赤い糸40,075km
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付き合うとはなんぞ?
昨日、黒尾の部屋で、告白をされた。
付き合ってくださいと言われた。
私はどうにもおかしいから、黒尾から言われるまで、一度たりとも、付き合うとかそういったことは考えたことがなかった。「好き」から「付き合う」に繋がらない。それと同じように、「付き合う」から「えっちする」にも繋がらない。
『付き合う 初めて』でネット検索をすると、当たり前のように性行為の話が出てくる。まずすることは大前提として、そのタイミングは?とか、リラックスするには?みたいな内容だ。しかも文面からして、学生向け。そりゃそうだ。初めての交際は、多くの人が学生時代に経験するんだろう。
28歳、恋愛経験なし。
皆無。
恋愛の感覚は世間一般とかなりズレている自覚がある。
対する黒尾は一般的かそれ以上の経験があるはずで、感覚は普通のはずだ。だから黒尾が言う「付き合って」には、“普通”が全部込み込みなのだと思われる。
つまり、世間一般の言う“付き合う”を私は理解しなきゃいけないし、黒尾には、私がいかにおかしい人間かをちゃんと伝えなきゃならない。ノートPCと睨めっこをして、今まで関心すら寄せなかった恋愛系の記事を読み漁ったり、恋愛指南系の動画を視聴したりして、自分のおかしな点をパワーポイントにまとめていく。私と付き合うことのデメリットをしっかりプレゼンして、考え直してもらうために。
もっと早くからこういうことを考えるべきだった。最近の私は言うなれば初恋をした幼稚園児みたいなものだった。ただ黒尾が嫌がらないからという理由だけで好き放題にベタベタして、そこに発生する責任については一切考えていなかった。調べたところによると、男性は女性と二人きりになるだけで体の関係を期待することもあるらしい。これはさすがに大袈裟に言っているとは思うけど、似たような内容が様々なところで紹介されていた。ということは、そういった傾向はあるということなんだろう。そして、やはり性交渉はほぼ必須というような雰囲気を感じる。ここが、私の一番のボトルネックとなりそうだ。
つまるところ、私はそれをしたくない。
深い理由はない。
でも、自分がその行為を?と思うと、吐き気がしてしまう。
例えばテレビで外科手術のドキュメンタリーをやっていて、実際に内臓の手術をしているのが映し出されたとする。私はそういうのがとても苦手で、勝手に自分も痛くなるし、勝手に具合いが悪くなる。あの感覚に近い。ハグやキスは愛情表現としてとてもよく理解できる。愛しいものを慈しむ時は、優しく触れて、撫でで、抱きしめたくなるものだ。…ただ、性交渉は訳が違う。そもそも生殖を目的としない性交渉ってどういうことなのか。なんのためにやっているのか。辛くはないのか、苦しくはないのか、痛くはないのか、怖くはないのか、汚くはないのか、気持ち悪くはないのか。
あ、駄目だ。一旦考えるのはよそう。
世の恋人達が愛情を確かめ合うためにしているというのなら、そうなんだろう。ただ、私はできれば…嫌。
気付くと手元の資料は自分への愚痴みたいな内容でぐちゃぐちゃになっていて、全く要領を得なくなっていた。こんなものを見せられても、黒尾だっていい気はしないだろう。こんなただの自己満足のために彼の時間を奪う訳にはいかない。もっと簡潔にしよう。
そして出来上がったのは、簡素なExcelファイル。これでもかなりしつこい気がするけど、できる限り簡潔にしたつもりだ。それをどう提出すべきか相談したら、黒尾がうちに来ることになった。
「ほんで資料っつーのは?」
「こちらになります…ご査収ください…」
「ほいほい」
ローテーブルの前で胡座をかいて座る黒尾に、例のブツを表示したノートPCを差し出す。そして黒尾がその資料に目を通す様子を、横から注意深く眺めた。
1つめの項目は、『まずはこんな資料を作ってくることに引いていませんか?』という、答えの分かりきっている確認事項。
調べたところによると、付き合う前に確認しておいた方がいいことリストみたいなものは結構あって、でもそれはあくまで自分が参照し、できればさり気なく相手に確認するためのものらしかった。私みたいにExcelファイルを作ったという話は、残念ながらどこにもない。まずこの時点でドン引き、そんな人とは無理、と言う人だって居るだろう。だから一応、とりあえず、触りとして挙げておいた。
黒尾は特に反応を示さなかった。そしてそのまま、視線を少し下にズラす。
2つめの項目は、『結婚も考える年齢かと思いますが、本当に“今”私で大丈夫ですか?』というもの。
もしかしたら男性はまだ焦らない年齢の可能性もあるけど、黒尾みたいな人はむしろ未婚なのがおかしいくらいだ。学生のように好き同士だから付き合って、そうじゃなくなったら別れればいい、というほど軽くはないはず。引く手数多なはずのこの人が、適齢期の今、時間を使うのが私でいいのか。ちゃんと考えてほしい。でも黒尾はこの項目にも特に反応を示さない。結婚願望とかは無い人なんだろうか。
3つめの項目は、『黒尾が思うよりずっと面倒臭くて、特に恋愛面は人とズレてますが大丈夫ですか?』という今更すぎる問い。
さぁ、そろそろうんざりしてきたんじゃないだろうか。自分でも苛苛してきた。このチェックリスト作った人、ネチネチしてて喧しいな。黒尾は反応しないどころか、読み飛ばしているレベルで視線とカーソルをさっと下に下ろす。もっとちゃんと読んでほしいけど、この項目は弱いから、まぁ…いいか。
4つめの項目、ここが例のボトルネック。
『性交渉は恐らくできません。大丈夫ですか?』
これにはさすがの黒尾も少し顔を強ばらせた。良かった。ちゃんと読んでくれてる。大丈夫だよ。ここで「やっぱり…」と言われても、薄情だなんて思わない。むしろちゃんと考え直して、ちゃんと自分のための選択をしてほしい。そのためにこれを作ってきたんだから。いつでも「全然大丈夫だよ」「それが正しいよ」と言えるように準備をしていたのに、黒尾の視線はまた下にズレる。……分かった。一旦全部読んでから判断を下すんだね。
5つめの項目。これで最後。
『気持ちがなくなったらすぐに別れを切り出してくれますか?』
これも私にとっては結構大事。もしもこれから黒尾と私とで始まるのだとしたら、いつかは終わりが来る。再会した日、不躾にも「まだ結婚していないのか」「大学生の頃一緒に居た方とは続いているのか」と聞いて、黒尾はそれに続いていないのが当たり前、というような返事をした。それがなんだか意外で、失礼に失礼を重ね、「他に忘れられない人でも居るのか」と聞いたら、黒尾は肯定した。それ以来その人の話はしていないけど、やっぱり黒尾は、私の思った通りの人だと思うから、きっと今もその人のことが頭にあるはずだ。これは別に黒尾が私を好きと言ってくれるのを疑っている訳じゃないし、大学生の頃付き合っていた人のことだって遊びじゃなかったんだと思う。黒尾はそんな人じゃない。ちゃんと本気で好きだったんだろうし、今の私に対しても、そう。それでも、いつかは終わるのが当たり前。いつの日か黒尾が忘れられない誰かと再会した時、他に好きな人ができた時、もしくはそういったキッカケはなくただ私への気持ちが無くなった時、この人はそれをすぐに言えるだろうか?きっと言えない。情が移ってしまって、簡単に切り捨てられない。だけど、もしそのせいで彼が大事な転機を逃してしまったら、私はその先、生きていけない。だからこの項目は必ず確認する必要があった。
黒尾は全ての項目を読み終えたのか、Bluetooth接続されているマウスを握り直した。各項目の横にはYESとNOの欄があり、それぞれチェックボックスを設けておいた。YESにチェックが入れば、その項目行は緑色になる。NOであればグレーアウト。カチカチと軽いクリック音が鳴って、セルの色が変わっていく。
緑色、緑色、緑色、緑色、緑色。
「っえ、えっ?待って、ちゃんと読んだ?」
「読んだ。読んだ上で、問題なし。…他は?」
あまりにも、即決。
そんなはずがない。
だって、そんな。
上手く言えなくて口篭ると、黒尾はこの確認事項を「この程度」と言う。そして、私の思う100倍は好きだと。…そこじゃない。私が確認を取りたかったのはそこじゃない、けど、性交渉の有無を重視するかどうかは人それぞれだ。黒尾は特に必要としていないのかも知れない。だとすれば、あの確認事項自体がとても自意識過剰で、とても失礼なものだ。セルは間違いなく緑色になっている。それなら、これ以上「本当に?」と追求するのは、本当に全く以て失礼だ。それに、始まってしまっても、ちゃんと終わらせてもらえる。そっちの項目も緑色だ。だからもう、他にも確認したいことがあるかと聞かれても、首を横に振るしかない。
そして黒尾からの確認ごともあり、その後、再びしっかり言葉にして告白してくれて、私と黒尾は付き合うことになった。
───────────
結局、付き合うとはなんぞや?
という疑問は晴れない。
晴れないけれど、そばにいると、また初恋幼稚園児みたいになってしまう。「飯作るからうちおいで」なんて言われてまたお邪魔して、ずっと恋しく思っていた料理中の背中に抱きついてみる。黒尾はビクッと身体を強ばらせるけど、すぐに優しい声で「こ〜ら、危ないでしょ」って言って、やんわりと私の腕を解く。甘いなぁ。その有限の甘さに任せて、背中が好きだと言ってみると、黒尾は噎せてしまった。きっと言われ慣れているだろうに、こんな風に特別な反応を見せてもらえるのが嬉しいし、可愛くて、大好き。ずっと好きだったとまでは言えない。それこそ高校生の頃、私は黒尾の背中ばかり見ていて、その背中に想いを向けていた。でもそれは絶対に秘密だ。彼が困らないように、“好き”の温度、比重を合わせたい。黒尾がいつ私のことを好きになってくれたのかは分からないけど、きっとこの数ヶ月くらいだろう。だから私も、その設定でいく。
美味しくて幸せなご飯をいただいたら、また二人で食器を洗う。作る時に何も役に立っていないのでお皿洗いくらいは任せてもらいたいけど、黒尾はきっとそういう損得勘定じゃなく、ただ隣に居たい…とかそんな風に考えてくれている気がする。だから私も強くは遠慮できない。でもしてもらってばかりでいる訳にも、いかない。
「私、お料理教室とか通おうかな」
「え゙?!なんでよ」
「なんでって…できるようになった方がいいから…」
黒尾に渡された泡泡のお皿を水でよく濯ぎながら話すと、「ずっと俺の飯食っときゃいいじゃん」なんて言われる。うわぁ。甘やかしだ。この人って元々甘いけど、恋人?になると更にリミッターが外れるらしい。でも私は甘やかされっぱなしなんて御免だ。世間一般や恋愛市場で考えれば、女性の方が料理上手で然るべきという風潮がある。それ自体には疑問が残るし、今までの私には全く関係なかったけど、今は関係ある。返事しない私を不審に思ったのか、黒尾はすぐ隣から「ん?」と顔を覗き込んでくる。そして恐らくムッとしているであろう私の顔を見て優しく笑う。
「できるようになりたきゃ鉄朗くんが教えてやっから。他んとこ行く必要はなし」
そう言って、触れ合っている肩に少しだけ体重を寄せてくる。甘やかしだ。それじゃ黒尾の負担を増やしてしまうだけなのに。教室に通ったらバレてしまいそうな気がするし、家でコソ練するか…と考えていたら、「可愛い顔してっとちゅーするぞ」なんて突拍子もない事を言ってくる。容赦がない。こっちはまだ幼稚園児、相手はベテラン。もう少し遠慮してほしい。軽く蹴りつけて抗議してみても、嬉しそうに笑われるだけ。全ての食器を濯ぎ終えて、タオルを渡してもらえると思ったらそのまま手を包まれた。この前私がやったように、手の形を確かめるようにゆったりと水気を拭き取られる。…これ、される側は結構心臓に悪いのかも。黒尾は私とはレベルが違うから、こんなにドキドキしなかっただろうけど。
「ってか、アレだな、透香用の食器も揃えたいよな」
「え、いいよそこまでしなくて」
「俺が透香のもの家に置いときたいだけ〜」
うわっ。
これ、動画で見た気がする。
自分の部屋に彼女の私物を積極的に置きたがる男は彼女を溺愛していて、浮気の心配も低く、そういう男は逃がすな、と。えぇー、すごいな。そういう“いい男”とか“モテる男”を地で行くんだな、この人は。さすがだ。
でも“物”が残るのは微妙な気がする。そういった恋人の物というのは、別れた後はどうするんだろう?世間一般の意見は後で調べてみるとして、とりあえず私は黒尾の部屋に自分の痕跡なんて残したくはない。今使わせてもらってる深皿が気に入っている、と言っておいた。
そういえば、黒尾はあの資料提出の日から、私のことを下の名前で呼ぶようになった。家族や友人には下の名前で呼ばれるし、異性でも研磨とかはそう呼ぶから、そんなに特別なことじゃない…はずなのに、やっぱりこの人の口から出るその音は何故か甘くて、毎回地味にダメージを喰らってしまう。それはもう角砂糖にシロップをかけて食べるような重たい重たい甘さで、喉の奥底にズシン、とくる。そして本人もそれを分かっててやっている気がするから質が悪い。黒尾は私にも下の名前で呼んでほしいと言ったけど、それはお断りした。多分無理だから。かなり粘られたので、30年待ってと適当に躱せば、せめて3年にしてくれと大胆な値引き交渉をされてしまったけど、まぁ、それは承諾した。30年後だろうが、3年後だろうが、その頃にはさすがにもう彼の隣には居ないから。
「透香」
しっかりと水気を取ってくれた手を、今度は黒尾の手が直接包む。
低く甘く名前を呼ばれると、胃も脳も重くなるような、でも身体が浮くような、奇妙な感覚がする。これはみんなそうなんでしょうか?世の中の恋する皆さん。手を握られて動けないまま、額に軽く触れるだけのキスをされる。ゆっくりと顔を離した黒尾の、これまた甘く溶けたような瞳と目が合って、心臓が痛くなる。痛い。痛い。こ、これが、恋人特有の雰囲気、というやつですか…?皆さん……。
恋人って、すごすぎる………。
─────────
断りきれず駅まで送ってもらうことになり、やたらゆっくり歩く黒尾の隣りを、ペースを合わせて歩く。
「そう言やぁさ、赤葦には…もう、言った?」
何を、とは聞かなくても、さすがに分かる。赤葦くんにはまだ付き合うことになったという報告はしていない。別に報告義務なんてないんだろうけど、友人達のことを考えてみても、みんな遅かれ早かれ恋人ができたことは話してくれるから、きっとそういうものだ。それに、赤葦くんはただの友人ではない。家族とか、ソウルメイトとか、わざわざ関係性に名前を付ける必要もないけど、とにかく大事な人で、私を大事に思ってくれている人だ。ちょっと気恥しい気もするけど、報告はしておきたい。まだ言っていないと伝えると、黒尾は「また三人で飯でも行くか。後でLINE入れとく」と言った。
そして三人のグループトークで連絡を取り合い、またいつもの定食屋さんに集まることになった。
私の最近の仕事はというと、経理部に居た時よりは残業や休日出勤なども不規則に発生するものの、そこまで日々忙しいという程ではない。今日は定時で上がってきたから、定食屋さんへは一番乗りだった。いつもの席で待っていると、ガタガタと立て付けの悪い戸が開かれ、入り口から赤葦くんが入ってきた。
「お疲れ様」
「お疲れ。…ちょっと早かったかな」
私は既に来ているから早いなんてことはないのに、赤葦くんは何かを気にしているようだ。そして向かいの長椅子に腰を降ろし、「今日は唐揚げにしようかな」と言ってメニュー表を取り出す。もう内容を覚えきってしまったそれを、私も覗き込む。“唐揚げ”と聞いてしまったので、私の頭の中にも自然と唐揚げが浮かんでくる。ここの唐揚げは衣がちょっと変わってて、パリッとしているのが美味しい。唐揚げというのは不思議なもので、衣の食感、味付け、お肉の柔らかさ…このシンプルな要素なのに、お店によって随分と特徴が出る。しかも、そのどれもが美味しい。私はほとんどの食べ物を愛しているけど、唐揚げはその中でも上位の存在だ。生み出した人には感謝してもしきれない。そういえば黒鷲に来てたキッチンカーの唐揚げも美味しかったな。赤葦くんには大阪から帰って直ぐにお土産を渡して大会のことを話し尽くしたけど、唐揚げの話を忘れていた。あとおにぎり宮のことも話そう。黒尾が来るまで、赤葦くんと二人。いつも通りの穏やかな会話をした。
「っはー、お疲れ〜」
「お疲れ〜」
「お疲れ様です」
三人揃うと、黒尾は私の隣に座ろうとする。あっ、えっ、あっ、そっか。そういうものか。慌てて腰を上げて奥に詰めるけど、とんでもない違和感を覚えてしまう。赤葦くんが居るのに、赤葦くんより、黒尾の方が、近い。こんなこと今まであっただろうか。普通に考えたら、友人よりも恋人の方がより親密なのは当たり前だ。何もおかしくない。…でも家族と付き合いたての恋人だったら?どっちの方が親密で然るべき?というかそもそも。
恋人が居る状態で赤葦くんと親しくするのは、もしかして悪いこと?
ザワザワと煩雑な思考が脳に反響する。
気付いたら二人はメニューを決め終えたようで、ボーッとしている私を気遣うような視線が前と横から注がれる。慌てて赤葦くんと同じ唐揚げ定食を頼むけど、なんだろう、これから食事なのに、モヤモヤする。
注文を終えると、黒尾はわざとらしく背筋を伸ばし、膝の上に拳を置いた。その横顔はどこか緊張しているようで、そこでやっと、今日の目的を思い出す。…そうだ、今日は私と黒尾の関係性が変わったことを報告しに来たんだった。すっっかり忘れていた。私も限界まで背筋を伸ばして、なんて切り出そうか考える。
「…赤葦さん、ご報告が、あります」
先に切り出したのは黒尾だった。私達の緊張とは対照的に、赤葦くんはリラックスした様子で「はい、どうぞ」と返す。まるで既に知っているかのように。
「えー…、透香さんと、お付き合いさせていただくことになりました…!」
「な、なりました…!」
黙ったままなのも居た堪れなくて、黒尾の言葉を復唱するように続く。黒尾を見ていた赤葦くんはいつも通りのリラックスした表情だったけど、私が声を発すると、緊張を和らげようとしてくれているのか、にこりと優しい笑顔を向けてくれる。
「おめでとうございます」
ぱちぱちぱち。
赤葦くんはにこやかな表情のまま、軽く拍手までして祝福してくれた。そこにはあまり強い感情は感じられなくて、ということは、私と赤葦くんの関係も、別に変わる訳じゃないのかな、なんて。そんな淡い期待はすぐに打ち砕かれた。
「これ、もう返さないとね」
「え」
赤葦くんが差し出したのは、バレーボールのキーホルダーが付いた鍵。私の部屋の鍵だ。一人暮らしを始めるって時も何から何まで相談に乗ってもらって、赤葦くんと同じ路線に部屋を借りて、ごく自然な流れで渡した、私の部屋の合鍵。
身体も思考も固まってしまう。
やっぱり、突然“悪いこと”になってしまったの?私と赤葦くんが一緒に居ることが。
受け取れないでいると、赤葦くんは「一旦黒尾さんに預けようか。ね、」と流れるように手の軌道を変えた。黒尾は困惑している。私のせいで二人を困らせている。
なんだか泣きそうで、でもこの場面で泣くのは絶対に悪いことだから、なんとか身体だけでも動かして私もカバンから鍵を取り出す。自分の鍵と一緒にまとめている、赤葦くんの部屋の鍵。謎のおにぎりのキャラクターがついたそれを、小さなカラビナから外す。
「じゃあ…私も一旦黒尾に」
「いやなんでだよ」
黒尾がツッコんでくれて、赤葦くんも笑ってくれて、どうにか場が繋がる。二つの鍵を押し付けられた黒尾は当然「マジで?本気で?」と困っているけど、私と赤葦くんがマジです本気ですと言って押し付けたら渋々了承してくれた。黒いレザーだけが付いていた黒尾の鍵に、ガチャガチャと子供っぽいキーホルダーが追加されて、シンプルなお洒落さが一瞬で消し去られる。…可哀想に。
勝手におにぎりくんと呼んでいたあの子は、黒尾のカバンにしまわれて見えなくなってしまった。
お土産を買って帰った時、美味しそうなものを共有したくなった時、モーニングコールを頼まれた時、仕事がすごく忙しそうで家の事が出来てなさそうな時、赤葦くんが風邪を引いた時。一度だけ、出掛けた帰りに体調が悪くなって、あと三駅がしんどくなった時も使った、赤葦くんの部屋の鍵。
喉がきゅううと狭くなり、目頭が熱くなってくる。
私と赤葦くんは性別が違う。
だから、こんな距離感で居るのはもしかして良くないんじゃないかって、過去にも何度か思った。そういう不安はすぐ赤葦くんに打ち明けて、お互いの意思確認をしてきた。世間が何と言おうが、私達はお互い納得した上で、そばに居た。
いつの日か赤葦くんに恋人ができた時には、すっと身を引こう。それまでは遠慮なく仲良しで居させてもらおう。そう思っていた。
まさか自分が先に恋人を作るなんて。
赤葦くんと疎遠になるのは嫌だ。
でも、もうそんな事を思うことすら許されない?こんなに素敵な恋人が居てなお他の異性に執着するなんて、良い事でないのは明白で、なんなら、浮気だと指をさされてもおかしくはない。
黒尾が居ながら、浮気?
黒尾の彼女が、浮気?
今まで、黒尾の幸せは私とは無関係のところにあった。どこかで幸せで居てと願うだけでよかった。でも今は、私は黒尾の幸せ、不幸せの一端を担っている。烏滸がましいほどに、ちゃんと責任感を持て。
あれ?
じゃあ赤葦くんに対しては?
私は赤葦くんと疎遠になるのがつらい。それはきっと、赤葦くんも同じなはず。それについては何も責任を取らなくていいの?
唐揚げ定食が運ばれてきて、そのお盆を受け取った赤葦くんが、先に奥の席の私の前へと置いてくれる。彼はきっと私の動揺に気付いていて、分かってるよ、大丈夫だからね、と、そう表情で伝えてくれる。私が逆の立場でも、きっとそうする。…でも、どうしていつも、赤葦くんを“置いて行かれる側”にしてしまうんだろう。ずうっと昔、高校生の頃。赤葦くんと親しくなるキッカケになった森然高校のあの場所で、彼は3年組が居なくなることを、「怖いくらい寂しい」と話してくれた。あの時はいつでもいくらでも連絡してねと言った気がする。
今は、言えない。
「お祝いですし、乾杯でもしますか?」
「えっ、あー…、そうだな」
「何飲む?」
赤葦くんがお酒のメニューを広げ、私と黒尾に見せてくれる。乾杯でもしようという提案は、きっと私のため。ずっと浮かない顔をしてしまっている私への助け舟だ。黒尾は赤葦くんの提案に乗って、「俺生にしよ」と即決する。
どうしよう。お酒を飲んで、また一人で帰れないような状態になったら、きっと今送ってくれるのは黒尾だ。もう暗黙の了解として、そうなっている気がする。前に送らせてしまった時は、謝罪は要らないと怒られた。クリスマスの失態も、お咎めなし。その時よりも親密な関係になった今なら尚のこと、むしろ頼られて嬉しいとか、この人ならそんなことを言う気がする。時間にしてほんの1秒ほど、提案に乗った場合にかける迷惑と、提案に乗らなかった場合を天秤にかけて考える。空気が重くならない内に「カルピスサワーにしようかな」と言うと、赤葦くんが三人分注文してくれた。
この定食屋さんは無料で提供してくれるお茶も美味しいから、お酒が届くまではそのお茶と定食を味わう。いつもよりちょっと味気なくて、でもきっと私がご飯でテンションが上がっていないのは不自然だから、よく噛み締めて、その美味しさを必死に拾う。パリパリの衣、パンチの効いた醤油の味、香り、口いっぱいに広がる肉汁。美味しいね、と誰に言えばいいか分からなくなって、「美味し〜」とだけ言う。そうしている内に、お酒も運ばれてくる。
「では、お二人の新たな門出を祝して」
赤葦くんが少し大袈裟な言い方をするのも、黒尾がそれにツッコまないのも、きっと全て空気を読んだ上でのことだ。私が気付いていなかっただけで、もしかしたら私達はずっと、不安定な場所に立っていたのかも知れない。
それぞれが温度感を探りながら「乾杯」と言って軽くぶつけたグラスから、かちん、と細く弱い音が鳴った。