赤い糸40,075km
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カショーン、カショーン。
コピー機の前で、プリントされた資料の体裁が崩れていないか確認する。
普及部の仕事、広報部の仕事……。振られた仕事をこなすだけで精一杯で、他の人が何の案件をやってんのかとか、どのくらい忙しいのかとか、全然把握できてない。せめてもう少しゆとりがあれば、自分に振られた仕事を更に人に振り分けたり…ってことを考えられるのに、もはやそれを考える時間が惜しいほど、業務が逼迫している。別に仕事が忙しいこと自体はそこまで嫌じゃない。まぁさすがに度を超えてるとは思うけど、ベテラン職員が復帰するまでの期限付きの忙しさだし、どっちの部署の仕事も好きだし、頼られるのだって悪くない。年齢的にも働き盛りだし、むしろ毎日あくせく働く事に一瞬の快感さえ覚えている。
───ただ、今の俺には死ぬほど大切にしたい恋人が居る。
しかもまだ…なんというか、あんまり俺のものにできたって感じもない。付き合って長いって訳でもないし…、だから、もう丸3週間も会えてないのは、かなりキツい。シンプルに俺が会いたいし、会えない内に彼女の気持ちが離れたらと思うと気が気じゃない。透香は一切文句も言わずに俺の仕事を応援してくれてるけど、不満を抱えさせてたらどうしよう。逆に、全く寂しいと思ってもらえてなくても、寂しい。
……なんて思いを馳せている時間はない。
プリントアウトした企画書をホチキスで止めたら、広報部の担当へ渡しに行かねばならない。この令和になんだってこんなアナログなんだようちの職場は。まぁぶっちゃけ嫌いではないけども、メールに添付する方が早ぇのに。資料を片手に、早足のまま広報部が在籍するルームへ入ろうとすると、ちょうど中から出て来ようとした人とぶつかりそうになる。
「っ!すんま……せん………」
「……いえ、」
その人は、驚いた後スッと余所行きの笑顔を作って、俺の横を通り過ぎて行った。
ずぅんと胃が重くなる。
それは、この部屋の何人かの視線が嫌に刺さるからだ。
今すれ違った人は、今月から広報部に入った新人。
元選手で、俺にとっては…元、彼女。
初めて職場で顔を合わせた時、ほんの一瞬、本当に少しだけ気まずい空気が流れた。それを噂好きのババ……、年配の女性職員がすぐさま察知し、この有様だ。あら?そこの二人何かあるの?同い年で同じ大学?もしかして〜?ってのがまぁ当たっちゃってるから、こちらとしてはほとぼりが冷めるのを待つことしかできない。
とりあえず、仕事は仕事。
資料を担当者に渡して、さっさとその場を後にする。今日はこの後家に帰って、支度をしたらすぐ空港へ向かわなきゃならない。同僚達から励まされながら退社し、スーツケースを引っさげ、また家を出る。
人の少ない電車の中、会いたい人を思い浮かべる。それは言うまでもなく、最愛の彼女。………はぁ〜〜〜〜……、会いてぇ〜………。顔見たい。声聞きたい。会いたい。…のに、なんでこれから海外出張なんだよ……。会えないのはこっちの都合だから、文句も言えない。スマホのカメラロールの中、以前のデートで隠し撮りした彼女の写真を眺める。団子買って超ご機嫌のやつ。奇跡のベストショット。……もう待ち受けにしよっかな。
そういえば、篠崎のこと、透香に話せてないな…。
いや、言うべきなのか?言わないのも言わないでなんかアレだし、わざわざ言うのもそれはそれでアレじゃね…?頭の中で、透香に話した場合のことをシュミレーションしてみる。きっと彼女はぱちぱちと二、三回瞬きをして、コテッと首を傾げ、「…?そうなんだ?」って言う。それは私が知っておくべきことなの?なんでわざわざ言ったの??みたいな、そんな顔をするに違いない。実際やましいことは何も無い訳だし、会える時間すらない今、面白くもない話題をわざわざ出す必要もないか。…ってか、いつそんなこと喋る時間があんだよ。
透香の写真を本当にホーム画面に設定し、飛行機に乗ったらすぐに爆寝をかました。
───────────
出張中は、日本に居る時よりも自由時間が多かった。でもこんな離れたとこで時間があったって、透香に会える訳じゃない。一回だけ通話させてもらったけど、やっぱり寂しがってるのは俺だけな感じがする。…まぁ、変わらず仕事は応援してくれるし、体調も気にかけてくれてるから、飽きられたとかって訳じゃないんだろうけど。やっぱりちゃんと会って、顔見たい。つついて、本音を聞き出したい。
帰国したら一応代休は取ってあるけど、果たして本当に休めるのか…。
「黒尾さん、〇〇さんの連絡先知ってます?」
「黒尾さん、次の打ち合わせで見せる資料、レビューしてもらっていいですか?」
「黒尾〜、ちょっといいか〜」
あああああああ。
帰国して2日目、休暇を取っていたはずの今日、俺は職場に来ていた。
昨日も今日も、本当は透香に会うつもりだったのに、昨日は「時差ボケとかつらいでしょ?」って断られて、俺も案の定寝てたし、今日こそはと思っていたら仕事の連絡が絶えず、結局こうして来てしまった。なんとなく予想はしてたけど、なんでこうなるんだよ……。ただ、いい報せもあった。入院中のベテラン職員は、遅くても今月中、早ければ中旬くらいには復帰できる見込みらしい。つまり、俺の多忙すぎる日々も、せいぜいあと一月だ。毎日残業だしまとまった休暇も取れてないけど、終わりが見えれば人は頑張れる。ぐちぐち言ったって仕方ないし、今月もとにかく目の前の仕事を片付けることに専念しよう……。
そこから数日後、昭和世代の言うところの華金。
まだ事務作業が溜まってるってのに、飲み会も仕事の内だ!なんて言われ引っ張り出され、確かにメンツ的にも挨拶しといた方が良さそうだったし、後から続々といろんな人が合流して帰るタイミングを逃し、やっと解放されたのは23時過ぎ。朝までコースだ〜とか言ってる面々も居たけど、さすがにそれは断って逃げ帰ってきた。最近の過労や寝不足が祟ったのか、そこまで飲んでいないにも関わらず結構酔いも回ってしまったし、もう、さっさとベッドに倒れたい。
フラフラと覚束無い足取りでマンションの階段を上がると、通路に人影が見える。こんな時間に人が居るのは珍しいな…というか、なんで立ち止まってんだ…?ぼんやりする頭で考えながら歩みを進めると、その人が立っているのが自分の部屋の前だと気付く。そして更に近付くと、その人影が幻覚だと確信する。
「あ、おかえり。こんなに遅いんだね、お疲れ様」
「…………しゃべった……」
目の前に居る……いや、目の前に居るように見えている幻覚は、俺が会いたい人の姿形をしていて、しかも、声まで完全再現されている。透香がこんな時間にここに居るはずがない。会いたすぎて、ついに俺の頭がリアルな幻覚を生み出してしまったらしい。うわー、マジか、と思いつつ、幻覚透香を挟んで玄関の鍵を開ける。
「一瞬顔見ようかなと思って来ちゃっただけだから気にしないで、じゃあ帰…うわっ、」
お。
この幻覚、触れるんだ。
ドアを開けて、何か喋ってる幻覚透香の腰を抱き、そのまま中へ連れ込む。9月になり、夜は多少過ごしやすくなったとはいえ、まだまだ気温は高い。空調を効かせていない部屋の中もジメジメとした暑い空気がこれでもかと充満していて不快だ。こういった気候の中では、人との接触はできるだけ避けたい。───最愛の彼女を除いて。
触れる幻覚を、玄関ドアの内側と挟んで押し潰すように抱き締める。薄い布越しに体温が共有され、余計に暑くなってじとりと汗をかく。でも、それが嫌じゃない。むしろこのまま、境目が分からなくなるほど溶け合ってしまえばいいとさえ思う。幻覚透香の首筋に顔を埋めてスーッと匂いを嗅ぐと、彼女の汗の匂いが確かにして、酔いが加速する。……すげぇ、この幻覚、体温も、匂いも、全部リアルだ。…いや、もしかしてこれは幻覚ではなくて、俺はいつの間にかどこかで寝てしまっていて、夢でも見ているんだろうか。………どっちでもいい、なんだっていい。本物に会えるまで、乾きが癒えることはない。
「……はぁぁ……、会いてえ……、」
偽物をキツく抱き締めながら、本物を切望する。…とはいえ、本物以外には興味ナシ…ってこともない。腕の中の幻覚は、俺のよく知る彼女そのものだ。そして、本物でないのなら、嫌われたくなくて我慢しているようなことも、できてしまう。
「…あ、あの………っん、む…ぅ………」
何か言おうとした幻覚透香に、好き、可愛い、会いたい、そんなうわ言を言いながらキスをする。無意識に腰を押し付けてしまうけど、アルコールのせいで全然反応してねえな、これ。口開けてって言うと、幻覚透香は渋りながらも小さく口を開いてくれる。あー、やっぱ偽物は偽物だな……まぁ止めないけど。小さな口に舌を捩じ込みながら、以前こうした時のことを、透香が毎日思い出すと恥ずかしそうに言った顔を思い浮かべる。可愛かった。…いつか、彼女が本当の意味でOKを出してくれる日が来たら、次はまた本物と……
もっと深く、と舌を伸ばした瞬間、横隔膜がぎゅるりと翻り、喉の奥まで迫り上がる。
「ッゔ……!」
抑えられない強い吐き気に、口元を押えてトイレへ走る。ギリッギリ間に合い、便器の前に膝をついて嘔吐した。疲労や苦しみで掠れていく意識の隅っこ、透香が俺の背中を摩ってくれる幻覚を見る。……もうこれは、どれだけ無理をしてもそろそろ会わなきゃまずいな。そんな考えを最後に、意識は完全に沈められていった。
──────────
頭が痛い、身体が重い。
ここどこだ……?何してたんだっけ………。
ゆるりと瞼を上げると、見慣れた天井が見える。
えーっと……、、そうか、昨日は飲み会に連れてかれて……、あー……、吐いたんだっけ……。
腹に掛けられた薄い布団を払いながら上半身を起こすと、頭が締め付けられるように痛む。ぐしゃぐしゃと頭を搔きつつ自分の状態を確認すると、仕事着のままではあるものの、ベルトは外してるし、靴下もどっかで脱いだようだ。ワイシャツも第二ボタンまで開いてるし、寝苦しくて自分で色々やったんだろうか。全く記憶にないが。
とりあえず洗面所へ向かおうと、痛む頭を抱えながら立ち上がる。すると、視界に不可解なものが映り込む。ベルトと靴下が…床に並べられてる。それはどう考えても脱ぎ散らかしたような配置ではなく、まるで誰かがそっと置いたみたいに、並べられている。それともう一つ。ヘッドボードに経口補水液が置いてある。買った記憶は……ない。
えっ
え?
寝室を出て部屋を見渡してみても、別に誰も居ない。……全部自分でやったのか…?洗面台で顔を洗って、口をゆすぐ。身体の中で熱が籠っているような不快感があり、とりあえず冷たい飲み物を、と思って冷蔵庫を開くと、ここにも身に覚えのないスポーツドリンク。他にも、栄養補給用のゼリーとかも入っていて、明らかにおかしい。焦る心を鎮めるように500mlのスポーツドリンクを半分ほど一気飲みする。………そうだ、もし、もし昨夜の透香が幻覚じゃなかったのなら、何かしら連絡が入っているんじゃないのか?そう思い。不自然にテーブルの上に置かれたリュックからスマホを取り出す。充電が切れていたりするかもと思ったが、画面は表示され、そして、LINEのアイコンには赤いバッチが付いている。恐る恐るアプリを開くいてみると、思った通り、透香からメッセージが入っていた。
◯< 玄関ポストに鍵を入れたので、早めに回収してね
◯< 今日も仕事だったりするのかな。たまには当日休みの連絡を入れたってバチは当たらないから、無理しないでね
あ ああ あ あ
やった
完全にやってる
え嘘待って?
あんな深夜に会いに来てくれた彼女に?
ろくな会話もせずガッツいて?
あまつさえ吐いて?
その世話をさせて……?
さ 最悪すぎる 最低すぎる
ハッとして、透香からメッセージが来た時刻を確認する。……今から二時間ほど前……ってことは、もしかして、朝までここに居た……?スマホを握ったまま硬直していると、軽やかな通知音と共にその画面が動く。
◯< 呼んでもらえたら、仕事中じゃなければすぐ飛んでいくから、いつでも呼んでね
◯< えっ 既読ついた
◯< おはよう?大丈夫?
・・・・・。
好 き ッ … !!!!
考えるより早く指が動き、透香に電話をかける。するとすぐに呼出音が途切れ、出てくれた!と思って呼び掛けたが応答はなく、画面を見てみると応答を拒否されただけだった。……。心が急激に萎んでいくのを食い止めるように、「ごめん!今電車!」とメッセージが入る。え…今日土曜なのに、朝から出掛ける用事か仕事があったのか。…それなのに、昨夜はわざわざ会いに来てくれたのか。……なんか…、もう、すっっげぇ愛されてるじゃん……。彼女からの愛が、深く、広く、海みたいに包んでくれる。昨夜散々言った気がするけど、会いたくて死にそうって本音を文字にして送ってみる。するとすぐに「私が会いに行くから、タイミング見付けよ!」って返信が来る。
この人はいつもそうだ。
俺がポンコツになると、優しさを広げて、全力で包み込んでくれる。
………大事にしよ。一生。
この日から、俺は短時間であっても会える時間があれば伝えるようになったし、透香はメッセージで言った通り、会いに来てくれるようになった。
「っ悪い!部長に呼び止められて遅くなった」
「大丈夫。適当に注文しちゃったよ?」
「助かる」
昼休憩の時間になり、部長の話を最短で切り上げて近くのカフェへ向かう。今日は透香の仕事が休みで、もし可能なら一緒に昼飯を食いたいとお願いして来てもらった。店の外の席…と言ってもビル内なのでテラス席って訳じゃないが、通路からすぐ見える席に座る彼女の元へ駆け寄ると、テーブルには既に二人分の軽食が並んでいた。本来ならこんな短時間のために呼び付けるなんてしたくないし、駆けつけたりするのは男がするべきだろってポリシーもあるけど、彼女は「飛んでいきま〜す」とわざと軽く受け取って、こうして本当に来てくれる。
「わざわざありがとな、ほんとに。時間できたら、ちゃんと埋め合わせするから」
「うん?何か埋めなきゃいけないことあった?」
本当に分かっていないのか俺を安心させるためなのか、彼女はそう言って首を傾げる。
…あー…、可愛いな。やっぱ直接顔見れるのって良い。会えて嬉しい。
ついまじまじと見詰めていると、透香は「見すぎ」と照れて、ちょっと怒る。ほんと可愛い。俺の心の声はそのまま口から出てしまってるいようで、彼女は更にむむ…と顔を顰めた。
「決定権を剥奪します。ホットドッグは私のものですっ!」
「っふふ、どーぞ?」
ちょっと乱暴にホットドッグを掴む彼女を見て、俺もサンドイッチに手を付ける。頑張って口開けて頬張る姿を眺めていると、それだけでHPがぐんぐん回復していく気がする。あ、美味しくて眉間ふにゃふにゃになった。可愛い〜。……俺ってほんっと、この人のことが好きなんだな。…なんて、しみじみ思う。雑談をしながら穏やかにランチを楽しんでいると、胸ポケットに入れてる社用携帯がピーヒャラ鳴り響く。今は休憩時間だ。応じる義務は無い。ガン無視を決め込むが、透香は「出ていいよ」って言う。でも出たら、なんか、多分、すぐ行かなきゃいけない気がする。だから、あくまでも俺が休憩時間に電話に出たくないってことにして、その後も何通か掛かってた着信を全て無視した。
「今日はこの後何すんの?」
「んー、ちょっとお買い物して、ジム行って帰るよ」
「キックボクシング続いてんな〜」
「あ!黒尾さん居た!」
軽食を食べ終わり、コーヒを飲みながらまったりしていたところに、よく知った後輩の声が届く。さすがに直接来られては無視はできず、固く錆び付いた首を回して振り返る。多分今、研磨レベルの嫌そうな顔をしてると思う。後輩は透香の存在に気付き、話しかけていいものかと躊躇しているが、直接探しに来てる時点で急ぎの用だ。重たい溜め息を吐いて、一度席を立つ。
「どした」
「先方が会議の時間早めたいとか言ってもう来ちゃったんすよ〜……」
「はぁ〜?あんのジジイども相変わらず好き勝手してくれやがんな…」
おっと。
いつどこで誰が聞いているか分かったもんじゃない。声を潜めるタイミングを完全に誤ったが、いつも大変お世話になっているスポンサー様は相変わらずこっちの都合なんか考えようともしてくれない。会議は14時からの手筈だったのに…クソが。ただ、目の前の後輩は何も悪くない。むしろ、俺を連れ戻せなきゃ怒られるのはコイツだ。もう一度深い溜め息を吐き、すぐ行くから少し待ってろと伝えて席に戻る。
「……透香、ほんっっとうにごめん、」
「呼び出されちゃったね、行ってらっしゃい」
仕事に戻らなきゃいけなくなった、なんて、言わなくても分かるか。予定ではあと15分は一緒に居られるはずだったのに、透香は聞き分けよく微笑んで、文句の一つも言わない。彼女のその優しさには救われているけど、まるで自分だけが聞き分けの悪い子供みたいで居た堪れなくなるし、一緒に居たいのって俺だけ?とか、いや優しさもわがままもどっちも欲しがれる立場じゃねぇだろ、とか、なんか色々考えてしまってすぐに返事ができない。きっとビミョーな顔をしてるんだろう、それに気付いた彼女がすっと手を差し出すので、促されるままに俺もその手に手を重ねる。突っ立ったままの俺の手を、透香が両手で包む。まるで壊れ物を扱うかのように優しく、でもしっかりと。そして上げられたその顔は、これでもかってくらい優しく、柔らかな表情をしていた。
「…あのね、色々罪悪感を覚えちゃうのも分かるけど、本当に大丈夫なんだよ」
「好きな仕事を頑張ってる黒尾、かっこいいな〜っ…て、思ってる」
「だ、だから、むしろ愛が深まってる……?みたいな??」
「と、とにかく…、ちょっと会えないからって何かがブレたりすることはないから…」
「安心してお仕事頑張って」
「ね?」と、今更ちょっと恥ずかしそうに首をすくめる彼女を、ぼけっと見下ろす。
……………………。
………………………え………
え……す……
「好き……」
本心がそのまま口から零れていくと、それを聞いた透香は慌てて人差し指を口の前で立て、しーっ!ってする。確かに近くの席に人居るし聞かれてただろうけど、俺より君の方が情熱的なこと言ってなかった……?あれはいいの?聞かれても。動く気のない俺の手をパッと離して、「はい早く行って!私のことはまた呼んでね」と微笑みを向けてくれる彼女を名残惜しく見詰めつつ、ゆるゆると足を進めて後輩の元に戻る。振り返ると手を振ってくれて、それに俺も手を振り返し、歩き出す。
「彼女さん美人すね」
「それな」
後輩に適当に相槌を打ちながら、LINEでアイラブユー的なニュアンスのスタンプをこれでもかと送り付ける。透香からは「仕事しな?」と温度のない返信が来たけど、さっき直接聞いた言葉達を思い返せば、こんなのはただの可愛い照れ隠しでしかない。
俺は正直恋人を沼らせたいタイプだ。
特に透香みたいなしっかり自立してる人はベタベタに甘やかして、一人で歩けなくなっちゃってもいいかも〜みたいに思わせたい。そこまで食い込みたい。……と、思っているのに。
もう完全に沼ってるのは俺の方だ。なんだよあの最強彼女。全然構ってあげられない上に急に呼び出して会いに来させて、しかもそれも途中で抜けるようなクソ彼氏なのに、仕事頑張ってるのがカッコいい…?むしろ愛が深まる…??えぇ〜〜へへへへへ。男ってのは本当に単純なもので、好きな子にカッコいいって言われたらもう何だって出来る気がしてしまうし、実際できる。圧倒的エネルギー源。ダルいスポンサー様との会議も完璧にこなしてやるわ。なんたって俺は透香のカッコいい彼氏なんで。そんで仕事が落ち着いたら、張り切って旅行とか連れてっちゃおっかな〜。例えば…京都で着物リベンジとか。美味しいもんいっぱい食わして、観光して…、いや、そういう特別なのじゃなくたっていい。とにかくずっと一緒に居て、なんっでもしてあげよ。
職場に戻るまでの数分間、ひたすら惚気話をして後輩を困らせた。