けど、これも羞恥心克服の一環では?って閃いて、意を決して着てきてみた。もう修行だ。修行。一応似合ってない訳ではない…はずけど、似合ってる訳でもない。なんというか…とにかく慣れない。でも薄手で半袖だから残暑厳しいこの時期でも着れるし、確かに黒尾もこういうの好きそうだし………と思ったんだけど、間違ったかな……?
「…ちゃんと真っ直ぐ帰れよ?」
黒尾は頭をぽりぽりと掻いて、一歩引いてスペースを空けてくれる。今日は本当に他の用事がないので適当に返事をして、屈んでセパレートタイプのパンプスのストラップを外し、部屋に上がらせてもらった。
「わ〜、さすがに黒尾でも忙しい時は部屋が荒れたりするんだね」
「俺のことを完璧人間か何かだと思ってらっしゃる?駄目なとこいっっぱい見てんのに??」
前回無許可で待ち伏せした時も部屋の様子は少し見たけど、夜は電気つけない方がいいかと思って暗いままにしてたし、朝はもう眠かったから、ろくに認識してなかった。部屋にはちらほらと出しっ放しにされたものが散らかっていて、キッチンには空のペットボトルが並んでいる。いつもすごい綺麗なのは、人が来る前に掃除しているからなのか、もしくは今が忙しすぎてこうなっているのか。どちらにせよ、こういう人間味のあるところも愛しいなと感じる。
「私ちょっと片付けよっか」
「えー、いいよそんなん」
「でもせっかく来たし」
乗り気じゃない黒尾を無視して、分かる範囲で片付けていく。「掃除させるために呼んだみてーじゃん…」とボヤきながらも、黒尾も片付けを始めた。そんなに時間はかからず大体いつも通りの感じになり、掃除機とか掛けるかと聞いたら「これ以上イチャイチャタイムを削るな」とちょっと怒られてしまった。
……イ……イチャイチャ………………。
予想外の言葉に立ち尽くしてしまうけど、イチャイチャとは具体的に何をすればいいのか、これについては日々調査を重ね、アップデート済みだ。
「じゃあ…マッサージを勉強してみたんだけど、やってもいい?」
マッサージは癒しとスキンシップの両方の要素を持ち、イチャイチャの定番…ということだったので、たくさん動画を見て勉強した。ついにそれが役に立つタイミングが来た!と思って提案してみると、黒尾はちょっと驚いて、それから微妙な顔をする。因みにどんなマッサージなのかと注意深く聞かれるので、結構本格的な整体まで調べたからなんでもOKと伝えると、じゃあ肩揉みとか…と控えめな姿勢だ。とりあえずソファに座ってもらって、背もたれの後ろに回り込む。手のひらでしっかりと肩を撫で、まずは筋肉の張りを確認…してみる。……うーん。実際の経験がないから、触ってもよくは分からない。とりあえず頭に入っている通りの手順でマッサージを進めると、「あ゙〜…」とか「お〜…」とか、黒尾のちょっと間抜けな声が聞こえてきて楽しくなる。
「力加減いかがですか〜?」
「はぁ〜い、いい感じでぇ〜す…」
「ふふふ」
好きな人に触れていられるのはやっぱりなんだか心地良い…し、気の抜けた姿を見れるのも嬉しい。なるほど。イチャイチャの定番、大変理にかなってますね、世の中の恋する皆さん!思ったよりずっとWin-Winになってしまったけど……まぁいいか。
「肩から首、頭は終わったけど、もっと重点的にやってほしいとこある?眼精疲労とか困ってたりする?それとも肩甲骨周りやる?」
「いやいやもう充分。次は鉄くんのターンな」
くるりとこっちを向いた黒尾は意地の悪い笑みを浮かべ、ソファに座るように促してくる。嫌な予感がして拒否するも結局捕まり、同じようにマッサージを施される。ただ私があまりにも擽ったがって悲鳴を上げたことにより、早々に終了した。
その後は黒尾がご飯を作ってくれて、無能の私はその周りをウロチョロし、そしてご馳走をいただいた。
「この後雨降るらしいから、傘持ってった方がいいよ」
「マジか。透香は持ってんの?」
支度を終えた黒尾に合わせて、私も立ち上がる。折り畳み傘を持っていることを伝えながら玄関へ向かおうとするけど、彼が歩き出す気配がない。とりあえず私もその近くで足を止めて見上げてみると、来た時と同じようにハグを求められる。いちいち確認を取らなくてもいいのに…と思いつつ、こちらも同じように承諾し、腕を回す。ぽんぽんと背中を叩き合って終わりかと思いきや、黒尾はゆるりと私の髪に指を通した。
「……伸びたよな」
「あ、うん……、どう…でしょう」
さすがはデキる男。
女性のちょっとした変化にもちゃんと気付くんだな。別に黒尾のために伸ばしてる訳ではない…けど、もし今もロングヘアの方が好きなんだったら、このまま伸ばしてもいい。だからどう見えているのか知りたくて一応聞いてみると、「え?あー、うん、可愛いよ、そりゃ」と絶妙な反応が返ってくる。……気に入ってないな、これは。ロングヘアは今でも好きかも知れないけど、やっぱり私には似合ってないんだろうな。無駄ならやっぱり切っちゃうか、と美容室にいく予定を考えていると、「……なんか、」と煮え切らない態度の黒尾が続ける。
「無理してたりする?」
上から降ってきた言葉に、心臓が止まりそうになる。
「あ、いや、違う。なんつーのかな、その〜、可愛いよ?もちろんすっげぇ可愛いし最高なんだけど、…髪とか服とか……なんか、ちょっと…らしくねぇなぁって思ってさ、」
「似合ってないとかじゃないからな?!断じて!!……でも、急にどうしたのかな〜って…」
ギュルギュルと、頭を回して考える。
なんて返すのが正解?
黒尾は私の変化に気付いて心配してくれている。
心配を、させてしまっている。
無理をしているように見えるほど、今の私には違和感があるんだ。
待って違う、まずは黒尾の優しさに感謝すべきで…。
えっと、こんな時の受け答えで、恋人として可愛げのある反応を勉強したはず。
下げてしまっていた視線をゆっくりを上げて、黒尾の目を見詰め返す。その瞳は真っ直ぐ私を心配してくれていて、私がちょっとでも黒尾が喜んでくれたら、と思って彼の好みに寄せてみたことは、むしろ真逆の結果を生んでしまったようだ。……本当になんにもできないな、私は。指先をつつ、と黒尾の胸の上で滑らせる。緊張した面持ちになった彼に、可能な限り柔らかい表情を作って見せた。
「…鉄くんがドキッとするかなと思ったんだけど……、効かなかった?」
わあ。
吐きそう。
なんだこのセリフ。大滑りしたら自害一直線すぎる。……でも知ってる。分かっててやってる。黒尾は優しいから、こういうのは絶対に反応してくれるはず。相手に恥をかかせないために。
「………何から何まで効きまくってるに決まってんだろ…!クソッ!なんでこれから仕事なんだよ…!!…んあぁ〜…!!っでもあんっま可愛いとさ…!迂闊にイチャイチャできねーから、もっと普通のが有り難い…かも…」
「そっか」
何を言っているのかあんまり理解できていないけど、とにかく誤魔化すことには成功した。あと、やっぱり私では黒尾の好みに食い込むことは難しい、ということが分かった。………無駄な努力はやめよう。意味のある努力を頑張ろう。意味のある努力………。どれが?
狭い玄関先でお互いに靴を履くと、黒尾の影がふっと降りてきて額にキスをされる。顔を離して「へへっ」と笑うこの人が、好きだ。大好きで、大好きだから、この世界の誰よりも、幸せで居てほしいのに。
もう、正直自分に期待するのも限界があるんじゃないかと思えてきた。
黒尾と別れた後の車内で、自分の振る舞い方を考え直す。
黒尾は今はすごく私を好いてくれていて、大切にしてくれてる。でもそれはいつか終わる。彼には忘れられない人が居て、できることならその人と幸せになるべきだ。そうでなくても、彼ならもっと良い相手はいくらでも居るはずで、なにも私のような者を選ぶ必要はない。…私にできることは何?忘れられない人を探し出す?もしくは嫌われるようなことをして、早く解放してあげるべき?もしくは付き合ってる間だけでもその忘れられない人に近付けて……いやいや、だから、それは私にはできないんだって。……そもそも、こんなに大切にされていながらこんなことを考えていること自体が、あまりにも最低で、裏切り行為だ。
私には黒尾のためにできることがない。
きっと黒尾を困らせたり、怒らせたりするようなことしか、できない。
……いつになったら終わるの。
浮かんだ言葉を否定する。
否定する。
…でも
私はただ、
ただ好きでいられれば、
それだけで満足だったのに。
ぼんやりしている内に、自宅の最寄り駅を通り過ぎてしまった。乗り過ごすこと、三駅。よく見慣れたその駅で下車し、改札を抜けて、フラフラと歩き出す。雨がポツポツと降り始めたけど、傘を出す気になれない。コンビニのガラスに薄く映る自分は、見慣れない服装のせいですぐに自分と認識ができない。伸びた髪も女性らしい服も、似合わないよ、私には。……ああもう、悲劇のヒロインぶる自分が許せなくて、許せなくて、でももう、これ以上自分を追いやる場所がない。
何度も通り抜けたことのある公園に入り、濡れたベンチに腰を降ろす。薄い布に雨が染みて、すぐに不快な感覚が広がってきた。雨は少しづつ強くなり、頭が、肩が、全身が、濡れていく。滲む視界に映るのは、びったりと膝にへばりつく薄い布。……もう、分からない。分からない。許されたい。助けてほしい。私より、私を分かっている人に、会いたい。
しばらく雨音を聞いていると、少し冷静になって、もう帰らなくちゃと現実に向き合わされる。こんなビシャビシャで電車乗るのは迷惑だし、三駅ならどうにか歩けるかな。お腹に抱えていたカバンから折り畳み傘を取り出そうとした時、雨がぴたりと止む。
「風邪引くよ」
傘が雨を弾く音の中、会いたかった人の声が聞こえて、雨ではない雫が太腿に落ちた。
───────────
「サーブチャレンジやってみませんか〜!」
場所は某テレビ局。
ついに私が担当するイベントの日がやってきた。
この三連休、この場所では、人気番組の展示コーナーや体験型の催し物、この局で放送している有名アニメの等身大フィギュアから野外ステージでのショー、コンセプト飲食店まで、イベントが目白押しだ。その中に、弊社とJVAのコラボブースも設営させていただいている。
こちらのテレビ局ではよくバレーボール中継をしてくれていて、弊社もスポンサーをやっているので、それでお声が掛かったという流れだ。
「ビギナーとハード、どちらに挑戦されますか?」
外のスタッフが呼び込みをしてくれて、来てくださったお客様にチャレンジコースの説明をする。まず、イベントの主な概要としては、お客様にサーブを2本打ってもらって、結果によって景品を差し上げますよ〜といった感じだ。
ビギナーの場合、相手コートにあるボールカゴを狙っていただく。しかもそのカゴはスタッフによりボールを追いかける仕様となっているので、初めてバレーボールに触る人でも楽しめるようにしたつもりだ。1本成功で弊社でのお買い物で使用できる10%引きのクーポン。2本成功で20%引きのクーポンが景品となる。ご家族連れが多いと踏んで、これを機会にお子さんにはバレーボールに興味を持っていただき、親御さんには弊社のバレーボール関連の製品をお求めいただこう……という算段だ。
ハードの場合、相手コートに置かれたペットボトルを狙っていただく。1本成功で30%引き、2本成功では50%引きのクーポンと成功証明書なるものが景品だ。こちらは主に経験者の方がクーポンを目的に参加してくだされば、と思っている。
「いずれのコースも参加していただいた方全員にウェットティッシュと代表選手のポストカード、更に代表選手のサイン入りユニフォームが当たる抽選への応募券をお渡しさせていただきます」
作成した説明用ボードを使い、小学生くらいの男の子とそのご両親へ説明すると、ビギナーでの挑戦が選択される。ブース内にアナウンスをして、各スタッフが配置につく。この時間帯は、私は説明とボール渡し、ボールカゴやペットボトルの配置は篠崎さんが担当することになっている。簡易的なネットは今は子供用の高さだから、このままで良し。ボールを渡したら音響係に合図を送り、雰囲気を盛り上げるためのサウンドが流れた。
「初日お疲れ様でした!」
「お疲れ様でした〜!」
備品をしまい、最終確認をして、一日頑張ったスタッフの皆さんと解散する。初日は概ね順調。ペットボトルが軽すぎて少しの風で倒れてしまうといったプチトラブルはあったものの、すぐにビーズを買ってきてもらい、それを中に詰めた。多少の錘にもなるし、当たった時に軽快な音がして、挑戦者の達成感も増大させることができたと思う。
各自付かず離れずで駅に向かっていると、自然と篠崎さんと並んで歩く形になる。
彼女とは、顔合わせから今日まで一番密に連絡を取り合ってきた。仕事においてもとても気の利く方だし、丁寧さの中にフレンドリーさがあって、メールやチャットでのやり取りも非常にスムーズだった。
「久世さんご飯食べられました?」
「まだで…、何か食べて帰ります」
「それってご一緒しちゃ駄目ですかね?」
同い年ということもあり、篠崎さんとは結構親しくなれた…と思う。距離を縮めてくれたのも彼女の方からで、その自然さがちょっと黒尾に似ているような気がした。一緒にという提案にありがたく乗らせていただき、この時間でも営業している飲食店…は居酒屋くらいのものなので、ちょっと移動してお店に入った。
穏やかに、でも会話を途切れさせず話してくれる篠崎さんに見とれて、初日終了。
二日目も三日目も恙無く運営を回し、初の担当イベントは無事に成功を収めることができた。
この三日間は、まるで高校生の時に戻ったような感覚だった。バレーボールのすぐ側でちゃかちゃか働きまわるのはやっぱり気持ちいい。この前の雨の日、赤葦くんと話せたから、そこから私の頭の中もだいぶスッキリして、こうして楽しみながらイベントを遂行できたんだと思う。そして何より、ずっと支えてくれた篠崎さん。彼女の存在はとても大きかった。私は頭でっかちだから、あれもこれもと考えている内に打ち合わせの設定を忘れてしまったりして、その度に彼女がこっそりと「そろそろ話し合いの場を設けます?」と連絡してくれて、本当に助かった。
本格的な撤収作業はまた明日行うことになっているので、今日も備品を片付け、最終確認をし、解散する。
「お疲れ様でした〜」
「お疲れ様でした!」
また篠崎さんが隣を歩いてくれて、一緒にご飯に行く流れになる。昨日も一昨日と同じ居酒屋さんに行って、色んなことを話した。本当はあんまり言わない方がいい気がしてたけど、話題はやっぱりバレーが中心だから、つい男子バレー部のマネージャーをやっていたことがあるとか、今回のイベントで等身大パネルを置いていた木兎や影山くんのことも当時から知っている…なんて話をしてしまった。なんとな〜く、黒尾に繋がりそうなことは言わない方がいいと思ってたけど、もういい。こうして一緒にイベントを乗り越えて、篠崎さんはやっぱり素敵な人だと再認識した。だから今日は、伝えたいことがある。
「梅酒ソーダ割りでお願いします」
「あと…、カルピスひとつ」
一杯目を口頭で注文したら、後はタッチパネルから注文をするというスタイルの居酒屋。篠崎さんは「さて、久世さんは今日はイカゲソですか?軟膏ですか?」と言いながら、タッチパネルを二人で見れるように横向きに置いてくれる。…優しいなぁ。気配りができて素敵だな。私の食べる量はすっかり把握されてしまったので、「食べますよね?」という前提でメニューを表示してくれるのも、ちょっとお茶目で可愛い。そういったお人柄だけじゃない。クリップでひとつに纏めた髪も綺麗で、私と全く同じポロシャツを着ているのに、それすらもなんだか素材の良さを際立たせているように見える。これは自分を卑下するあまり相手が良く見えている訳じゃない。本当に、私は篠崎さんのことが好きだし憧れている。
こんな素敵な人と自分を比べるなんて、そもそもが間違いだった。私が彼女になれる訳がない。ほんの少し近付けることも難しい。それはもう、いい。諦めた。
飲み物が届いたら乾杯をして、イベントの成功を喜び合う。ちゃんとした打ち上げはまた明日あるけど、私にとっては初めての担当イベントだったし、篠崎さんにとっても初の案件。お互い喜びや安堵や感謝したいことがたくさんあって、会話に花が咲く。
そして食事も大方済んだ頃、ついに心を決める。仕事とは関係のない、完全に個人的な話。
「あ、の……。突然、大変不躾なことをお伺いするのですが…。…篠崎さんは、……そちらの、黒尾…さん、と、お付き合いされていたことが…ありますか」
「えっ」
プライベートに土足で踏み込むような真似をした私に、篠崎さんは当然驚いた顔をする。でもすぐに何かを察したのか、困惑しながらも肯定の返事をしてくれた。…そっか。やっぱりあの日見た後ろ姿は篠崎さんだったんだな。こんな素敵な人と付き合っていたことがあるのに、黒尾はなんで今私なんかを選んでいるんだろう。二人はどうして別れてしまったんだろう。
「そうですよね…、それで、」と話を続けようとする私を遮り、篠崎さんが言う。
「奪おうなんて思ってないですよ?!」
全く想定していなかった発言にフリーズする。
えっ。
奪おうとは思ってない。それは、今黒尾に恋人が居るのを知っていて、それが私だということも知っているような発言だ。固まる私に、篠崎さんは続ける。黒尾も私も、他にアクセサリーなんて付けていないのにピンキーリングだけ必ず付けているから、それに気付いた時点で「まさかね」と思っていたらしい。そして昨日私がベラベラ喋った交友関係を聞いて「もしかして」となり、黒尾の名前が出てきた今、確信に至ったそうだ。だからこうして敵意がないことを伝えようとしてくれているんだろうけど、…違う。
「違うんです。私が話したかったのはそうではなくて…。もし、今も篠崎さんに気持ちがあるなら、もし、お二人の仲が深まるなら、私は絶対に邪魔をしません。…ということをお伝えしたかったんです」
「えっ……、えぇ…??」
「篠崎さんは非の打ち所がないほど素敵な人です。元々ファンだったということもあり、幸せになってほしいです。黒尾…さんにも、どうしても幸せになってほしいんです。もしお二人が復縁なさるなら私も幸せですし、一石二鳥…いや、三鳥かなと思いまして…」
「……い、いやいやいやいや……」
彼女は頭を抱えてしまった。
おかしなことを言っている自覚はある。人の気持ちを決め付けるような失礼極まりない発言だとも分かってる。でももし自分が邪魔をしてしまったら。それだけは耐えられない。だから身勝手なことを言って、こうして篠崎さんを困らせてしまっている。彼女はレモンサワーをくいと呷って一拍置き、話し出す。
「………とにかく、あの人が久世さんのことをものすごーく不安にさせてるってことは分かりました」
「?!」
思わぬ方向に話が進んでしまい、全力で黒尾は何一つ悪くないと否定すると、篠崎さんはまた「いやいや…」と言って少し呆れたような表情だ。「……久世さんとはだいぶ親しくなれたと思っているので、私も正直に話しますね」と前置きをした後、彼女はこれまでよりくだけた態度で話してくれた。
「正直、しょ〜〜じき、嫌いになって別れた訳じゃないので、またいつでも話せるような距離感になって、ちょこ〜っとだけ、今ならやり直せるのかも…と思ったのは本当です。私今フリーですし。……でも、今の久世さんの話聞いて完ッ全にナシになりました」
「エッ」
「私も付き合ってた時は結構不安だっだな〜って思い出しちゃった。今もあんな感じなんだったら、ナシです。ナシ。」
「えぇっ?!篠崎さんのことを不安にさせてたんですか?!クソ野郎じゃないですか!」
驚いて大きな声を出してしまったけど、篠崎さんも負けず劣らず大きな笑い声を上げる。ツボに入ったようで、「ク、クソ野郎っ…ふふっ!」とお腹を抱えて笑い、それがなかなか収まらないようだ。
……こんな素敵な人を不安にさせていたのか、黒尾は………。あんまり想像できないけど、篠崎さんが嘘を吐く動機もないだろうし、きっと本当なんだろうな。なんで不安だったんだろう。恋愛について色々調べた時も「恋人を不安にさせない方法」とか出て来たけど、そういえばその辺はちゃんと調べてないや。ぐるぐると考えている内に、篠崎さんはなんとか笑い地獄から復活なさったようで「はーっ…、久世さん面白すぎ…」と言いながら目尻に滲んだ涙を拭っている。
「あの人って、ビジュアル良いし優しいし面白いし、結構理想的な彼氏像じゃないですか。でも意外と過去の恋愛引きずってうじうじしてて…、私の時は、初カノさんのこと引きずってて、ちゃんと大事にしてくれてるのは分かってても、駄目だこりゃって感じでしたね」
「そうっ!それです!な、なるほど〜、じゃあ初カノさんが忘れられない人なのかな…」
「ウッソまだそんな事言ってるんですか?!しかも彼女さんに?!それじゃ本当にク…クソ野郎…ですねっ、ふふ、ふっ」
篠崎さんは当時のことを思い出しながら話してくれて、私もそれに強く同意する。黒尾は恋人のことを惜しみなく大切にする人。それは分かってる。でも、…そっか、ずっと初めての彼女さんのことが忘れられないんだ。篠崎さんですら上書きできないほど、好きなんだ。
……なんだか腑に落ちた。
あの人はチャラく見えて全然そうじゃないから、初めて付き合った人と何かあって別れなきゃいけなくなって、それでずっと忘れられないとか、そういうことか。そっかそっか。うん、黒尾っぽい。
篠崎さんに初カノさんのことで何か知ってることはないかと聞いてみたけど、後輩らしいという情報しか持っていないようだった。…じゃあ、探し出すのは難しいかな。
「知ってどうするつもりですか…」
「えっ。また…会えたらいいのにな、と…」
「…付き合ってるんですよね…?今…」
「はい。あくまで“今は”です」
うーん…と微妙な顔をする篠崎さんは、やっぱりどこか黒尾に似ている気がする。気が合う二人、なんだろうな、きっと。イカゲソの残りカスを摘んで口に運んでいると、真剣な顔つきになった篠崎さんが「辛かったら頑張らなくていいんですよ」と言ってくれる。黒尾が優しいから突き放しにくいかも知れないけど、もっと自分の幸せを考えたっていい、と。つまり、別れた方がいいんじゃないか、って話だ。そう思わせてしまうほど、私はおかしな言動をしているんだろうか。……いや、してるか。もし友人が自分と同じようなことをしていたら、私だってそう言う。でも、私の幸せを考えれば考えるほど、それは黒尾の幸せとイコールになる。だからあの人の幸せにこだわる。自分らしさとかを全部捨ててしまっても、いい。…まぁ、そこまでしても幸せにできなさそうだからどうしようって感じなんだけど。
「待って私別れを推奨する元カノポジになってません?!最悪!そういうんじゃないですからね?!」
「ふふふ、分かってます分かってます」
自分の発言を振り返ってフォローするのも、ちょっと黒尾に似てる。
その後も篠崎さんはひたすら私の心配をしてくれて、プライベートな連絡先まで交換した。「ってか元カノって普通にウザくないですか…?」って何度も聞かれたけど、ウザい訳がない。確かに恋愛について調べた時、過去の恋人の話はタブーかどうか?みたいな議題もあったけど、“元カノ”というか、篠崎さんは篠崎さんだ。可愛くてカッコよくて優しくて、私の憧れの女性。
三日間通った居酒屋を後にし、電車に乗って帰路へ着く。乗り換え駅で下車して改札を抜けたら、彼女とはここでお別れだ。
「何かあったら、私は完全に久世さんの味方ですからね!」
「えぇっ、あ、ありがとうございます…?!」
まだ明日の打ち上げがあるということと、もう時間も時間なので、さくっと挨拶をして手を振る。
───私は、もう少し頑張れる。
疲れているはずなのに何故か頭が冴えてしまって、人の少ない車内から真っ暗な外を眺めながら、考える。
闇雲に努力しててももう分からないから、期限を決めた。これでもう「いつ終わるの」なんて失礼なことは考えないで済む。もう少しだけ頑張ってみて、それで駄目なら、もう駄目。きっと赤葦くんや篠崎さんが言うような結果になる。それでいい。最後までやれるだけのことをして、そしたらもう、私はとうとう自分を許してしまおうと思う。初めから、そんな器では無かったのだと。──その日が来るまでは、また心機一転、全力努力。
まずはイベントお疲れ様自分!
こっからは恋人としての責務ラストスパート!
気合い入れていくぞァ〜!
一人荒くした鼻息は、電車の発車ベルにかき消された。
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