赤い糸40,075km
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久世からリクエストされたのは生姜焼きだった。
せっかく初めて部屋に招くんだから、洒落たもんでカッコつけたい気持ちもあったけど、どうせそういうのはあの人には通用しないと、さすがにもう学習した。でも指定されてない副菜でちょこっとイキるくらいはいいか?とスーパーの中をウロウロしながら考える。生姜焼きは当然美味いけど、地味といえば地味だ。キャベツの千切りは添えるし、トマトも付けようと思ってるけど、もう一品、彩りがいいものがあってもいいだろう。例えば人参で、さっぱり……キャロットラペ、とか。彼女が見た時、食べた時の反応を想像してみる。目をキラキラと輝かせて、すごい、綺麗、美味しい、天才……。よし、キャロットラペにしよう。良さそうなにんじんを選定してかごに入れる。これでスーパーでの買い出しは完了だけど、帰りにまた別のところに寄る予定だ。デザートなんかも用意しておいたら、絶対喜んでくれるだろ。寄れる範囲にあるケーキ屋は二つあるけど、どっちにするかな。タルトの方か、馴染みあるチェーン店の方か。どっちも行ってみりゃいいか。
エコバッグを引っさげながら、自分でも浮かれてることが分かるほど軽い足取りでケーキ屋へ向かった。
帰宅して、買っきたものを冷蔵庫へ入れた後は、勿論掃除だ。…改めて、この部屋に久世が来ると思うと…………。いや、まずは掃除しよう。出しっぱなしの雑誌とかを片付けて、ドライシートでそこらじゅうを拭きまくる。掃除はちょくちょくしてるから、目立ってホコリが溜まっていたりはしないけど、今日はもうどんだけ丁寧に掃除したっていい。机の上とかはアルコールシートでも拭いて、それが完了したら掃除機を持って来る。スティッククリーナーの一部を取り外し、ハンディにして、ソファの溝まで細かくゴミを吸わせる。久世の部屋にあったソファよりは多少大きいけど、やっぱりこれも二人掛けのソファだ。もしここに二人で座ったら……いや、だから、そういうの考えんのは後。ていうか考えんな。最後に床に掃除機をかけて、この空間はピカピカになったはずだ。キッチンの水垢とかは昨日綺麗にしたし、うん、大丈夫なはず。
───さて、彼女が来るまでまだ時間はある。
ちゃちゃっと米を研いで炊飯器にセットしておく。下拵えも済ませておくか…?いや、料理してるとこ見たがるだろうな。先生〜って。だから事前に準備しておくのはやめよう。掃除も終わったし、やることねぇな。スマホに片手にソファに座って、何も考えず、ぼんやりと久世とのトーク画面を眺める。
あの一件以降、彼女の態度は随分と変わった。いや、態度自体が変わったというより…表現が難しいが、急に扉が開いたような感じだ。俺から連絡しなくても、黒鷲旗の勝敗について興奮気味なメッセージが入ったり、大阪で一緒に過ごした時なんて……。
……いや、あれ、なに???
思い出す度に頭がバグる。今までの彼女では考えられないようなことを、何度もしてくれた。俺の腕にきゅっとしがみつき、少し不安げに見上げてきたあの姿が焼き付いて離れない。あんなのどう考えても俺にとって都合の良い夢だろ。そりゃ頭パッパラパーなって火傷もするわ。でも、その後も、ワンチャン手を繋げないかと伸ばした手に、また当たり前みたいに寄ってきてくれた。
思い返しながらトーク画面をスクロールしていると、GW直前のやり取りに辿り着く。久世から送られてきた「会えるなら会いたい」というメッセージは既に何枚もスクショしてあるけど、ほんっと、これ、破壊力えげつねぇな。未だに心臓が早くなって、何枚目か分からないスクショを保存する。彼女がなんでここまで急に変わったのかは、正直よく分かってない。ただ、カフェで会ったあの日、俺はやっと彼女の心に触れることが許された。俺としてはゼロからの再スタートだと思ったけど、久世にとっては、きっと違ったんだ。
◯> 17時13分着です〜
あ。
一瞬で既読を付けてしまった。
…まぁいいか。
間を置くのも変なので、すぐに「了解」と返信する。久世にはうちの最寄り駅まで来てもらって、そこからは俺が案内する予定だ。もう少しで会えるんだなと思うと、どうしても顔がニヤついてしまう。……ヤバいヤバい。いや〜……、もうほんっとヤバい。先週大阪で会った時の俺達の雰囲気は、ぶっちゃけめちゃくちゃ甘かった。
こんなんもう付き合ってるだろ、少なくともこれで両想いじゃない訳ないだろ。と思ってしまうほどに、俺は相変わらずあの人がすげー好きだし、同じような好意を、あの人からも感じた。ただ可愛いってだけじゃなくて、俺がどんなにダサくても幻滅しないでくれるどころか笑って受け入れてくれて、ああいうとこ本当にズルいんだよな昔から。もう沼らせようとしてんじゃん。本人にそのつもりはないんだろうけどさ。つくづく、他の誰かに盗られていなくて良かったと思うし、早く手に入れたいと思ってしまう。でも焦っちゃ駄目だ。大阪では結構調子に乗っちゃったけど、相手はあの久世透香さんだ。俺に好意を持ってくれてるのはまず間違いないとは思うけど、それを恋愛感情だと自覚してくれてるのかは怪しい。なんせあの、恋愛?何それ美味しいの?な久世透香さんなんだから。今日は俺の部屋で二人きりになってしまうけど、決して、先走った行動はしない。男というのは純粋に好きな人を想う気持ちにどうしても下心が付いてきてしまう生き物だけど、絶対に大切にしたいし、そんなことで嫌われたくない。クリスマスに二人で過ごした時もヤバかったけど、あの時は完全に一方通行だったからどうにか抑えられた。でも今は……まずい。もしこの空間でまたあんな距離になったら?……大丈夫か…?迎えに行くまで瞑想でもするか?いや、なんかそれはそれでリラックス状態からじわじわ煩悩にまみれそうで微妙じゃね?じゃあ筋トレでもして発散しておく?いや、でもそれって逆にアレなんじゃなかったか…?というか、会う前に汗臭くなりたくねぇしな…。
とかなんとか。
真面目に馬鹿なことを考えている内に時間が無くなり、結局何も対策できないまま迎えに行くことになった。
────────
「あっ、お疲れ〜」
「お疲れ〜ぃ」
おわぁ!!!!!
スカート履いてるぅ!!!
なんて叫ぶ訳にもいかず、心の中だけで大絶叫しておく。
改札の奥から現れた久世は、ゆるっとしたニットとロングスカートという装いで、別に肌の露出がある訳でもないし、ボディラインが出ているわけでもない。でも、俺の知る彼女のスカート姿というのは、高校の時の制服と、2月に見たワンピースの時だけだ。俺の部屋に来るだけ、という今日、スカートを選んでくれたことに何か意味があるんじゃないかなんて勝手に考えてしまう。というか可愛い。ありがとう。
「お買い物はもう済んでるの?」
「そりゃもうバッチリ」
そっか。ふふふ。
柔らかく微笑む久世が、いつも以上に可愛く見える。
やっぱ瞑想しときゃ良かったな。
玄関前まで辿り着き、バレないように深呼吸をしながら鍵を開ける。ここからは、二人きりだ。俺は当然めちゃくちゃ意識してるけど、久世はあんまし考えてなさそうだ。ほんっとブレないんだから。並んだ靴を見て、彼女の務めるメーカーのスニーカーが何足かあるのを見ると、「わっ、弊社〜!」と呑気に喜んでくれる。俺もテンションを合わせて「御社〜」って言っとくけど、ちょっとヤバいなやっぱ。二人きりだってことに意識が行ってしまって、会話に集中できん。部屋に上がってもらうと、久世はキョロキョロと周りを見渡した。掃除は完璧にしたし、変な物も置いてないはずだけど…。
「わぁ…なんか、」
あ、
この人が言いそうなこと分かったぞ。
「モテる人の部屋って感じだね…!」
「言うと思ったんだよなぁぁ………」
別にそういうの狙ってないからと言っても、シックで統一感があるとか、無駄なものがないとか、ティッシュもウェットティッシュもシンプルな容器に詰め替えられてるとか、あれこれ指摘されて恥ずかしくなってくる。あんま物欲がないだけだし、特にこだわりとかもないからシンプルなものばっかり選んでしまうだけだ。確かに久世の部屋はもう少し物が多かった…というか、額縁に入れられたユニフォームが何枚か飾られていて、あれのせいでちょっとごちゃっと見えてしまう感じはあった。ティッシュとかは箱無しのを買った方がランニングコストが安いってだけだし、ただの貧乏性。でもケトルもお洒落だと言われてしまうと、それは確かにちょっと見た目も重視したから否定が弱くなってしまう。
……というか、なんかちょっとテンション高いの、もしかしてこの人も緊張してたりすんのか…?俺の部屋で所在なさげに佇む彼女は、…なんだっけ、アレに似てる。青いラッコのキャラクター。頭の上にぴゅぴゅぴゅぴゅぴゅーって汗が飛んでるやつ。
「あの…、これ、つまらないものではないんですが…」
「わざわざいーのに」
「隙を見て私もひとつ食べれたらいいな〜と思って買いました」
「素直かよ。中身なに?」
何か紙袋を持ってるな〜とは思ったが、案の定手土産だったらしい。中身は煎餅らしく、すぐにでも食いたそうにしてるからローテーブルの前に座ってその場で開封する。座っていいのか迷っている久世はやっぱりちょっと緊張しているみたいで、そのことに意識を向けると妙な雰囲気になってしまいそうだから、雑に「座れ〜」って言っておく。ちょうどいいサイズの四角い煎餅をそれぞれ一枚食って、美味いな〜つって落ち着いたところで、さて、と再び立ち上がる。
「…!先生、さっそくですか?」
「は〜い、始めますよ〜っと」
キッチンに向かうと、久世はてててて…って感じで後ろを付いてくる。あー思い出したわ。ぼの〇のだ。
まずは…、味染み込ませたいから、キャロットラペからだな。人参を手に取ると、興味津々の生徒が「生姜焼きににんじんを入れるのですか?」と首を傾げる。生姜焼きに入れるものじゃないと教えると、別の料理だと気付いた彼女からキラキラキラキラ〜っと羨望の眼差しを向けられる。眩しい。可愛い。ピーラーで皮を剥いて、スライサーで千切りにするだけのことで、そんなに尊敬されても居た堪れない。切り終えたら一旦塩で揉んで放置しておく。その間にドレッシングを作って、次は…、まぁ一旦カットするものを先にやるか。味噌汁用の豆腐と長ネギ、生姜焼き用の玉ねぎ、トマト、キャベツ……。途中でにんじんを絞って、ドレッシングと混ぜ合わせて冷蔵庫に入れる。その様子を間近で見ているぼのぼ〇ちゃんは、たまに左腕にくっついてきたりなんかして手元を狂わせてくれる。この子はぼ〇ぼのちゃん。この子はぼの〇のちゃん……。好きな女性が「すごい」「天才」なんて言いながら擦り寄ってきてくれていることを認識してしまうと本当に危ないので、どうにか青いラッコだと思い込んで料理を進める。気ぃ抜いたらマジで大惨事だぞこれ。それこそ久世みたいに指ザクザクやるか、もしくは完全に料理の手を止めて、この人にまっしぐらだ。どっちも駄目。この子はいたいけな〇のぼのちゃん。
「わり、味噌溶かしてもらっていい?」
「はい喜んで!ベストを尽くします!」
生姜焼きのタレを作ったら、次は味噌汁。顆粒だしを入れるところまではやって、手持ち無沙汰な久世にバトンタッチする。豚肉の準備をしつつ、お玉と菜箸で真剣に味噌を溶かす彼女を盗み見る。うわ〜…結婚してぇ〜……。こうして二人でキッチンに立っていると、一緒に暮らしているような、何なら新婚みたいな気になってくる。幸せだ。
こっからはちょっと時間勝負になってくるから、久世には盛り付けとかの準備をお願いする。油跳ねたりするかも知れねぇし。豚肉同士がくっつかないように表面を焼いて、玉ねぎを入れてしなしなになるまで炒める。タレを入れたら強火にして、じゃっ、じゃっ、とフライパンを揺すりながら手早く絡めていく。皿にキャベツを盛っている久世が「おおお〜!」と歓声を上げるけど、別に何も凄いことはしてない。普通だ。まぁでも、嬉しいもんは嬉しい。
出来上がった料理をそれぞれ皿によそい、ローテーブルまで運ぶ。白米、味噌汁、メイン、副菜。二人分だと机のスペースはギリッギリだ。食器だってギリギリで、どう見ても茶碗じゃない深皿で米を食わせてしまうことになって申し訳ない。でも今そんなことを言ったら水を刺してしまう。なんたって向かいに座る俺の好きな子は、目をキラッキラに輝かせて、早く食べたくて打ち震えているんだから。
「そんな期待されるとなぁ…」
「美味しそう…絶対美味しい…もう美味しい…」
「まだ食ってねぇだろ」
もう涎垂らしちゃうんじゃないかってくらい楽しみにしてくれてるから、「んじゃ食いますか」って合図してやると、丁寧に手を合わせていただきますをする。箸を取った久世はワクワクを抑えられない様子で「では早速…」と豚肉とつまみ、口に運んだ。
「んっ!?…んん〜っ…!んふひ〜〜…!」
「そりゃ良かった」
この人の人生で最もテンションが上がる瞬間は絶対飯食ってる時だな。
口を閉じたまま美味しいって叫ぶその顔は本当に幸せそうで、それを見てるだけでこっちは腹も何もかも満たされていく。はぷっと白米を頬張ってよく咀嚼してから飲み込むと、久世は生姜焼きがいかに美味しいかについて語り出した。勘弁してくれ。もう結婚してくれ。黒鷲で気に入ってた唐揚げが結構味濃いめだったから、今回の生姜焼きも濃いめに作ってみたけど、それがお気に召したようだ。米とかキャベツとかっていう箸休めがあるんだから、俺も生姜焼きは味濃いめなのも結構好き。
「すごい綺麗…にんじんってこんなに輝くもの…?」
「人参は野菜の中でも抗酸化作用が高いからな。食っとけ。」
絶妙に会話が噛み合っていないことは分かってるけど、手料理を絶賛され続けるのが照れくさくて栄養の話に逃げる。でも久世はそんなこと気にも留めず、いただきま〜すと口に運んではまた感動した。「β-カロテン!カリウム!」って人参の栄養素を列挙しだりたりなんかして、そんなのよく知ってるなって思ったけど、そういえばこの人って俺より頭いいんだった。可愛いからつい忘れるけど。
俺も一通り食ったけど、まぁ、なかなか上出来ではある。もしかしたらいつも通りなのかも知れないけど、この人が美味そうに食ってくれるから、いつもより美味く感じる。久世は最後の一口までずっと美味しい、天才、と褒め続け、一片の曇なく幸せいっぱいすぎる食事は、どことなくドキマギしていた雰囲気を完全に溶かしきってくれた。
「…ご馳走様でした……!」
「喜んでいただけて何より」
「人生で一番美味しいご飯だった!」
「それは言い過ぎ」
「じゃあ、一番幸せなご飯?」
「…それは俺も」
えへへって笑うのが可愛くて、愛しくて、不自然なほど魅入ってしまう。
ハッ。
まずいまずい。
これ以上空気が甘くなるのはまずい。
いや、そりゃ好きな人と甘い時間を過ごしたいとは思う。思うけど、まだ付き合っていない以上、何かをしてしまう訳にはいかない。自分をコントロールできるギリギリの糖度で抑えて、綺麗に空っぽになった食器をまとめる。久世が皿洗いするって言うから二人で狭いシンクの前に並んで、洗い担当流し担当って感じで一緒にやった。彼女はもう、俺と肩や腕が触れ合うことを当たり前みたいに受け入れている。できればもう少し警戒してくれたら、こっちから出せる雰囲気も変わってくるのに、とも思うし、どこまで受け入れてもらえるんだろう、とも考えてしまう。皿洗いが終わってタオルを渡すと、ま〜た「えへへ」なんつってタオル越しに俺の手を掴んでわしわしと拭いてくる。いや先に自分の手を拭けよ。…警戒心ゼロ、距離もゼロ。俺のこと試してる?…いや、そんなタイプじゃないよな。俺の手の水気をポンポンと取ってくれる優しい小さな手を引っ掴んで、引き寄せて、腕の中に閉じ込めて、唇を奪って…。そんな欲を紛らわすために深呼吸する。この世界の誰よりも、俺がこの人を大事にしたい。
「…実は食後のデザートにフルーツタルトを買ってあるんですが、まだ食える…よな?」
「…!くえる…!」
そんでもっと俺のことを信頼して、甘えて、好きになってくれ。
───────
タルトを食べた後は、二人でソファに座ってサブスクで久世の好きなバラエティ番組を観る。
正直、かなり危ない。
そもそも、一緒にソファに座るべきじゃなかった。自分で自分の首を絞めてる。分かってる。そんなん分かってるけど、好きな子とソファでまったり甘い時間を過ごしたいって願いまでは抑えられない。
はははって笑ってるフリしてるけど、番組の内容は頭には入ってきてない。5秒で忘れる。そんなことより隣の久世の笑い声に耳を傾けてしまうし、ほんのりと寄りかかられてる右腕に意識が集中する。
番組ではひとつのコーナーが終了したようで、彼女は笑い疲れたらしく、こてん、と頭を俺の肩に凭れさせた。シャンプーか何かの良い香りがして、目眩がしてくる。
まずい。
このままは良くない。
いや、いいだろ、このままで。
むしろもっと。
全ては久世次第だ。
俺の方はもういつだって、でも、久世の準備ができてないなら我慢する。
この人が準備なんかできてるはずがない。分かってるのに、その顔を見て確かめたくなる。ほんの少し首の角度を変えると、久世も目を合わせるように少しだけ頭を上げて、「ん?」って言ってこっちを見上げる。
…いや、近いけど、いいの?
この距離感で見詰めて、拒否してもらえないのは、いよいよだけど。
いいの?
いい訳ないだろって叫んでる自分も居るけど、ずっと遠くの方だ。
久世の長い睫毛をこんなに近くで見ていることに心臓が高鳴る。俺だけを映してくれるその瞳が綺麗で、その表情はもう、いいってことだろ。都合良く解釈すると、脳がただの錘になっていく。右腕をずるずると動かして、ソファの背もたれを掴んで上半身を捻る。久世の睫毛が揺れる。どういう状況か全く分かってないって訳ではないようだ。その上で、拒まれていない。
ほんの少し身をかがめるだけで、鼻先が触れそうなほどに顔が近付く。
拒まれない。
目の前の彼女の瞼はゆったりと伏せられて、ああ、初めて見る表情だな、とか。俺も目を細めながら眺める。
欲しい。このまま。
まるで自然の摂理みたいに、惹かれていく。
「黒尾はモテるから、慣れてるんだね」
鼻先が触れて、その唇までほんの数ミリ、というところで、脳内に彼女の声が響く。
耳から入ってきた音じゃない。
俺のなけなしの理性が、アクセル全開の本能に急ブレーキをかけるために、最も言われたくない言葉を再現してきやがった。
ズガガガガガ、と火花が散って、これがもし車だったなら、エアバッグが飛び出すほどの大事故だ。
──現実では、俺の腕がエアバッグ代わりになり、彼女の肩を押し戻していた。
運動もしていないのに痛いくらいに息が上がり、肩が上下する。
掴まれてる肩、痛いかな、ごめんな、力加減分かんなくて、ごめん、でも、もう間違えたくない
「……ッ、ちゃんっと…!告白させて……!!」
久世は、ただびっくりしている。
時期尚早。
分かってるけど、もう無理だから
「好きだ……!」
「……俺と、付き合ってください…!」
ああ、ごめん、絶対今、手にすげぇ力入った、ごめん。
もうバラエティ番組の音なんかとっくに聞こえてなくなってて、ただ自分の鼓動だけが馬鹿みたいに鳴り響いてる。
久世はなんの音も立てない。
身を小さくして、揺れる瞳で俺を見ている。
いいんだ。分かってる。
「今は難しいことまで考えなくていい。…ただ、これだけは聞かせて」
「……俺のこと、好き?」
何も言わなくていい。
頷いてくれるだけでいい。
ほんのちょっと、その可愛い顔を縦に振ってくれ。
それだけで、俺は世界一幸せ者になれるから。
脈も、呼吸も、もう何も分からない。
全ての神経が、目の前のこの人に注がれている。
久世は戸惑ったように一度視線を下げて、そして再び、俺と目を合わせる。
切なげに潤む、でも真っ直ぐな瞳。
口元ははくはくと動いていて、…そういえばこの人って、大事なことは目を見て言う人だったなぁ、と思い出す。
「………大好き、」
「……大好き」
「……だいす、んっ、…」
唇を重ねるだけのことが、どうしてこんなにも気持ちいいんだろう。
久世の唇の柔らかさ、温かさに触れて、全身が歓喜する。くぐもった声がゼロ距離で聞こえて、薄らと目を開ければ、彼女がきゅっと目を閉じているのが見える。
好きだ。
好きだ。
角度を変えて、ふっくらとした下唇を食む。ぴくりと肩が跳ねるのが愛しくて、何度も、何度も、その開かれない唇にキスをする。
気付けば右手は久世の後頭部に添えられていて、左手は胸に置かれた久世の手首を握ってしまっていた。でももう止められない。もっと受け入れてほしい。もっと深く。もっと。欲が抑えられなくて、柔らかな唇を開かせるように舌を押し付けると、久世の自由な方の手が胸を押してきて、辛うじて、どうにか、唇を離すことができた。
するりと頬に手を添えると、柔らかなほっぺたはこれでもかと言うほど熱くなっていた。愛しくて、離れ難くて、額を付き合わせたまま熱い息を逃がす。彼女の呼吸も乱れていて、それだけで何もかも全て満たされるような、果てしなく喉が乾くような、そんな感覚がする。
「……、……、……ごめん…」
もう色々、自分としても色々想定外で、よく分からないまま謝れば、久世はふるふると首を横に振ってくれた。
「………で、でも…、」
「…ん…?」
この人の声って、こんなに甘かっただろうか。小さく、何かを言おうとする彼女の声に耳を澄ませる。
「……でも…付き合う、のはちょっと…、考え直してほしい」
「うん…、考える時間くらい………………ん?」
?
「ん?…ん?考える時間が欲しいって言ったんだよな…?」
「違くて。ちゃんと考え直してほしいの、黒尾に」
??
「俺は……考え直すことなんか……ないけど……」
「あるよ」
???
久世はすっと少し離れて、赤くなった顔を手でぱたぱたと扇いでいる。その恥じらった様子を見ていると、余計に彼女が何を言っているのか分からなくなってくる。考え直す?俺が??何を???死ぬほど好きな人があんな顔で大好きだなんて言ってくれて??チッスまでしちゃったのに??考 え 直 す ???
俺がポカーーンと呆けていることに気付くと、久世は慌てて説明をしてくれる。付き合う前にちゃんと確認しておいた方がいいことがあるでしょ、と。まぁ……それは……分かる。俺の気持はよッッッッ…ぽどのことがない限り変わらんけども、久世が確認したいことがあるなら、時間を使ってくれても構わない。でも彼女の言い方だと、俺“に”確認をさせたいらしい。「黒尾は私のこと舐めてるよ」って、えーっと、まぁ確かに舐めちゃったけども。
「し、資料を作ってまいりますので、それまでお待ちいただきたく、おお願い申し上げます…」
「し、資料……?」
資料とは…?
契約書的なsomething?
…あ、いや、そうか、そうだ、この人は久世透香さんだ。
クソ真面目で、一生懸命で、不安なことは調べつくすタイプで、やるとなったらやる人で……。そうだ、だから、これは彼女なりに、真剣に向き合ってくれている証拠だ。気持ちの昂りに任せるんじゃなく、ちゃんと、本気で考えてくれている。きっとお互いを大切にするために。俺もそれに応えたくて、ふぅーっとゆっくり息を吐いて、少しずつ冷静さを手繰り寄せる。
「……分かった。俺は待ってりゃいいの?」
「は、はい……、お、お待ちください……」
「ん、分かった」
もじもじ。
ぴゅぴゅぴゅぴゅぴゅーっ。
また彼女の頭の上に汗が飛ぶエフェクトが見えるけど、もうぼのぼ〇とは思えない。なかなか切り替えられない俺がそんな姿をじっと見詰めていると、久世は居た堪れなくなったのかすくっと立ち上がってカバンを手に取ってしまう。
「きょッきょッ今日はこれにてお暇します」
「え゛ッ、帰んの?」
いやそりゃいずれは帰るだろうけど……うわ帰したくねぇ。いやでも確かにこれ以上一緒に居んのも危ない…!送ってくって言えば、「ご勘弁を…今日は何卒ご勘弁を…」なんて必死に断られちゃうから、渋々諦めた。玄関で靴を履く彼女の後ろ姿をぼけっと見詰める。…この人が、俺のことを……。まだ全然実感がなくて、でも照れて困り果てているその姿を見ると、現実だ、と思える。あ〜……、帰んないでほしい。ずっとこっち見ててほしい。願いが通じたように、久世がくるりとこちらを向く。
「あの、あの、資料が完成しましたらご連絡しますので、それまではあの、メッセージのやり取りなども一旦ストップしていただきたく……」
「………」
「す、すぐ!すぐだから!ほんの数日だけだから!ねっ?」
俺がよっぽど微妙な顔をしてたのか、彼女は緊張子羊モードから母性の女神モードへと切り替わり、子供をあやすように慰めてくれる。その切り替えの早さなんなの?どんだけ俺を沼らせたら気が済むんだこの人。
俺と久世のメッセージのやり取りは、最近増えたものの、別に毎日続いてる訳じゃない。というかむしろ全然続かない。俺としては寝る直前までダラダラ話して、また次の日もダラダラ話を続けたりすんの結構好きなんだけど、久世は基本サクッと終わらせるタイプだ。だから数日トーク画面が動かないことなんかザラだし、むしろそれが普通。でもやっと気持ちが聞けたこのタイミング、そして盛り上がってキスまでしちゃって、付き合うかどうかは保留中…というこのタイミングで連絡するなと言われると、それなりに不安だ。でも久世のことだから、関係性が曖昧なまま接するのが苦手とか、そういうことなんだろう。久世が数日かけて本気で向き合ってくれるというのなら、俺も耐えよう。なるはやでお願いすると、THEビジネス会話って感じで了承された。
「では連絡をお待ちください」
「ん。気ぃ付けて帰れよ?今日、いつにも増して可愛いから」
「ひぃ〜…サヨナラ…」
「サヨナラはやめて?ちゃんとまたねって言って?」
迎えに行った時に言えなかったことも、今なら言える。だってこの人は俺のことが好きで、そしたらきっと、珍しくスカートを履いてきてくれたのだって意味があったはずだ。照れちゃって真っ赤になった久世が逃げるようにドアを開ける。追い掛けたいけど、今日はここまで。「ま、またね…」って頑張って言ってくれる愛しい人に「うん、また。待ってるからな」と念を押す。静かにドアが閉められて、彼女の足音が遠ざかっていった。
………
ん゛……
ん゛あ゛あ゛
あ゛ぁぁあ゛あぁあ゛あ゛あ゛あ゛
その場にしゃがみこんで、それだけでは足りず、背中から床に倒れる。
「大好き」…?大好きって言った……?
気持ちを伝えてくれた時の表情や、キスした時の感触がぶわっと蘇り、一人で悶える。
ヤバい。
ヤッッバい。
ヤバい………。
これ夢じゃねぇよな…?
確かめようにももう久世は帰ってしまったし、連絡をすることも許されない。とんだお預け状態だ。
でもいい。
俺の気持ちは真っ直ぐに伝わったし、通じ合った。
久世と。
「ン゙オ゙オ゙ォ゙ォ゙ァ゙ッッシ……!!!」
きったねぇ雄叫びを上げて、玄関前の天井へと拳を突き上げた。
──────────
二日後の夜、久世から資料提出の連絡がきた。
ファイル形式について相談されたから、生身で来い、というか行くって言って困らせて、その翌日、久世の部屋に行くことになった。
彼女がノートPCで見せてくれたのは、確認したいことが箇条書きにされたExcelファイル。しっかり表になっていて、隣の列にはチェックボックスまで付いてる。緊張している久世の隣で、その内容をじっくりと確認する。…予想していた通り、大体が「本当に私でいいのか」というような内容だ。中にはかなり勇気を出して書いてくれたであろう項目もあるし、その内容は俺にとっても軽いものではない。でもそれを付き合う前にわざわざ提示してくれたその健気さや誠実さに胸が締め付けられる。この人は本当に俺の事が好きなんだな。というか、本当に、俺を大事に思ってくれているんだな。これまでもたまに、彼女の眼差しに慈愛を感じていたけど、あれは気のせいではなかったらしい。この人の愛を感じる一方で、自己肯定感の低さというか、俺を大事にしようとしてくれる気持ちは見えるのに、自分を大事にしようという気持ちがあまり見えなくて切なくなる。…でもそれは、俺がやればいいか。俺はもうこの人以外考えるつもりはない。この程度の内容で変わったりしない。ポチポチとクリックをして、チェックを付けていく。
「っえ、えっ?待って、ちゃんと読んだ?」
「読んだ」
これはちょっと性格が悪いんだけど、俺は好きな人に欠点とか、面倒臭いところがある方が嬉しいと感じる。
他の男じゃ許容できないようなことを俺だけが受け入れて、“この人しか居ない”と思ってもらいたい。多分独占欲とかその類だ。依存してほしいとまでは思ってないけど、…いやでも、俺無しじゃ生きていけなくなっちゃえばいいのに、とかは、思うかも。
だからこの人の確認事項も、全部問題なし。他の男なら無理だと言うかも知れないけど、この人が「私を舐めてるよ」と言ったように、お前も俺を舐めてるよ。どんだけ惚れ込んでると思ってんだ。
「読んだ上で、問題なし。…他は?」
「…え、え…?でも…」
「この程度で諦めると思った?じゃあ言うけど、多分お前が思ってる100倍はお前のこと好きだから。生理的に無理とか、恋愛対象として見れませんとか、そういうこと言われない限り諦めることはねぇよ。覚えといて」
久世は言葉が出ないようで、口を開いては閉じて、不安げに視線を彷徨わせている。まだ確認したいことがあるかと、努めて優しく問いかけると、彼女は首を横に振った。そしてまだ少し不安そうな顔のまま、俺の方には確認したいことはないのかと聞いてくる。確認したいこと……なんだろう。再会してからもう何度も会っていて、この部屋で丸一日過ごしたこともあるから、生活感もなんとなく分かってる。恋愛観も…まぁ、全面的に合わせるつもりではあるし…。
「会う頻度……とか?なんか希望ある?」
「希望…?今までと変わるの…?」
「い゙…ままでの感じだと…、俺が、ちょっと、寂しいかも……」
「?!」
最近は有難いことに週一で会えてるけど、再会してからの平均を考えると半月に一回くらいのペースだ。そんなんじゃしぬ。むり。でも久世はそういう感覚ではないようで、結構びっくりさせてしまった。
「せめて二週間に一回は会いたいです」
「わ、分かりました……。あの、でも、私からは黒尾が望むほどアクションを起こせない可能性が高いかと…」
「でしょうね。いいよ別に。その内駄々こねるかも知んないけど、そん時はテキトーにあしらって」
「あしらっていいんだ……」
いいよ、それもご褒美だって言えば、心底理解し難いって顔されて、予想通りすぎる反応に思わず笑う。
───さて、もう、いいか?
彼女の方も多分、同じことを考えてる。これってもう、正式に付き合うってこと?と。なぁなぁにはさせないから、安心してくれ。彼女の膝の上で握られた拳にそっと手を添えて、目を合わせる。もう一度、先日と同じように「好きです。付き合ってください」と伝えると、消え入りそうな声で、「はい」と応えてくれた。
「ッッあ〜〜〜……!……ハグは、してもいい?」
「はい…ぐぇっ」
許可を得て、きつく抱き締める。
もはや“幸せ”とか、そんなひとつの単語で収まりきらないくらいに感情が溢れ出して、言葉にならなくて、ただ強く抱き締める。この人が腕の中に居る。それが、もう、たまらない。久世は「ぐぇ〜」とか「ぐるじ〜」とかちょっと呑気な声で言っていて、実際に苦しいとは思うけど、背中に回してくれた手は、ぽんぽんと優しく撫ぜてくれている。今まで、この人を想って苦しんだこと、傷付いたこと、たくさんあった。でももう全部、溶けてなくなった。今この瞬間に。「もうちょっとだけ我慢して」なんて囁いて、その後もしばらく、最愛の人を腕の中に閉じ込めた。