赤い糸40,075km
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カツン。
デスクに手を置くと、硬い音が小さく鳴る。
一体なんだろうと思って、すぐに指輪を付けていることを思い出す。これももう何十回目なのか、まだまだ慣れる気がしない。新しい素材を使った新ラインナップの社内向け記事を作成しながら、左手の小指をそっと見る。そこには繊細なデザインの指輪が嵌められていて、もう、本っ当に見慣れない。まるでそこだけ自分の指じゃないみたいだ。できれば肌身離さず付けていてほしいとのことだったので付けているけど、似合ってるのかもよく分からないし、なんだか気恥ずかしくて、もにょもにょする。
「久世さん、急だけど16時から打ち合わせ入れていい?メディア発表について説明したくて」
「あっ、はい。大丈夫です。お願いします。」
仕事はまだまだ覚えることも多いし、余計なことを考えている暇はない。それが私にとってはむしろ救いで、こうやって日々を過ごしていく内に、きっと色んなことに慣れていくんだろう。指輪を付けることも、黒尾と恋人になったことも、赤葦くんと疎遠になってしまったことも。
仕事を終えた後はジムへと向かう。最近、キックボクシングに通い始めた。食事の誘いを断った時にそのことを伝えたら、黒尾は「なんで?!」とものすごく驚いていたけど、「強くなりたいから」と言えば今度は困惑していた。
正直なところ、考えてしまう時間を無くしたいから、というのが一番の理由だ。ぼんやりしていると、どうしても色々と考えてしまう。赤葦くんは最近どうしているかなとか、仕事忙しいかなとか、ちゃんとしたごはん食べれてるかなとか。
定食屋で会って以来、彼とは一度も連絡すら取っていない。食事に誘っていいのか分からなくて私からは連絡できないでいるし、赤葦くんからも連絡は来ない。…ということは、つまり、やっぱり、そういうこと。
もし私か赤葦くんかどちらかが木兎みたいな性格だったら、連絡がぱったり途絶えるということはなかったんじゃないかと思う。でも残念ながら私達は二人とも、人よりあれもこれも考えてしまうタイプだ。だからお互いに遠慮してしまうと、こうなる。
元気にしてるかな、赤葦くん。
会いたいな。
「右、左、脚!ワンツースリーでいきますよ!」
「はい!」
考えちゃいけないことを、考えずにいられるように。トレーナーさんの掛け声に合わせて、ミットにパンチとキックを打ち込む。身体を動かすのは気持ちいい。こうやって考えないようにして、少しずつ、慣れていくしかない。それしかない。
─────────
◯> ご自宅にいらっしゃいますでしょうか?
◯< 居るけど
◯< どした?
◯< 来る?
◯< おいで
◯< 迎え行くか?
また数日後の、平日の夜。
取材で残業してから、買い物をして、目当ての物を手に入れたので黒尾に連絡してみる。今から行ってもいいかと確認する前に全力歓迎モードのメッセージが帰ってきたので、迎えは断って向かうことにした。指に食い込む重い紙袋の中には、バスボムやボディーソープなどが詰められたギフトセットが入っている。男性向けのラインナップのもので、ジメジメした今の時期にお勧めされていた清涼感のあるものだ。
これは一応、一応、指輪のお返しとして買った。
この指輪が一体いくらくらいするものなのか、私にはさっぱり分からない。調べてみても特定はできなかったし、相場もピンキリ。ただ、私が今提げているギフトセットよりはるかに高いであろうということは分かる。これだけでは到底足りない。足りないけど、そもそもお返しをするべきなのか、というところから疑問だ。調べてみても、何でもない日にプレゼントを贈ってくる男性は滅多にいないらしいし、男性って気が利かないよね〜って話とか、出張のお土産にお返しするかどうかとか、私の知りたい情報とは違うものがたくさん出てきた。
世の中の恋する皆さん、もっと色々教えてください。何でもない日にペアリングを贈られたら、どうするのが正解なんでしょうか。わざわざネットに書く程のことでもないくらい、皆さん普通に経験済みですか?それとも珍しいこと?
どっち??
ぐるぐる考えている内に、黒尾の部屋の前まで辿り着いてしまう。
──多分……大丈夫。
もし、そもそもお返しをすること自体が男性の面子?を潰してしまうような失礼なことだったとして。黒尾なら「律儀ね〜」なんて言って許してくれる気がする。逆に、お返しがささやか過ぎたとして。それも黒尾は気にしないはず。彼は昔から与えて満足するタイプの人だった。始めから見返りを求めて施すというタイプではない。万が一受け取ってもらえなかったら自分で使えばいいし、受け取ってもらえても、消耗品だ。そんなに困らせない…はず。本当はちょっとお高い食事でもご馳走しようかなと思ったけど、食事に行って喜ぶのは私の方だから止めておいた。
もう何度も来てるのに、未だに少し緊張しながらインターホンを押す。すぐに中から足音が聞こえてきて、ドアがガチャリと開かれた。
「おーす、どした?」
「っあ、あ、えっと、」
「うん?おいで」
サッと渡して帰るつもりが、言い淀んだせいで玄関の中へ招き入れられてしまった。「もう飯食った?」と言いながら部屋の中へ戻ろうとしてしまう黒尾を慌てて引き止め、「これ!」と紙袋を差し出す。振り返り、目を丸くする彼に指輪のお返しのつもりだと説明すると、声を漏らして驚いている。お返しするの失礼パターンだったかな……?!
「えっ、マジか。…気ぃ遣わせた?」
「えっ?!遣ってないよ!え?!遣った?かな……??」
想定してなかったパターンの反応をされて、意味不明な返答をしてしまう。黒尾は「どっちだよ」とツッコみながらも、紙袋を受け取ってくれた。その表情から困惑は感じられないし、とりあえずは大丈夫だったようだ。お店のロゴを見て「石鹸?」と聞いてくるので大体のセット内容を伝えると、有り難く使わせてもらう、と笑ってくれる。良かった。指輪を貰ってからずっとモヤモヤしていたものの一つが解消して、ほっと胸を撫で下ろす。
「てか、上がってかねぇの?」
「うん、帰るよ」
「…なんで?」
「なんで?!」
なんでってなんで?
今日は突然の連絡だったし、用はもう済んだし、後はもう…特に何も持ってないし。それに、お腹がペコペコだからさっさと帰りたい。お返しを渡せて安心したら空腹なのを思い出してしまって、今にもお腹が鳴りそうだ。そういえば今日の昼食はおにぎり一つしか食べれなかったんだった。時間的に黒尾はもう食べただろうし、私も早く食べたい。お腹空いた。帰りたい。
「急いでんの?」
「急いでる…かな?」
そろそろエネルギーが切れて倒れてしまう。
なんだか寂しそうな黒尾には悪いけど、私はご飯を食べに行かなきゃいけない。買って帰るか…いや、どこか近場で食べて帰ろう。もうしんじゃう。「じゃあまたね」と言って踵を返すと、私より先に黒尾がドアノブを握る。開けてくれるのかと思いきや、その手はむしろドアが開かないように内側に向けて力が込められているように見える。
「…次いつ会えんの?」
「へっ」
顔だけ振り返ってみると、黒尾の拗ねたような顔が思いの外近くにあってまた向きを戻す。
……つ、次ぃ…?
別に会おうと思えばいつでも…明日でも、明後日でも。あっでも明後日はまたジムの予約入れてるし…明日はできれば早く帰ってキッチンで格闘してみようとは思ってるけど……。………というか…お腹が空いてあんまり頭が回らない……。
「んまぁ別にいんだけどさ、連続で断られてて彼氏はちょっと寂しいですよってことは表明させていただきます」
連続…?
前回はジムで断って、その前は………あ、そっか、急に会議になっちゃって断ったんだ。ぼんやり思い出すけど、そんなことより、もう、エネルギーが。
返事をしない私を不審に思った黒尾が「…?透香?」と名前を呼ぶその声をかき消すように、地鳴りがする。
ぐおおおおごごごおおごごご。
ぐぅごごぎょぎょぎょぎょ。
ごああぁどどどどどどど……。
お腹の音が、低く、大きく、鳴り響く。
さすがに恥ずかしい。恥ずかしいけど、そんな余裕すらない。視界が…チカチカする…。
「………、…っぱ腹減ってんじゃねぇか!!今レトルトカレーくらいしか用意できねぇけど、食ってけよ!」
「かれえ…」
「ほらも〜痩せ我慢しちゃってアンタって子は〜!」
「おかあさん…」
「お母さんじゃないですゥ〜!彼氏ですゥ〜!」
そういうこと言うの、恥ずかしくないのかな。
なんてぼんやり考えながら、黒尾に引き摺られて部屋の中へ連れて行かれる。無力な私を床に置くと、黒尾は「冷凍ご飯で悪ぃけど、すぐチンするから」なんて言いながらキッチンへ向かっていった。
カレー……。
頭の中はカレーでいっぱいで、またお腹が鳴る。「あー」とか「うー」とか、およそ知能があるとは思えないような呻き声を上げながら床と仲良くしていると、食欲をそそるスパイシーな香りが漂ってくる。……ふおお…。ぎゅるるるる…。
「ほらお食べ」
コト、と机にお皿が置かれる音で、反射的に起き上がる。かれー。輝く、カレーライス。お母さんがスプーンを持たせてくれたので、「いただきます!」と手を合わせて恵みにありつく。
─── ! ! !
「生き返った?」
「ゔんっ!!」
鼻から抜けるスパイスの香り。ほろっほろのお肉。よく煮込まれて溶け込んだであろう野菜達の甘み。そしてあっちあちのお米。カツカツとお行儀悪く音を立てて次の一口、また一口と食べ進める。甘めで食べやすいカレーライスが、私の細胞一つ一つを活性させてくれる。力が……力が漲ってくる…!
「美味しい!!」
「良かったねぇ」
カツカツカツ…。輝くカレーライスはあっという間に私の胃袋へと移動してしまった。まだまだ食べたい…けど、十分。命は救われた。「ご馳走様でした!」と再び手を合わせると、腕がぬっと伸びてきて、「よく食べました」と頭を撫でられる。──? 正面には、少し身を乗り出した黒尾。……ここは………そうだ、黒尾の部屋だ。
「なっ、なっ、あ、アレ?!私は今日、お返しを渡しに…!」
「うんうん、それはもう受け取った。ありがとな」
頭を撫でられ、頬をつんつんと押されてじわじわと状況を理解する。せっかくお返しを、しかもささやか過ぎるお返しを用意したというのに、どうしてまた私が施されているんだ?!己のエネルギー効率の悪さと空腹に負ける間抜けさが憎い…!私が静かに嘆いている間も黒尾は「うり、うり、」と言って頬をつついてくる。…楽しいのかな、これ。…じゃなくて。
「ご馳走様でした…お皿洗います……」
使わせてもらった食器を持って立ち上がると、適当な返事をしながら黒尾も立ち上がる。お皿洗いはいつも一緒にやろうとするけど、今日はお皿とスプーンが一つずつ。だけ。さすがに一瞬で終わる量だ。でも命の恩人にそんなツッコミもできないし、とりあえずシンクの前に立つ。スポンジを手に取ると、ぴたりと真後ろに立っている黒尾の腕がウエストの少し上辺りに緩く回される。
ヒィィ。
悲鳴も上げられず、ただ身を固くすると、「洗い終わるまでだから」と言い訳のように言われる。別にぴったりと密着しているという訳ではないし、腕の力も全然強くない。むしろ意識的にスペースを空けてくれているようにさえ思える。……でも、近いもんは近い。黒尾は背が高いから、もし頭皮から汗臭い匂いがしていたりしたらバレてしまう。それだけじゃなくて、食後だしお腹ぽっこりしてないかな…とか、色々。色々気になってしまって、とにかく早く離してほしくて急いで洗い終え、「終わった!終わった!」とアピールすれば、黒尾は「そんな嫌がらんでも…」と言いながら腕を解いてくれた。
「い、嫌がったわけじゃ…」
「まぁ分かってますけどネ〜」
わ、分からない。
何かを間違えた気がするけど、じゃあどうしたら、というのが分からない。私が後ろから抱きついた時、黒尾はやんわりと拒否しつつも基本的には優しい態度を取ってくれる。それに比べて私は………。あ、甘さ?甘さが足りないの?甘さってどうやって出すの?いや、出す出さないの話じゃなくて、そもそも持ち合わせていない気もする…。どうしたらいいのか分からず、手を出したり引いたりする私の頭を、黒尾がまた撫でる。ぐりぐり。ほっぺむにむに。こういうのも、なにかもっと可愛らしい?反応をするべきなんだろうか。ちらりと黒尾の顔色を伺うけど、この人はやっぱり底なしに甘くて、恥ずかしいし、なんだか申し訳なくて目を逸らしてしまう。
「そんで?次はいつ会えんの?」
「ちゅえっ…、ちゅぎ……」
両頬をぶにぶにと潰されているせいで上手く喋れず、変な声が出てしまう。黒尾は満足そうに喉の奥で笑って、やっと手を離してくれた。予定の確認をすべく、カバンの元へ向かってスマホを取り出す。とりあえずジムの予定は変えられないし、あと今週末はイベントの手伝いがあるから、昼間は仕事だ。お互いのスケジュールを確認した結果、私が代休を取っている来週の水曜、黒尾の仕事後…に決定した。
「よし。じゃあ今日はもう解放してやろう。食いたいもん考えといて」
黒尾は満足気にそう言うけど、何を食べるかとか、何をするかとか、本当にいつもいつも私優先だ。今回も例の如く黒尾の希望はないのかと聞いてみるけど、私が食べたいものを食べているところを見れたらそれでいい…らしい。嘘をついている訳でもないと思うので、きっとそれも本心なんだろうけど、後は…本当に食べたいものがパッと思いつかない人、なのかな。とはいえ私も毎回毎回決定権を握らされるのは少しプレッシャーだ。行きたいお店、食べたいもの。私だってすぐに決められる方じゃない。───ただ、“黒尾と過ごす環境”については、希望がある。
「……じゃあ、またここにお邪魔してもいい?」
「…お?鉄くんのご飯が一番って?」
「あー、それも否定しないけど、そうじゃなくて。」
確かに黒尾が作ってくれるご飯はこの上なく美味しいけど、最近施されすぎているから、次回は何か買ってくるつもりだ。なんなら黒尾の部屋じゃなくて私の部屋でもいい。つまり、二人きりで居られるならどこでもいい。
・・・あ、いや、なんか語弊があるけど。
突っ立ったまま、なんて説明しようか思案する。「うん?何作ってほしいの?」と聞く黒尾に、作る必要はないと伝えると、彼の顔がはてなマークになる。私が二人きりがいいと思うのは、この人が、人前でも関係なくあの“甘さ”を出してくるからだ。私はアレに慣れていかなきゃいけない。でも人前だと、自分の照れが発生するのを未然に防ぎたくて、手荒に阻止してしまう傾向がある。だからまずは二人の状態で、免疫を獲得していきたい…という考えだ。…それをそのまま言うことすら、今はできないけど。
「とっ、とにかく…!…お家で、会いましょう…」
「お、おお…。うん…分かりました」
とりあえず次回も二人きりの空間を確約し、この日は解放された。…と言っても、駅まで送りたがるのを断ったら「彼氏が寂しがってるのに?」と謎理論で押し切られてしまい、解放されたのは駅の改札だったけど。
黒尾がやたら“彼氏”とかってワードを使うのは、きっと私がまだ全然この関係性に慣れていないのを見透かしているからだと思う。きっと失礼なことだし、それなのに優しく待っていてくれる黒尾に、私も出来る限りのことはしたい。…が、頑張らなくては…。次回までに、もう少し勉強しておこう。
─────────
そんなこんなで、水曜日。
中華屋さんでテイクアウトしたご飯を持って、また黒尾の部屋へ向かう。玄関が開かれると、部屋の主である黒尾が「おっす。…今日も可愛い」と初手でかましてくる。動揺しながらも、どうにか頭を回す。こういう時は、ちょっと照れながら「嬉しい」とか、「〇〇くんのためにお洒落してきちゃった」とか言うのが喜ばれるらしい。何ともハードルが高いけど、頭にインプットしてきたことを実践してみる。
「う…ゔぅ…!」
「ふっふ、いい匂いすんな、早く食おうぜ」
・・・。
嬉しいの「う」しか出なかった……。
しかも照れるというより威嚇だ……。
でも黒尾は全く気に留めず、私の手から中華を受け取って部屋の中へと戻っていく。…まぁ、そう上手くはいかないか。
食事中は一旦難しいことを考えるのはやめて、買ってきたチャーハン、餃子、麻婆豆腐、レバニラ炒めに舌鼓を打つ。黒尾も「久々に食ったわ、うめ〜」と言いながら食べ進めていて、ただ買ってきただけだけど、嬉しくなる。美味しそうに食べてる人を見ると気分がいいし、それが好きな人なら、尚更。調べたところ、男性は美味しそうに食べる女性が好き…みたいな意見が結構多く見られた。実際黒尾も私が食べてるのを楽しそうに眺めてくることがあるし、これに関してはクリアしていそうだ。……いいことなはずなのに、自分が当てはまっているとそれはそれでなんだか恥ずかしいし、むず痒い。恋愛って難しいな。
「俺そろそろ腹いっぱいだけど、あと食える?」
「もういいの?もちろん食えるよ」
ローテーブルを挟んで向かい側、黒尾がお腹がさすりながら、ふぅーと細く息を吐く。これまで何度も一緒に食事してきたけど、やっぱり彼の胃袋はとても標準だ。私や赤葦くんからすると、少食。ということで残りの料理も有難くいただき、全ての容器が空っぽになった。黒尾はいつも通り頬杖をついて私が食べてるところを眺めていたけど、やっぱり、見られるのは緊張する。喜ばせたいはずなのに、恥ずかしさが勝って、ちょっと険しい顔になっていた気さえする。…難しい。
「杏仁とコーヒーゼリー買ってあっけど、どっちがいい?」
「えーっ!」
食後、ゴミをまとめると、黒尾は冷蔵庫からコンビニなどで買えるカップスイーツを取り出した。私はまだ彼を喜ばせることができていないのに、黒尾はいとも簡単に私を喜ばせてくれる。私がちょろすぎるのか、それとも経験値の差か。ローテーブルに置かれた二種類から好きな方を選んでいいと再度言われて、杏仁豆腐を選ばせてもらった。さっきまではどちらかと言うと刺激的なご飯を食べていたから、杏仁豆腐の爽やかな甘みがより感じられて、とにかく美味しい。幸せ。黒尾もコーヒーゼリーを食べながら、「ちょっと録画見てもいい?」と言ってテレビを操作し始めた。珍しい。いっつも「何か観たいもんある?」とか聞いてくるのに、自分の観たいものを今観てくれるんだ。映し出されたのは長〜〜く続いているドラマシリーズ。私はあまりドラマは観ないし、物語に触れるとしたら小説だけど、このドラマの存在はさすがに知っている。一体私達が何歳の頃から続いているんだろう。そのくらい長いシリーズだ。「好きなんだ?」と当たり前すぎることを一応聞いてみると、「んー、まぁ、なんか、昔から観てたから、つい観ちゃう」とのこと。なるほど、好きなんだね。黒尾ってバレー以外での趣味とかあるのかよく分からないし、こうして好きなものを共有してくれることもあまりないから、なんだか嬉しい。
嬉しくて、物理的に距離を縮めたいな、なんて思う。でもわざわざ立ち上がってテーブルの反対側へ回り込むのも変だしな………。もじもじしていると、CMになったタイミングで黒尾が立上り、スイーツのカップを捨てて、ソファに座り直した。…チャ、チャンスきた…?その動きをじっと観察する私に気付いた黒尾が、自分の隣に手を置き、指をポンポンとする。…「おいで」だ。なんか恥ずかしい…けど、今日は素直に従ってみる。
「…これ、この人が犯人なのかな?」
「だろうな〜」
ドラマを観ながら、穏やかな時間が流れる。
黒尾って結構、一緒に居る“人”に意識を向けてることが多い気がするから、こうして隣に座ってるのに他のものに気が向いてるのはちょっと珍しい感じがする。
………もしかして、わざと…かも…?
考えすぎかも知れないけど、もしかしたら黒尾はこんな風に考えてる可能性がある。
まず前提として、男性は恋人に寄りかかられたり、肩に頭を預けられたりするのが結構嬉しいらしい。頼りにされてる感じがするんだとか。そしてそれを、私はやってた。付き合う直前、直後くらいのことだ。でも最近は、黒尾からの攻撃に対応するので精一杯で、私の方からは何もできていない。もし、もし黒尾が、以前私がやってた身勝手な行動を喜んでいたのだとしたら。そしてそれをされなくなったことに多少なりとも寂しさを感じているのだとしたら。「じゃあどうしたら透香はまた俺に甘えてくれるのか?どういう状況を作ったらいいのか?」とかって考えて、この正解に辿り着いたんじゃないだろうか。
……有り得る気がする。この人なら。
ゆっくり、ゆっくり、身を寄せてみる。腕と腕が触れ合って、そろりと黒尾の横顔を盗み見るけど、特別な反応は示していない。それを見て、確信する。やっぱりこれは、わざと作った隙だ。まるで預かり猫ちゃんを環境に慣れされる手順のように、構いすぎず、無害な存在であることを伝えている。…そういえば、高校生の頃も「苦労して手懐けた猫」とか言われた気がするし…、きっと今回もそうだ。見透かされていてちょっと悔しい気もするけど……まぁ、いいや。好都合なので、好きにさせてもらうことにする。
少し体重をかけて、頭を傾けてみる。…ビクともしない。親しい友人ともスキンシップをすることはあるけど、やっぱり何かが違う。硬い…壁みたいだ。更に少しずつ寄りかかってみるけど、やっぱりビクともしない。壁だ。でもちゃんと体温も感じて……ドキドキする。こんなんで、本当に喜んでもらえてるんだろうか。結局満たされてるのは私だけなんじゃないだろうか。黒尾は…特に反応なし。完全に慣らしモードだ。じゃあもう遠慮しなくていっか。
密着してるのとは逆の手で、黒尾の二の腕辺りに触れてみる。もっと指が沈み込むかと思ったのに、そこは予想よりずっと硬い。
「こ…れは…、今、力を入れてる状態…?」
「ふんっ!」
「わあ!えっ、すごい!」
黒尾がぐっと力むと、腕はぎゅっと硬くなって、でも少し膨らむ。すごい。シュッとして見えて、ちゃんと鍛えてるんだ。…いやでも、男性は女性より筋肉が付きやすいし、こういうものなのかな?すごいねって言いながらつんつん触っていると、「まぁ…衰えないようには…してるんで…」とちょっと弱い声が返ってくる。…て、照れるとこなんだ…。そうなんだ……。
なんか……あれ……?
喜んでほしいなと思ってやってることだけど、普通、人の身体にベタベタ触れたり、勝手に評価したりするのは失礼なことだよね…?こ、恋人だけは特別許される…ってこと……?
二の腕をつんつんしていた指先を、つつ…と下へ向かわせてみる。半袖Tシャツに覆われていない、肌を直接撫でる。肌の質感も、女性とはちょっと違う感じがする。キメというか滑らかさというか…詳しくは分からないけど、なんとなく、違う。骨や筋が目立つところも…違う。「っふ、擽ってぇ」と言われて、ハッとして指を離す。
「あ。いーよ続けて」
思わず身体ごと離していたけど、黒尾の手によってまた彼の肩に頭を預ける体勢に戻された。さらりと、髪を梳きながらその手が離れていく。…う、ううう。やっぱり、相手からこういうことをされると、甘くて吐きそうになる。でも続けていいって言うってことは、黒尾も多少なりとも嬉しい…のかな。動画で解説してた人は「グッとくる」とか言ってたけど、人によるだろうしなあ。…と、思いつつ、好奇心を止められない。
今度は密着してる方の手で、黒尾の手に触れる。私のだって大きいはずなのに、それよりも一回り大きい手。長い指。出っ張った関節。手の甲に浮く血管や筋。こうやって、近くでゆっくり見てみたいなと思ってた。ずっと。まさか、黒尾に迷惑をかけない形でそれが叶う日が来るなんて。指と指の間に、するりと自分の指を差し込ませてまる。世間一般の言う、恋人繋ぎ、というやつ。根元から指先へスライドさせると関節がくんっと引っかかるのがなんだか面白くて、すりっ、すりっ、と何度か繰り返す。
外見とか、身体の特徴について、例えいい意味であっても勝手に評価するのは失礼。だから今まで、あんまり見ないように、あんまり考えないようにしてたけど……。黒尾の手って、かっこいいんだな…。好きだな。
ぼんやりしていると、黒尾の反対の手が眼前に迫っていることに気付き、飛び退く。
「ごっ、ご、ごめん!」
「ぅえっ?!………あー、謝んなくていい…けど、今日はここまでな」
ぺちっ。
おでこを軽く弾かれる。デコピンだ。
少しだけ痛むところを手で抑えながら、黒尾の様子を観察する。照れてるのか怒ってるのか笑ってるのか、非常に絶妙な表情をしているけど、特に気分を害したという訳ではなさそう……多分。部屋の主が「ここまで」と言うのなら、これ以上じゃれつくことはできない。じゃあそろそろお暇しようかな、と立ち上がろうとした時、顔に影がかかる。
「さ〜〜〜ァ、そんじゃあ…攻守交替、な?」
見上げると、悪魔のような笑みを浮かべた黒尾が、わざとらしく指をうにょうにょさせて迫ってきていた。
ひっ
本能的に逃げ、追いかけられ、逃げ惑う。この人、猫の手懐け方は知ってるくせに、余計なことして結局懐かれなさそう。逃げると言っても、黒尾の部屋だ。完全に分が悪い。そんなに騒ぐ訳にもいかないし、もう…いい歳だし。ぐっと腕を掴まれて、簡単に捕らえられてしまう。一応抵抗は続けるけど、効かない程度のもので、それを黒尾も分かってる。「おりゃ、おりゃ、」なんて言いながら、また頭をぐりぐり、頬をつんつん、むにむに、攻撃される。まるで小学生の戯れだ。こういうのどうしたらいいんですか!皆さん!助けてください!黒尾は本来、ここまで子供っぽい人じゃない。明らかに私にレベルを合わせてくれている。それが分かってしまうから、より居た堪れない。思う存分頬をもにもにし尽くした黒尾は、最後に乱れた髪をゆったりと直してくれて、そして額に唇を寄せた。
「送ってく」
レベルが………レベルが違う。
こんな赤子同然の私に、嫌な顔一つせず合わせてくれる。やっぱりこの人はすごいな。私には勿体ない、ずっとずっと、遠くにいる人だ。…この人の、優しいところが大好き。
たまにこうやってウザったい絡み方をして、優しすぎるのを中和しようとするバランス感覚も、そうでもしなきゃ照れくさくなっちゃう繊細なところも、大好き。
意を決して、正面からハグをしてみる。
これでほんの少しでも、この人との差が埋まればいいのに。
黒尾の鎖骨の辺りにえいえいと頭を押し付ける。大きな反応はせずに、好きにさせてくれる。いつも、どうしたら私が安心して居られるかって考えてくれてるところも、大好きだよ。
口から自然と大好きが零れ落ちてしまって、慌てて両腕を離す。
「……!!かっ……!!帰ります!!さようなら!!」
「………………、…っ、っそうはさせるかッッ!!」
そしてまた、小学生の戯れに付き合わせてしまった。