赤い糸40,075km
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「結構人多いな、疲れたら言えよ」
「くひょおほへ」
「なんて?」
咀嚼していたお団子を飲み込み、「黒尾もね」と言い直す。
今日は少し遠出をして、蔵造りの古風な町並みを歩いていた。提案してくれたのは勿論黒尾で、「家デートばっかりだし、たまには観光でもしませんか」といった感じで誘ってくれた。家で会うだけでデートって言うんだ…と思いつつ、美味しいものをたくさん食べ歩きできると聞いて、「行きたい!」とすぐに話に乗った。
普段と違う景色を眺めるのは楽しいし、活気だった観光地に居ると自然と気持ちが高揚して、人混みもそんなに苦じゃない。というか、お団子が美味しい。さっき食べたサツマイモのスイーツも美味しかったし、楽園だ。
適当に歩いていると、着物のレンタルのポスターが貼られたお店の前を通りかかる。黒尾も同じものを見ていたようで、「レンタルの予約とかすりゃ良かったよな〜」なんてぼやいている。着物とか好きなんだ、意外…と思いつつ聞いてみると、“好き”というより“見たい”らしい。…それは好きとは違うんだろうか…?ちょうど少し離れたところに着物姿のカップルを見付け、失礼ながら指をさして黒尾にその存在を知らせる。
「ほら、着物着てる人居るよ」
「あ?あー、うん、居るな」
?
見たいって言ってたのに、その反応はかなり薄い。不思議に思って黒尾の顔を見上げると、黒尾も怪訝な顔をしてこちらを見ていた。──???
「……んも〜、1から10まで言わなきゃ分かんないんだから……。俺が見たいのは透香チャンの着物姿に決まってんだろ。なぁんで見ず知らずのカップル眺めなきゃならんのよ」
「えっ」
遅ればせながら、黒尾が「好きっつーか、見たいじゃん」と言った意味を理解する。恋人の普段と違う格好は、確かに見たくなるもの…だと思う。私も黒尾が着物を着るなら、できれば見たいし…、な、なるほど…。でも、今日見掛けた着物姿の人達は、殆どが若い人達だったように思う。中には私達より歳上かもと思うような方も居たし、ご夫婦で観光を楽しまれてるならとても素敵だと思うけど、自分のことになると別だ。なんかもう、この歳だと、ちょっと恥ずかしい。歩きながらなんて返事しようかぐるぐる考えていると、「浴衣とか着たことある?」と聞かれる。あるよ、と素直に返すと、彼はちょっと苦い顔をした。
「それっていつ頃の話?ガキの頃?最近?誰と……ってのはやっぱ無し、聞かないでおく」
一人で頭を抱えてしまったので、反応するタイミングを逃してしまう。浴衣は、子供の頃も着せてもらったし、大人にってからも何度か着た。誰と…と言われると、当然友人となんだけど、その内の数回はほぼ赤葦くんと一緒に居たし、写真も探せばありそうだけど、それも多分、隣には赤葦くんが居るはずだ。何もやましいことは無い。無いけど、あんまり言うことでもないのかなと思って結局何も言えない。黒尾はひとしきり頭を悩ませた後、すっと顔を上げた。
「今年…、夏祭りとか、行きません?」
「あ、い……行きます、か…?」
そんなにキリッとした顔で言うことなんだろうか。私はお祭りは結構好きだ。理由は単純明快。屋台の食べ物が美味しいから。だからそんなに意気込まなくても、誘ってくれたら普通に行くのに。いつ、どのお祭りに行こうかって話をするために、一旦甘味処に入って小休止することにした。
「透香の浴衣、すげぇ楽しみ。…俺も着た方がいい?」
「ど、どちらでも…」
「鉄くんの浴衣姿は興味ナシ?」
「………あるけど…」
にんまり。
黒尾は満足そうに口角を上げて、用意できたら着て行く、と言った。わらび餅を食べながら月末の花火大会に行くことを決めてお店を後にし、その後はドーナツを食べて、お饅頭を食べて、お団子をおかわりして…。お腹が幸せでいっぱいになったところで帰路に着く。手には大量の駄菓子と、自分用のお土産に買ったどら焼き。足はちょっと歩き疲れたけど、楽しかったなぁ。上機嫌が顔に出てしまっていたのか、隣で吊革に掴まる黒尾が「楽しかった?」と聞いてくる。TPOを弁えたその潜めた声に、自分が酷く子供っぽく思えて反射で眉間に皺を寄せる。でもすぐにこうやって素直じゃない態度を取る方が子供っぽいと気付いて、「楽し…かった」と返事をする。本当はもっと明るく、笑って言いたかったのに、全然上手くいかない。もっと可愛げがあった方が、きっと黒尾も喜ぶはずなのに。
「今度はさ、人力車乗ったり、蕎麦打ち体験とかもやってみてぇよな」
「あ、蜻蛉玉も作ってみたい」
「うん」
私が全然可愛くなくても、黒尾は気にしない。…いや、しょっちゅう可愛い可愛いと言ってくるから、恋人フィルターみたいなものが掛かっているのかも知れない。私も、付き合ってからよりこの人のことを可愛いと思うようになったし、そういうものなんだろう。でも、そんなフィルターなんか無くたって、この人を喜ばせられる人はこの世界にいくらでも居るだろうに。黒尾は車内で迷惑にならないように声のトーンを下げて、「今度」なんてあるか分からない未来の話をする。あまり深く考えずに返事をすると、優しく笑ってくれた。
私はこの人が大好きで、その気持ちだけなら誰にも負けないって自信がある。でも、隣に居させてもらうのに気持ちの大きさなんか関係ない。性交渉はできませんなんて宣言していたのを撤回して、それで晴れて私も普通の恋人という土俵に立てるのだと思った。でも、そう上手くはいかなかった。黒尾は変わらないでいいと言ってくれたけど、彼に望まぬことをさせてしまった原因はきっと私にある。とはいえその原因がハッキリと分かっている訳でもなくて、あれからまた少し、接し方に迷うようになった。そしたら迷う私をこうして連れ出して、別の景色を見せてくれる。
こんなに大好きなのに、どうして与えられるだけで何も返せないの。
なんで黒尾はこんな人と付き合ってるの。
もっと普通になりたい。
この人を喜ばさせられる最高の恋人に、とまでは言わない。
せめて、普通になりたい。
──────────
◯< 本当にごめん
◯< 花火大会行こうって言ってた日、出張入った
◯< てかなんか広報部のヘルプ入ることになりそうで、忙しくなるかも
浴衣を取りに実家に帰っていた休日。スマートフォンがピコピコと鳴る。号泣しながらジタバタしているスタンプをスクロールして、メッセージを確認する。…あらら。大変だな。黒尾みたいにコミュニケーション能力が高くて要領のいい人は、何かあった時いの一番に頼られる存在だ。それはとても素敵なことだと思うけど、本人は大変だろうな。
◯> 了解です
◯> 私のことは気にしなくていいので、お仕事頑張ってください
◯> あ、身体壊さない程度にね
いい感じの返信ができたと思ったのに、また大号泣&大暴れのスタンプが返ってくる。そ、そんなにとんでもなく忙しくなるのかな…可哀想に……。えっ、なんか、なんかできることあるのかな?恋人の仕事が忙しい時……、後で調べよう。一旦スマホを置いて、台所へと向かう。
お母さんが夕飯を作ってくれているすぐ隣りで、その様子から勉強させてもらったり、できる限りのことを手伝う。やっぱり、料理は出来るようになった方がいいな。黒尾が忙しくなるなら、お料理教室に通ってもバレないかな。それでもし出来るようになったら、疲れて帰って来た黒尾に「ご飯できてるよ〜」とか、言ってあげられるかも知れない。別れるまでに間に合うのかは分からないけど、何もしないで居るよりはずっといい。
久しぶりの母の手料理を平らげ、満足して自室に戻る。スマホを見ると、再びLINEの通知が来ていた。
◯< 仕事はしょうがねぇけど、透香に会う時間減るのがつらい
◯< というか花火大会……
◯< 浴衣見たかった………
というメッセージの後に、泣き喚くスタンプが3つほど。
・・・・・。
今、私の目の前には数年間箪笥で眠っていた浴衣がさぼしてある。特にカビたり汚れたりはしていなかったから、大丈夫そうだなというのは確認済みだ。でも花火大会には行けなくなってしまったので、また仕舞わなきゃ…と、思って、いた。
・・・・・。
…コレ、今着てみて写真でも送ったら、喜んでもらえるのかな。
そッ…!!!!
そんな訳なくない?!?!
なにその発想。モデルやアイドルでもないのにそんなもの見せられたって黒尾が喜ぶ訳…!!いいえ落ち着いて。見たいってハッキリ言っていたでしょう?自信がないからって彼の言葉を曲解するのもいい加減になさい。はいすみません…。でもでも、お祭りの日でもないのに写真を送るためだけに浴衣を着るなんて、なんだか変じゃないでしょうか?ええいうるさい!変かもって気にしてまた何も行動しない気?!彼のためなら多少の恥くらいかきなさい!!はい!!すみません!!!
───脳内会議の末、一旦は準備を進めてみようという結論に至った。
どうせ着るなら、他もちゃんとしたい。浴衣に合うかなって考えてたメイクとか、動画で調べたヘアアレンジとか、せっかくなら全部やろう。アッでも今日は普段使い用のコスメしか持って来てないし……しょうがないか。…いや、去年、お母さんの誕生日にプレゼントしたアイシャドウ、貸してもらおうかな。
おりゃああ〜っ!とメイク、ヘアアレンジをして、浴衣に袖を通す。歩き回る訳でもないので、着付けはそこまでしっかりやらなくてもいい。帯も簡易的なものだから、一人で難なく着ることができた。
・・・・で、できた。
・・・・・。
うわぁあああ!
なにしてるのなにしてるの?!
実家の部屋で一人、突然フル装備してる変な人になってしまったぁあ!
ああああ……。右往左往しながら、具体的にこの後どうしようかと考える。そもそも、写真ってどう撮るの……?自撮り文化というものにあまり詳しくないので、やり方が全然分からない。…インカメにして、ピーース……??うっ…うぅ…恥ずかしい…泣きそう…。他の方法は……あっ、なんか鏡に自分を映して、それを撮る…みたいなのも見たことあるかも。部屋にある古い全身鏡の前に立ち、スマホを向けてみる。……えっ、えっ、この時表情は??ポーズは??スマホの位置どこ??浴衣隠れちゃったら意味なくない??えっでも顔隠しても怒られそうじゃない??
途方に暮れる。
あ、やっぱり、駄目だ。私にはできない。
やめよう…こんなこと……。
ちょうど「透香ー?お風呂入んないのー?」って声も聞こえてきたし、私にしては十分頑張ったということで……。
帯を外そうとしたところで、また脳内会議が始まる。自分なりに頑張った、なんて言っても、成果はゼロ。何も出来ていないのと同じ。こんなことじゃ、黒尾から貰いっぱなしなたくさんのものを、一つも返せないまま終わってしまう。………でも、やっぱりできる気がしない。
…それなら、最後の賭け。
今、予告無しに電話を掛けてみて、もし黒尾が出たらビデオ通話に切り替える。もし出なかったら。今日は、ここまで。………。考えるな!動け!あまり通話機能を使ったことがないので迷いつつも、ブレブレの指先でなんとか電話を掛けることに成功した。テテテ、テテテ、テテト、テロ、テロロン♪と軽やかな待機音が響く。1回、…2回、3回…目の途中で音がブツリと途切れ、『なに、どした?』という声が聞こえてきた。
「あっ、がっ、画面……、見て、」
『…画面?』
カメラのアイコンをタップすると、画面に自分が映し出された。うええ!もうやるしかない…!やるしかないんだ…!スマホを机の上でいい感じに立てかけて、距離を取る。『はっ?!』って声は無視して、右にくるり、左にくるりと回って浴衣が全部見えるようにする。顔は……多分、全力でしかめっ面だ。そして『はっ?はぇ??ほあ??』と音がするスマホの元へ戻り、そのまま、通話を切った。
ポロポン……♪
…ふぅ……。
過ぎ去ったことを考えるのは止めよう。今日はもう疲れた。ゆっくりお風呂に入って、寝……テテテ、テテテ、テテト、テロ、テロロン♪ テテテ、テテ、ブツッ。……。 テテテ、テ、ブツッ。
◯< お願いお願いお願いお願いお願い無理無理無理無理無理無理無理無理お願い本当にお願い
一生のお願い、後生ですから、と怒涛のメッセージが来た後、再び電話が掛かってくる。キリがないので渋々応答ボタンをタップすると、画面に黒尾のアカウントのアイコンが表示された。
『おっ、あっ、ちょ、ちょっと君ねぇ!!なんっっつー可愛いことしてくれちゃってんの?!』
「…………」
『あっ?あれ?聞いてる?!』
「聞いてる…」
『……、自分でやって恥ずかしくなっちゃったの?可愛す
ポロポン…♪
いつでも通話を切断できるようにと構えておいた人差し指を瞬時に動かす。もう私は限界だ。限界を超えている。もう風が吹いただけで倒れそうなほど疲弊している。もう無理だ。さぁお風呂へ…と思うけど、再び着信、メッセージ、着信…。しつこいし、そもそも私は黒尾を喜ばせられないかと思って発起した訳なので、頭を抱えながらもう一度応答する。そして『あの本当にお願いなんでもう一回見してもらえませんか…、絶対からかったりとかしないから』と懇願されたら、断ることはできない。画面には不服そうな顔をした自分が映し出されて、結構居た堪れない。自分には見えないようにする方法ないのかなと探るけど、使い慣れていないので分からなかった。黒尾は『ありがとう……天使……』なんて言いつつ、私が画面を変えたがっていることを察して色々と教えてくれる。
『ってか、お礼に鉄朗くんのセクシーショット見したげよっか』
「?セクシーなの?」
『紛うことなくセクシー。ほれ、』
パッ、と画面が切り替わり、そこに黒尾が映し出される。びっくりするより先に、髪からしずくが滴っていることが気になって、第一声が「ちゃんと髪乾かしなよ!」になってしまう。画面の中の彼は首にタオルを掛けていて、映し出されている上半身は服を着ていない。どうやらお風呂上がりのタイミングだったようだ。寝癖のついていない髪は前も見たことがあるけど、やっぱり誰?とは思ってしまう。黒尾は私の指摘に対して『そこ?』とツッコミつつ、タオルでガシガシと髪を拭く。…というか、そんな状態なら通話なんてやめて、ちゃんと服着て、ちゃんとドライヤーした方がいいのでは…?そこも指摘するけど、『うんにゃ、こっち優先。まぁ服は着るわ』と言って、通話を繋げたまま移動し始めたようだ。スマホがどこかに置かれた音がして、天井が映し出されると、ガサゴソと音がする。……なんか、なんか、すごいな、ビデオ通話って。どのくらい利用者居るんだろう。なんだかすごくソワソワするけど、みんなやってるのかな。
『ほいほいっと。セクシーさ抑えて来ましたよっと』
「あぁ、うん」
『うんて。…ってか、どこ居んの?実家?』
また画面内に戻って来た黒尾がこちらの部屋を覗き込んでくる。質問に肯定を返して、そこから流れで雑談とか、黒尾の仕事についての話なんかが続いていく。出張と言っていたのは海外出張らしく、二都市を回るので10日間ほどかかってしまうらしい。それと広報部の手伝いについてもほぼ確定で、先月末でベテラン職員が退職し、新たな人員は補充されたものの、そのタイミングで別のベテラン職員が検査入院することになったんだとか。恐らくそのまま手術になり、復帰には早くても1ヶ月ほどかかるのでは、と黒尾が話す。画面には私の姿も小さく写ってはいるけど、ほとんど黒尾が占拠していて、普通に会って話しているような感覚だ。
『まだどんくらい仕事振られるかとか分かんねぇけど、マジで…会える時間が……取れなくなるかも………』
「そっか。身体を休めるのが優先だから、無理して時間作ろうとしたりしないでね?」
『…え〜〜』
「透香ー!お風呂ー!」
一階からお母さんの声が響いて、もういい時間だということを思い出す。ドアの方へ向けていた視線を画面に戻すと、黒尾が目を丸くしていた。どうやら聞こえてしまったようだ。それがちょうどいい合図となって、通話を終わらせる流れになる。今の姿を写真に撮って送ってくれと言われて、拒否したらせめてもう一回ちゃんと見せてと泣きつかれる。さっきやったように少し離れて、くるりくるりとくまなく見えるように身体の向きを変える。表情は相変わらず…だけど、多分さっきよりはちょっとマシになってるはず。黒尾は満足したように笑って、『マジでありがとう。すっっげぇ元気出た』なんて大袈裟なことを言ってくれた。
通話を終えて、髪にいっぱい付けたピンを外し、お風呂へ向かう。
久しぶりの広い湯船でくつろぎながら、自分にできることはなんだろう、とまるで日課のように自問自答する。忙しい恋人へしてあげられることは明日調べるとして、とりあえずは、やっぱり普通を目指したい。黒尾が私に不満を抱えていると思っている訳ではない。でも、私が考えてしまう。もっと素敵な女性と付き合っていたら、黒尾はもっと幸せなのに、と。私には色んな事ができない。でも得手不得手は人それぞれあるもので、苦手なものに固執して努力する必要はない。…という考えではあるものの、今は努力したい理由がある。“できない”を“できる”にしたいという目的は勿論あるけど、でもきっと、「努力はしている」ということを免罪符に安心したいだけ、というのが本命だ。浅ましい。でもしょうがない。人間だもの。
さて。
くよくよしている暇はない。
“普通”へ向けた具体的な努力プロセスを考えよう!
私ができるようになりたいもの。それは、
丸1! 性的同意!
丸2! 料理!
まず①について。
付き合う前、性交渉はできないと告げた私に彼は迷いもせずそれでもいいと回答をした。そこで私は、彼はそういった欲求があまり無いタイプなのだと思った。しかし!!実際はそうではなかった。普通じゃない私に、黒尾が合わせてくれていただけだった。黒尾は恋人にそういった欲求を抱く人。そして、相手には“心の準備”と“確かな同意”を求める人。見た目に反してとっても誠実なのが彼らしい。…でも、私にはかなりハードルが高い。もう好きにしてくれればいいのに、私の意思を尊重されてしまうと、自分の拙劣な部分を直視しなくてはならなくなる。でもここで諦めちゃ駄目だ。普通になるんだ!ということで、己を見つめ直し、根本的な原因、課題を二つ挙げてみた。
一つは、兎にも角にも恥ずかしいということ。自分から黒尾に触れるのは恥ずかしくない。でも黒尾に触れられるのは、どんな接触であれ基本的に恥ずかしい。それは他でもなく好きな人だから、自分のことを知覚されていると思うと逃げ出したくて仕方なくなる。
二つ目は、シンプルに物理的恐怖。怖すぎる。でも恐怖というものは無知から来るものも多い。実際私は性行為に関する知識は浅いし、よく知れば恐怖は和らぐかも知れない。羞恥心の克服方法も含めて、また明日にでもじっくり調べてみよう。
②についても考えたいところだけど、そろそろ逆上せてしまいそうなので今日はここまでにする。
───────────
「いや〜〜、なんだか美人さん揃いで、華がありますなあ」
「ははははは!いやいや田町さん、最近じゃそういうのは、セクハラ!って言われちゃうんですよ!」
なはははは………。
えー…、本日は、コラボイベントを取り仕切るメンバーの顔合わせ…という名目の飲み会へ参上しています。
マーケティング部へ異動してから4ヶ月が経ち、ついにイベントをメインで担当させてもらえることになった。コラボ相手は、JVA。うちの上司と先方の方は元々面識があるようで、実質ここは二人の飲み場with部下といった状態だ。挨拶は早々に済んでおり、後はもう、あまり意義のない会話に笑ってみるだけの時間となってしまった。
でも、私は満足していた。
何故なら、斜め向かいに憧れの選手が居るから……!!
「久世さん、だし巻き玉子届きます?」
「あっあっ…!ありがとうございます…!」
バブル世代の会話を軽くいなしながら気を配ってくれる女神のような彼女は、篠崎里奈選手。───いや、元、選手だ。引退された後JVA職員になったというのは記事で読んで知っていたけど、イベントメンバーに名前が載っていた時は本当に驚いた。彼女はV2チームをV1へ昇格させた立役者で、チャレンジマッチの時の執念のディグは今思い出しても鳥肌が立つ。本人に会えて、思わず興奮気味にそのことを話すと、びっくりしながらも優しく受け止めてくれた。そして篠崎さんは、おしゃれ番長としても有名な選手だった。スポーツ選手はお洒落は二の次。でも彼女は、いつも細かな拘りが光っていたし、オフの日の姿がたまにSNSで話題になっていたりして、私も楽しませてもらっていた。
そんな憧れの人と、一緒に仕事ができる。
私の仕事へのモチベーションは、かつてないほどに高まっている。
「美人さんと言えば、うちの篠崎ねえ、そういえばうちに元カレが居るって話が〜私の耳にも入って来たんだけどねえ、その辺って、聞いたら駄目なのかね?」
「そうですね〜、セクハラ、パワハラ、モラハラ…どれですかね?」
ははははは……。
酔った上司達のデリカシーのない発言にも動じず、乗らず。しかし空気も壊さず。その対応力にキュンキュンしてしまう。彼女は大人っぽい性格の反面、お顔立ちは可愛らしい。確かにこんな素敵な人が職場に居たら、噂話の一つや二つ流れてしまうものなのかも知れない。
・・・・・。
頭の中で、点と点が線になる。
黒尾がヘルプに入っている広報部。
そこに新しい人員が入った…というのが恐らく篠崎さんのこと。
そして元カレが居るなんていう噂。
篠崎さんの出身大学は選手情報で見て知ってる。黒尾と同じ大学。
そして篠崎さんは、私たちと同い年。
斜め向かいの彼女へ視線を向ける。引退されてから伸ばしているその艶やかな髪は、……そうだ、あの時の。私が就活している時駅で見掛けた、黒尾の隣に居た女性。あれはきっと篠崎さんだったんだ。
数秒、思考が止まる。
動きも止まってしまっていたのか、凝視する私の視線に気付いた彼女が不思議そうな顔をする。そこで我に返り謝ると、少し潜めた声で「退屈ですよね〜」と言ってくれた。
「では!期待してるぞお若手諸君!」
「田町さん2軒目行きますよね?!」
わっはっはっはっは………。
あまり意義があったとは思えない飲み会が終了し、やっと解放された。疲れ切った私の隣で、篠崎さんは「暑い〜」といって手で顔を扇いでいる。彼女は平均身長よりちょっとだけ高いくらいの、小柄なリベロだった。やっと正面から「改めてよろしくお願いいたします」とお伝えする時、私よりも目線が下なんだな、と気付く。コートの中の彼女はとても存在感が大きかったから、私より背が低いなんて、数字では知ってたはずなのに、新鮮に驚いてしまう。「新人も新人なのでご迷惑をお掛けしてしまうかも知れませんが…よろしくお願いします」と言って社交的な笑みを見せてくれる篠崎さんは、やっぱり尊敬に値する人だ。
◯< 今日なに食った?
◯> 枝豆 イカゲソ だし巻き玉子 フライドポテト 焼鳥
◯< めっちゃ居酒屋じゃね?
◯> めっちゃ居酒屋だった
◯< え珍し。誰と?
◯> 仕事で
◯< なるほど、お疲れ
◯> お疲れは黒尾でしょ?さすがにもう家帰れてる?
◯< さすがにな
夜、寝る前に少し黒尾と連絡を取る。
あれから彼は見る見るうちに忙しくなった。
一度だけ食事には行ったけど、あとは予定が合わなかったり、黒尾の仕事が終わらなくて流れてしまった。私としては一、二ヶ月会えなかったとしても特に問題はないけど、黒尾はマメな人なので、せめて電話、せめてメッセージ、と色々やろうとしてくれている。電話はやっぱり得意ではないし、メッセージの方が相手の都合も考えすぎずいられて楽なので、会えなくてもLINEで連絡を取ろうということになった。
恋人が忙しい時どうするべきなのかについては調べた。
どうやら「私と仕事どっちが大事なの?」などと詰めず、彼の仕事を応援してあげましょう…というのが世間の最適解らしい。そんなことでいいなら結構クリアできている感じがする。そもそも、寂しいという気持ちがない。むしろ、私のこれまでの人生を考えたら、最近は黒尾濃度が高すぎていた。もうちょっと薄まっても全然大丈夫だ。もし寂しければ、恋人が仕事を頑張っている間、自分も何か趣味でも見つけましょう…ということが推奨されていたけど、私はお料理教室に通うのは断念した。黒尾が急に「今日は時間取れそう」と連絡をくれた時、私がジムの予約を入れていて断る…ということがあったから、あんまり予定を詰めるのもどうかと思った。
少しだけLINEを続けて、「今日もお疲れ様、おやすみ」と言って会話を切り上げる。
さてさて。
ベッドの下に隠すように置いていた箱を引っ張り出す。これは通販にて購入し、つい先日届いたばかりのものだ。
私の課題、①と②。②については、お料理教室は断念したものの、空腹時でなければ私も手元に集中できるのでは?という考えに至ったため、時間のある日にちまちま挑戦する方針とした。①について、まず羞恥心に関しては、ネット上では納得のいく解消法を見付けることができなかった。パートナーとの信頼関係がどうとか、雰囲気作りがどうとか…あまりピンと来ない。とりあえず、自分の身体に自信満々だったら羞恥心は減らせるのでは?と考え、様々なケア方法を調べた。バストケアとかヒップケアとか、肌を滑らかにしてくれるクリームとか、今まで存在すら知らなかったものが、この世にはたくさんあるんだということに驚かされた。クリームについても通販で購入済で、そろそろ届く手筈になっている。
今手にしているものは、物理的恐怖心の方を克服するためのものだ。
こちらについても、基本的にはパートナーとの信頼関係が〜と謳っている記事が多かったものの、これだ!という解消法に辿り着くことができた。それがこの……シリコン製の………棒……?スティッ…ク……??確かな名称は分からないけれど、これは私のように物理的恐怖心を拭えない人のための商品だ。レビュー欄には「病院で検査器具を入れるのが痛くて…」と言う人や、私と同じように「初めて恋人ができて…」と言う人が多く居て、この商品で第1歩を踏み出せた、という高評価を付けていた。基本的にはただの……棒?だけど、バイブレーション機能なんかも備わっているらしい。あまり使用機会が想像できないけど、とりあえず電池を入れてボタンを押してみる。
「うわわわわわわわわわわわ」
なにこれなにこれ?!
いつ使うの?!
なんのために使うの?!
思ったよりも強い振動に驚き、慌ててボタンを押すと振動はより強くなる。アアアアアアアアア。な、な、なんかモード?!?があるの???必死にボタンを長押しすると、棒はようやく静止した。…………、怖かった………。とりあえずこの機能は危険だし…電池は抜いておこう……。
そしてもう一つ、一緒に購入することを推奨されていた…ジェル…?ローション…?を手に取る。これで摩擦による痛みを軽減させるらしい。色んな物があるんだなぁ。では早速、棒に潤滑剤を塗布しよう!容器を圧迫し、手のひらへじゅぴぴぴぴ…と潤滑剤を出す。
う゛っっ、
う゛・・・
ううううう・・・、
気持ち悪ぅぅ・・・・!
おええええ
やだやだやだやだやだやだやだやだやだ
ぬとぬとが乗った左手を硬直させたまま、洗面所へ走る。勢いよく水で洗い流し、更にハンドソープで二回ほどよく洗って、やっと奴の存在を感じなくなる。…え……き、きもっ…、きもっ……、えっ、きもっ…、き、きもちわる………。突っ立ったまま手のひらを見詰め、呆然とする。心臓はまだバクバクと早鐘を打っていて、呼吸も浅く、苦しい。………え、ここで躓くの……?こんなことでは、棒をぶっ刺すなんて夢のまた夢だ。大多数の人ならそもそもやる必要のないこと。その、初歩の中の初歩。最初の一歩で、怖気付きそうになる。
・・・・・。
今日は、もう寝よう。
ネガティブになったって、何も生まれない。少なくとも、道具が揃ってスタートラインには立……、スタートラインに、指先くらいはかかったはずだ。小さくても進歩は進歩!うんうん。前進できてる。
寝室に戻って、恐怖のぬとぬとと棒を雑に仕舞う。ま、また明日…対戦を挑んでやるからな…!……………。思い描く“普通”は、また遠く、遠くへ行ってしまった。胸の辺りがザワザワと嫌な感じがするのを無視して、部屋の明かりを消し、目を閉じた。